第12話 聖女の死
【処刑まで――あと16日】
呼吸の仕方が、わからなくなった。
絨毯の上に広がる、赤黒い血の海。
美しい銀白色の長い髪と白銀の法衣が、その惨たらしい色に染まりきっている。
聖女アウロラ。
彼女の胸には、黒い柄に特徴的な銀の装飾が施されたダガーが、深々と突き立っていた。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような動悸が、鼓膜をガンガンと内側から叩く。
目を逸らさなければいけないのに、ピクリとも動かない彼女の顔から視線を外せなかった。
その傍らに、ひとりの人物が立ち尽くしている。
今朝から屋敷を不在にしていたはずの、エリシアだった。
彼女は、血の海を見つめたまま彫像のように動かない。いつもの冷たい微笑も、他人を寄せ付けない気高い仮面もなく、ただ茫然と立ち尽くしていた。
「……エリシア……?」
喉が引きつり、ようやく絞り出した俺の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。
青い瞳が激しく揺れている。
何か、言ってくれ。
お前がやったんじゃないって。マリーのダガーがなぜここにあるのか知らないって。ただの偶然なんだって。
「おい、エリシア。何か言えよ……!」
叫ぶ俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。
彼女の唇が微かに動く。
「シンイチ……あなたに言うことは何もないわ…」
かすれた、ひどく力のない声だった。
言い訳もしない。助けを求めようともしない。ただ、すべてを諦めたようなその言葉に、俺の頭は完全に真っ白になった。
その時だった。
廊下の向こうから、ガチャガチャと鎧が触れ合うけたたましい音と、複数の重い足音が近づいてきた。
「こっちだ! 悲鳴は奥の部屋からだ!」
乱暴に扉が開け放たれ、数人の騎士たちが雪崩れ込んでくる。
そして、最後尾から入ってきた壮年の男――王国騎士団長アギスは、部屋の惨状を前にして足を止めた。
アギスの視線が、血に染まったアウロラの遺体と、その傍らに立つエリシアを捉える。
歴戦の騎士団長である彼の顔が、一瞬だけ歪んだ。
「……はぁ」
アギスは深く、重いため息をついた。
「エリシア様」
アギスは低い声で言った。
「ご同行願えますか。この状況について、説明していただきたい」
エリシアは、何も答えない。
「あなたには今、アウロラ様殺害の容疑がかけられています」
冷徹な宣告。
それでも、エリシアは抵抗する素振りすら見せなかった。
騎士たちが無言で彼女を取り囲み、連行しようと腕を掴む。
「待ってくれ!」
気づけば、俺は前に飛び出していた。
彼女が無実だという証拠はない。アウロラを殺したのが誰なのか、俺には推理すらできていない。
それでも、目の前で彼女が連れていかれるのを、ただ黙って見ていることなんてできなかった。
「エリシア、逃げろ!」
俺は剣も持たない素手のまま、騎士たちの前に立ちはだかり、アギスに向かって飛びかかった。
勝てるわけがない。そんなことは分かっている。
ただ、エリシアを連れていかせたくない。その一心だけで身体が動いていた。
アギスは、向かってくる俺を見て小さく息を吐いた。
「はぁ……お前は……」
そして、俺の顔を見て微かに目を見開く。
「晩餐会のときの……」
アギスは一瞬だけ躊躇うような間を置き、静かに言い放った。
「弱いことは罪ではない。だが――」
「うおおおおっ!」
俺は彼の言葉を遮るように、握りしめた拳を振り上げた。
だが、その拳が届くことはなかった。
視界がブレた。
アギスは必要最小限の、それでいて素人には決して見切れない速度で身を沈め、俺の鳩尾に一撃を打ち込んだ。
「……ッ、がっ……!」
肺から空気が根こそぎ絞り出され、呼吸が止まる。
目の前が明滅し、俺はそのまま膝から崩れ落ちた。
圧倒的な、実力差。
冷たい床に頬が触れ、意識が遠のいていく。
ぼやける視界の端で、騎士たちに囲まれたエリシアが俺を見つめていた。
彼女の表情は、どこまでも悲しげだった。いつもの気高い仮面はない。
彼女の唇が動く。
『……ごめんね』
声は聞こえなかった。本当にそう言ったのか、薄れゆく意識が見せた幻なのかも分からない。
ただ、その顔を最後に、俺の世界は深い闇へと沈んでいった。
◇
冷たい石の感触で、目を覚ました。
ゆっくりと身体を起こそうとすると、鳩尾を焼け火箸で刺されたような痛みが走り、思わず呻き声を上げる。
「……ッ」
薄暗い空間。硬い床。そして、鉄格子。
見知らぬ監獄だった。
この痛みが、昨日の出来事がすべて現実であったことを残酷に証明している。
「……夢じゃ、なかったのか」
アウロラの死。そして、連行されていくエリシア。
暗い監獄の中で、俺は両手で顔を覆った。
エリシアを守れなかった。
アウロラの死の真相も分からない。
――三十日後に処刑される悪役令嬢を、俺は幸せにしなければならない。
そう神様に言われた。俺も、彼女を信じたいと思った。一緒に過ごす時間を、守りたいと願った。
なのに、俺は結局、何一つできなかった。
ただ無様に殴り倒され、気を失って、ここで目を覚ましただけだ。
自分の圧倒的な弱さと無力さが、どうしようもなく腹立たしい。
「……こんな現実なら、もう目覚めないほうがよかった」
かすれた声が、冷たい石壁に吸い込まれて消えた。
ガチャリ、と重い鉄の扉が開く音がした。
「おい、お前」
看守と、一人の衛兵が立っていた。
「釈放だ。出ろ」
俺は顔を上げた。
「釈放……?」
すぐに立ち上がり、鉄格子にすがりつく。
「エリシアは……? エリシアはどうなった!?」
看守は面倒くさそうに顔をしかめた。
「お前には関係のないことだ。本来なら、お前も公務執行妨害に問われるところだったが、騎士団長の慈悲だ。さっさと行け」
「そんな……エリシアに会わせてください! あいつは――」
「駄目だ。エリシアはここにはいない。今朝、パンデモニウム監獄へ移送された」
パンデモニウム監獄。
その名前が何を意味するのか、正確には分からない。だが、ここよりも遥かに厳重で、絶望的な場所であることだけは、その響きから容易に想像がついた。
エリシアが、遠ざけられてしまった。
もう手の届かない場所へ。
俺は再び、自分の無力さを突きつけられた。
◇
監獄から外へ出ると、眩しい日差しが目に突き刺さった。
夜が明けて、すでに翌朝になっていた。
王都の街は、昨日と何も変わらないように活気にあふれている。
だが、俺の世界は完全に壊れてしまっていた。
身体は鉛のように重い。足を一歩踏み出すたびに、鳩尾の痛みが俺の弱さを嘲笑っているかのようだった。
「……お迎えに参りました」
不意に、静かな声がした。
顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
見慣れたメイド服ではない。簡素なワンピースに地味な色のカーディガンを羽織った、街にいても全く目立たない普通の『街娘』の服装だった。
「……マリー」
俺は彼女の名前を呼んだが、それ以上言葉が続かなかった。
エリシアのこと、アウロラの死のこと。何が起きているのか、聞きたいことは山ほどあったはずなのに、それを問い詰める気力すら起きなかった。
エリシアを救えなかった。ただ、自分が何もできなかったという悔しさだけが、どす黒く渦巻いている。
「……俺、エリシアを幸せにするって言ったんだ」
声がかすれる。
「なのに……俺は……」
拳を握りしめるが、力が入らない。
マリーは、俺を責めることも、無理に慰めることもなかった。
ただ、静かに俺を見つめ、短く告げた。
「……お屋敷へ戻りましょう」
◇
マリーに連れられ、ヴァルグレイヴ家の屋敷へと向かう。
だが、屋敷の正面に続く大通りに出た途端、異様な空気に足を止めた。
屋敷の正門前には、怒号を上げる大勢の民衆が押し寄せていた。
「人殺し!」
「聖女様を返せ!」
「悪役令嬢を裁け!」
「ヴァルグレイヴ家は危険だ!」
昨日までは、エリシアはあの屋敷で暮らしていた。俺と一緒に薪割りをし、図書室で静かに本を読んでいた。
だが今は、彼女のいない屋敷に向かって、何も知らない人々が彼女を殺人犯だと決めつけ、憎悪の声を上げている。
胸が締めつけられる。
マリーは、民衆から見えない路地裏へ俺を誘導した。
そして、彼女が背負っていた布袋から、暗い色のローブを取り出した。
「こちらを着てください」
「……これは?」
「目立たないようにするためです。今のあなたが正面からお屋敷へ入るのは危険です」
マリーは、自身が街娘の服を着ている理由を示すように、周囲を鋭く警戒した。
「……ありがとう」
俺がローブを受け取ると、マリーは淡々と首を振った。
「お礼は後で結構です。今は、こちらへ」
マリーは正面玄関を大きく迂回し、屋敷の裏手へと回る。
俺もローブを深くかぶり、彼女の足跡を追った。
裏口から忍び込んだ屋敷の中は、正面の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
だが、その静けさは、どこまでも冷たく空虚だ。
エリシアは、いない。
アウロラも、もう戻ってこない。
これからどうすればいいのか、俺には全く分からなかった。
証拠もない。力もない。真相も分からない。
自分の弱さを思い知りながら、それでも俺は、暗い廊下へと足を踏み入れた。
【処刑まで――あと15日】




