第15話 星降る夜の道標
【処刑まで――あと13日】
夕暮れの駅のホーム。
改札を抜ける電子音や、遠くで響く電車の走行音が心地よい雑音となって耳に届いていた。
ポケットの中でスマートフォンが短く震え、画面には友人からのどうでもいいスタンプが通知されている。
いつもの帰り道。
明日もまた、当たり前のように同じ日常が続くのだと思っていた。
けたたましいクラクションの音が、すべてを塗り潰すまでは。
ブレーキの摩擦音。悲鳴。
俺は咄嗟に腕を伸ばし、目の前にいた小さな背中を力任せに突き飛ばした。
直後、全身を叩き潰すような衝撃が走り、俺の身体は宙を舞った。
アスファルトに叩きつけられ、視界が急速にぼやけていく。
あの子は、無事だったのだろうか。今も元気に、あの当たり前の日常を生きているのだろうか。
確かな答えは、わからない。
音が遠ざかり、意識が深い泥の中へと沈んでいく交差点で、俺は仰向けのまま空を見上げた。
夕暮れだったはずの空が、いつの間にか深い星空のように見えた。
無数の光が一斉に流れ出し、夜空を埋め尽くしていく。
そして、その眩い光の中から、誰かが俺に向かってそっと手を差し伸べてきた。
顔は見えない。
気高く不器用な彼女にも、底知れない微笑みをたたえた聖女にも、静かに俺の背中を押してくれたメイドにも思えた。
それが誰なのか、判別できないまま――俺の意識は、ぷつりと途切れた。
◇
冷たい石の感触と、カビと埃の混じった匂いで目を覚ました。
身体を起こそうとすると、全身の筋肉が悲鳴を上げ、鈍い痛みが走る。
「……っ」
顔をしかめながら周囲を見渡す。そこは、深い森の奥にひっそりと佇む廃教会の礼拝堂だった。
崩れ落ちた屋根の隙間から、鬱蒼とした木々の影と、白み始めた朝の光が差し込んでいる。祭壇は朽ち果て、床には落ち葉と埃が分厚く積もっていた。
昨夜、ギークとザルエラから逃げるために村を飛び出し、無我夢中で森の中を走り続けた。木の根に足を取られて転び、枝に肌を切り裂かれながらも、振り返ることなく走り続けた。
そして、この廃教会に転がり込み、泥のように眠ってしまったらしい。
空腹で胃がひっくり返りそうだった。
だが、肉体の痛み以上に、俺の心を深く苛んでいたのは、圧倒的な絶望感だった。
『あなたには、生きていてほしいんです』
俺を逃がすために、バケモノのような暗殺者二人の前に立ちはだかったマリーの背中が、脳裏に焼き付いて離れない。
彼女がどうなったのか、俺にはわからない。
ただ、あの絶望的な実力差を思い出すたび、息が詰まりそうになる。
エリシアを救えなかった。アウロラは死んだ。そして、マリーを置いてきてしまった。
俺は弱い。ただの高校生で、剣の振り方すらまともに知らない。中古の剣一本で何かできると勘違いして、結果的に大切なものを失い続けている。
「……くそっ」
ひび割れた石畳を強く叩く。
何もできない自分が、たまらなく惨めだった。膝を抱え、薄暗い廃教会の片隅で、ただ震えることしかできなかった。
ふと、自分の肩に掛かる赤いマントが目に入る。ギークの大剣に裂かれ、森を逃げ回る中で泥にまみれたそのマントは、かつてエリシアが俺にくれたものだった。ボロボロになった布地は、今の無様な俺自身をそのまま象徴しているようだった。
――三十日後に処刑される悪役令嬢を幸せにしなければならない。
この世界に来たとき、神様から託されたその言葉が頭をよぎる。
神様がそう言ったから、俺は使命に従わなければならないのか?
……違う。
俺がエリシアを救いたいのは、神様に言われたからじゃない。
薪割りをして、不器用に言葉を交わして、あの深紅の花を大切に育てていた彼女の姿を、俺自身が知っているからだ。
世間がどれだけ彼女を悪役と呼ぼうと、俺は彼女が幸せに笑うところを見たい。
彼女を見捨てたまま、すべてを諦めるなんて絶対に嫌だ。
それに、マリーは命懸けで俺に未来を託してくれた。俺がここで心を折ってしまえば、彼女の覚悟を無駄にしてしまう。
恐怖は消えない。後悔も消えない。
けれど、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
俺は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
その時、マントのポケットの中で、カサリと乾いた音がした。
「これは……」
取り出したのは、一枚の星型の折り紙。
追悼式の日に、アウロラが『もし、本当に困った時に開けてください』と言って俺に渡してくれたお守りだった。
彼女は、自分が殺されることや、俺がこうして絶望の淵に立たされることを予測していたのだろうか。
震える指で、星型の折り紙を丁寧に開く。
中には、小さく折り畳まれた古い羊皮紙の地図と、短い一文が記されたメモが入っていた。
『星降の夜には東の空は燃えている』
暗号のような言葉だ。
俺は羊皮紙の地図を広げた。そこには王都周辺の地形が描かれており、いくつかの山や川の配置の他に、地図の端に奇妙な『記号の連なり』のようなものが書き込まれていた。
ただの詩的な表現とは思えない。これは間違いなく、次に進むべき場所を示す道標だ。
俺は地図とメモをしっかりと握りしめ、廃教会を後にした。
◇
森を抜け、陽がまだ高い日中に小さな村へとたどり着いた。
ギークたちの追手がいないか警戒しながら歩くが、疲労はとうに限界に達していた。衣服は泥と草の汁で汚れ、あちこちに切り傷やすり傷がある。
ふらつく足取りで歩いていると、村の広場で作業をしていた老人が、俺の姿を見て声をかけてきた。
「おい、青年。そんな格好で何をしている」
「……少し、道に迷って。あの、星降の夜について、聞きたいことがあるんですが……」
俺が焦るように切り出すと、老人は俺の深刻そうな顔と傷だらけの様子を見て、短く息を吐いた。
「星降の夜は逃げんよ。まずはその傷と格好をどうにかしなさい」
老人はそれ以上何も追及することなく、半ば強引に俺を自宅へと招き入れてくれた。
老人の家で風呂を借り、温かい湯に浸かる。
張り詰めていた緊張が解けると同時に、全身の傷の痛みと、強烈な空腹が押し寄せてきた。俺は自分がどれほど疲弊し、限界を迎えていたかをはっきりと実感した。
風呂から上がると、老人は俺に薪割りや野菜運びといった簡単な手伝いを頼んできた。
先を急ぎたい気持ちはあったが、客として世話になるだけでは申し訳ない。俺はその手伝いを引き受け、裏庭で斧を握った。
カーン……と、薪を割る乾いた音が響く。
木の匂い。手から伝わる振動。それは、エリシアの屋敷で毎日続けていた日課と同じ感触だった。
戦う力はない。けれど、この場所では、薪を割り、野菜を運び、食事の準備を手伝うことができる。
目の前の作業をこなすその何気ない時間が、強張っていた心を解きほぐし、俺を少しずつ現実に引き戻してくれた。
夜になり、老人とその娘、そして俺は食卓を囲んだ。
並んだのは決して豪華ではないが、湯気の立つ素朴で温かい家庭料理だった。
久しぶりに落ち着いて食事をとり、温かいお茶で一息ついたところで、俺は気になっていたことを切り出した。
「あの、星降の夜について教えて欲しいんです」
唐突な問いに、老人と娘が俺の方に不思議そうな視線を向けた。
「お主、星降の夜を知らんのか……? 年に数回、空いっぱいに光が流れる特別な夜のことじゃ」
「とっても綺麗な夜で、この村でも星降祭が開かれます」
「次はいつ頃になるか、わかりますか?」
「そうさなぁ……暦でいえば、次は半月ほど先じゃろうな」
半月。
その言葉に、俺は息を呑んだ。そんなに先では、エリシアの処刑に間に合わない可能性がある。焦りが胸の奥から込み上げてくる。
だが、この家での温かな時間のおかげで、少なくとも思考を整理するだけの余裕は残っていた。
俺はアウロラのお守りから取り出した地図を広げ、端に描かれた奇妙な記号の連なりを二人に見せた。
「この記号の並びを、見たことはありませんか? 文字として読もうとしたんですが、どうしても意味が掴めなくて」
老人は首をひねったが、娘が地図を覗き込んでハッとしたように言った。
「文字じゃないからですよ。これ、星の並び……星座ですよ」
「星座?」
「はい。『導きの星』という星座です。昔から『手の星』とも呼ばれていて、女神様が私たちを星降の夜に導いてくれる星だと、言い伝えられているんですよ」
娘の言葉に、俺は息を呑んだ。ただの記号ではなく、夜空に浮かぶ星の並びそのものだったのか。
夜空を眺めるのが好きだという彼女は、言葉を続けた。
「星降の時期になると、東の空に高く上がる星座です。でも、星降の夜にしか見えないわけじゃありません。今夜も見えますよ」
食事が終わると、俺は娘の案内に従い、村の近くにある小高い丘へ向かった。
夜風が心地よく吹き抜ける丘の上。見晴らしの良い場所で立ち止まると、そこにはどこまでも続く満天の星空が広がっていた。
「あれです」
彼女はすっと東の空を指さした。
彼女の指先の向こう、澄み切った夜空の一角で、ひときわ強い光を放つ星の群れが瞬いている。
俺は手元の地図と夜空を交互に見比べた。
あった。地図に描かれたものとまったく同じ形の星の並びが、確かに東の空で輝いている。
これなら、星降の夜を待つ必要はない。
俺はあらためて、羊皮紙の地図を注意深く観察した。
星座の図のすぐ近くに、小さな矢印のような不自然な印が書き込まれている。これは単純に目的地を指し示すものとは考えにくい。星座の形だけでは、地図上のどこへ向かえばいいのか特定できないからだ。
だが、この地図には三つの連なる山、湾曲した川、古い遺跡といった地形情報も詳細に描かれている。
『星降の夜には東の空は燃えている』
アウロラが残した暗号の真意が、俺の中でカチリと音を立てて繋がった。
この言葉は、星降の夜が来るまで待てという意味ではなかったのだ。
過去に星降の夜を観測し、その時、東の空が燃えるように見えた特定の地点。地図に描かれた地形情報と、この星座が東の空に見える方角を組み合わせれば、その観測地点を逆算できるのではないか。
星降の夜を待たなくても、目的地を探すことはできる。
「ありがとう。君のおかげで、道がわかったよ」
俺は娘に向かって、深く頭を下げた。
重く立ち込めていた絶望という暗雲の隙間から、一筋の確かな光が差し込んだ気がした。
◇
翌朝。薄明かりの中で目を覚ました俺は、枕元に置かれていたものを見て息を呑んだ。
綺麗に畳まれた、赤いマント。
大剣に裂かれていたはずの裂け目も、裾や袖口のほつれも、丁寧な縫い目でしっかりと塞がれている。
きっと、俺が眠った後、娘さんが夜なべして直してくれたのだろう。
そっと羽織ると、布地から微かな石鹸の香りと、言葉にならない温もりが伝わってきた。
その温もりに、ふとマリーの背中が重なった。俺を逃がすために立ちはだかった、あの小さな背中。今も無事でいてほしい。生きていてほしい。……そんな都合のいい願いだと分かっていても、願わずにはいられなかった。
俺は老人と娘を起こさないように、静かに家を出ようとした。
世話になった感謝は尽きないが、エリシアの時間が迫っている以上、これ以上長居するわけにはいかない。
しかし、家の外にはすでに老人が待っていた。
「何か急いで行かなきゃならんことがあるんだろう」
「……はい」
「理由は聞かんよ。じゃが、大切なもののためなら、今を大事にしなさい。行ってきなさい、青年」
老人はそれ以上理由を尋ねることなく、パンと少しの干し肉を包んだ布を俺に手渡した。
「道中、腹が減るだろう。持っていきなさい。君の無事を祈ろう、青年」
「……ありがとうございます。本当に……ありがとう」
深く頭を下げた俺に、老人はただ穏やかに頷き返してくれた。
見返りを求めないその何気ない優しさが、強張っていた俺の背中を温かく押してくれた。
昨日までとは違う。
俺は確かな意志を持って、一歩を踏み出した。
【処刑まで――あと12日】
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次回、第16話「最果ての魔女」は明日20:30更新予定です。




