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第11話 影の国

【処刑まで――あと16日】


 カーン……と、ひどく間の抜けた音が中庭に響いた。


 丸太の中心を外した斧が、弾かれて手元に鈍い痺れを残す。


「……っ、痛ぇ」


 俺は斧を取り落とし、小さく息を吐き出した。


 いつもなら無心になれるはずの日課の薪割りが、今日ばかりは全く手につかなかった。


 昨夜、竜騎士のマコトが残していった言葉が、頭の中で何度もリフレインしているのだ。


『この国は何かがおかしい』


 突如現れたというドラゴン。アウロラへの毒殺未遂事件に、エリシアの両親の不審な死。


 そして、三十日後にはエリシアが処刑されるという絶対的なタイムリミット。


 俺は、あまりにも何も知らなすぎる。このままここで漫然と薪を割っていても、事態は一ミリも好転しない。


「……こんなことしてる場合じゃない」


 俺は斧を薪割りの台に立てかけると、足早に屋敷の中へと引き返した。


 屋敷の中は、ひどく静かだった。


 それもそのはずだ。今朝、マリーが俺にこう告げていた。


『本日はエリシア様は終日外出されます。私も別用で屋敷を空けますので、昼食は厨房に用意してあります。適当な時間に召し上がってください』


 どこへ行くのかは聞いていない。ただ、普段なら寂しく感じるこの静寂が、今の俺には好都合だった。


 誰の目も気にせず、調べ物ができる。


 俺は一人、図書室の重い扉を押し開けた。


 図書室のひんやりとした空気の中、俺は片っ端から歴史書や地理の本を机に積み上げていた。


 マリーから教わった文字の記憶を頼りに、ページをめくる。


 数時間後。古い年代記のような書物をめくっていた俺の目が、ある一節でぴたりと止まった。


『影の国』


 おとぎ話のような見出しだったが、それは明らかに歴史的事実として記されていた。


 かつて、この表の世界とは異なる次元から『影の国』の軍勢が侵攻してきた時代があったらしい。


 その未曾有の危機に対し、王命を受けて事態を収拾したのが、エリシアの先祖であるヴァルグレイヴ家だった。


 驚いたことに、その先祖は武力で影の国を滅ぼしたわけではなかった。


 影の王と直接交渉し、不可侵の『和平』を結んだのだ。


 条件は二つ。


 影の国は表の世界へ干渉しないこと。そして、表の世界もまた、影の国を脅かさないこと。


 ヴァルグレイヴ家は代々、この和平を維持してきた。


 二つの世界の均衡を見守る「門番」のような役割を担ってきたというのだ。


「……ただの偉い貴族ってわけじゃなかったのか」


 世界の均衡。そんな途方もないものを、エリシアの一族は背負ってきたのだ。


 だとしたら、彼女の両親の死や、ドラゴンの出現は、その「均衡」が崩れかけているサインなのではないか?


 何かが繋がっている気はする。だが、俺の知識ではこれ以上の推論はできなかった。


 気分を変えるため、俺は別の棚へ向かった。


 王国の歴史が駄目なら、領地の行政記録から何か手がかりが得られないかと考えたのだ。


 書棚の奥。埃を被った古い資料の中に、一つだけ異質な空気を放っているものがあった。


 無骨な黒い革表紙のファイル。


 引き出してページを開くと、古びた紙と冷たい埃の匂いが舞った。


 過去の行政記録の束だ。退屈な数字の羅列をめくっていた俺の目は、ある一枚の記録用紙に釘付けになった。


 王国辺境にあったという、ある村の記録だった。


 用紙の上部には、事務的な文字でこう記されている。


『行政登録抹消』『村落解体』


 その下には、数十名ほどの住民たちの名前が一覧になって並んでいた。


 だが、俺の背筋を冷たくしたのは、その名前の横に記された印だった。


 住民一人一人の名前に横線が引かれ、その横に赤いインクで『×』印が付けられていたのだ。


 すべての名前に、例外なく。


 そして、記録用紙の一番下。


 執行者として記された署名は、見間違えようのない流麗な筆跡だった。


『エリシア・フォン・ヴァルグレイヴ』


「…………っ」


 息を呑んだ。


 間違いない。エリシアの名前だ。


 村の解体。住民登録の抹消。それにエリシアが関与している。


 だが、この記録には最も重要な情報が抜け落ちていた。


 なぜ村が解体されたのか。行政から消された住民たちは、どこへ行ったのか。


 この、おびただしい数の赤いバツ印は、一体何を意味しているのか。


「……まさか」


 静寂に包まれた図書室で、俺の声が微かに震えた。


 世間で語られる、冷酷な悪役令嬢としての噂。


 自分に逆らう者を容赦なく切り捨てる、冷徹な女。


 俺は、必死に頭を振った。


 違う。俺が知っているエリシアは、不器用だけど、鷹の羽を優しく撫でるような人間だ。邪魔な人間を村ごと消し去るような、そんな残酷な真似をするはずがない。


 俺は彼女を信じたい。


 けれど――俺は、彼女の何を『知っている』というんだ?


『やれることはしているわ』


 鷹狩りの森で、彼女はそう言っていた。


 もし、彼女の言う「やれること」の中に、障害となる人間を冷徹に排除することも含まれているのだとしたら?


 疑念が、逃げ場のない恐怖となって胸の奥へ広がっていく。


 俺は革表紙のファイルをパタンと弾くように閉じた。見なかったことにしたかった。だが、一度芽生えた疑いは、目を閉じても消えてはくれなかった。


     ◇


 エリシアに直接この記録を見せて、問い詰めるべきか。


 いや、今の俺には無理だ。彼女を恐れているこの気持ちを、俺自身がまだ整理できていない。もし彼女が本当に残酷な事実を口にしたら、俺は耐えられない。


 誰か、彼女以外の人間で、この国の裏側に通じている者に話を聞くしかない。


 ふと、一人の少女の顔が思い浮かんだ。


 聖女、アウロラ・セレスティア。


 彼女は表向き、エリシアと対立している。だが、毒殺未遂の事件のとき、アウロラは単なる怯える被害者ではなかった。あの場にいた誰よりも冷静で、どこか底知れない存在感を放っていた。


 何より――追悼式の日に中庭で会った彼女は、俺にこう言ったのだ。


『このままエリシア様のお側にいるのは危険です。あなた自身の身も危ない』


 あの時は、彼女の言葉の意味がよく分からなかった。エリシアから俺を引き離そうとしているだけだと思っていた。


 だが、もしアウロラが、俺の知らないエリシアの「裏の顔」を知っていたとしたら?


 ポケットの中を探ると、あの日アウロラから渡された星型の折り紙が、まだそこに入っていた。


『もし、この先、本当に困った時に開けてください』


 今がその「困った時」なのかどうかは分からない。だが、彼女なら、エリシアの過去について何か知っているかもしれない。


 この閉塞感をどうにかしたくて、俺は図書室を飛び出し、そのまま屋敷を後にした。


 アウロラが暮らす私邸は、街の中心部にある大教会の敷地内にあった。


 早足で石畳を踏みしめながら、俺はアウロラに何を尋ねるべきか、頭の中で必死にシミュレーションを繰り返していた。


 辺境の村の記録について聞くべきか。影の国との関係について探りを入れるべきか。


 大教会の正門を抜け、奥まった場所にある聖女の私邸へと向かう。


 やがて、豪奢だがどこか静謐な空気を纏う二階建ての屋敷が見えてきた。


 門をくぐり、玄関へと近づく。


 そこで、俺は微かな違和感を覚えた。


 静かすぎるのだ。


 聖女の住まいだというのに、玄関先に護衛の騎士の姿がない。庭の手入れをする使用人の姿も見当たらない。


 まるで、屋敷の周囲だけ時間が止まってしまったかのような、不自然な静寂。


 一歩、足を踏み出したときだった。


「――いやああああ!!」


 屋敷の奥から、空気を裂くような悲鳴が上がった。


 アウロラか、それとも他の誰かなのか。声の主はわからないが、明らかに尋常ではない叫びだった。


 背筋に冷たいものが走る。


 俺は考えるよりも先に駆け出していた。


 半ば開いていた玄関の扉を押し開け、大理石の床を蹴って廊下を走る。悲鳴が聞こえたのは、奥の応接室らしき方向からだった。


「おい! 誰か!」


 声を上げながら、俺は重厚な木製の扉に手を掛け、力任せに押し開けた。


 室内に飛び込んだ俺は、その光景を前に、呼吸を忘れ、完全に思考を停止させた。


 絨毯の上に、人が倒れていた。


 美しい銀白色の長い髪と白の法衣が、床に広がる赤い血の海に浸かっている。


 聖女アウロラ。


 彼女の胸には、柄の根元まで深々と短剣が突き立っていた。


 血に濡れてはいるが、ふと、その短剣の意匠に視線が吸い寄せられる。黒い柄に施された、特徴的な銀の装飾。


「……嘘だろ」


 俺は目を疑った。


 あれは俺が嘆きの洞窟へ向かうとき、マリーが護身用にと貸してくれ、実際に俺の命を救ってくれたあのダガーに酷似している。


 ……まさか。そんなはずはない。だが、血に濡れたその特徴的な意匠は、どう見ても同じものにしか思えなかった。


 アウロラはピクリとも動かない。


 そして、その倒れたアウロラの傍らに、ひとりの人物が立ち尽くしていた。


 金色の髪。青い瞳。


 今朝から屋敷を不在にしていたはずの、エリシアだった。


 な、なんで……?


 どうして、ここにいる?


 行き先は聞いていなかったが、ここは表向き敵対しているはずの聖女の私邸だ。二人はここで、何をしていたんだ……?


 断片的な疑問が嵐のように頭を駆け巡る。だが、血に染まった凄惨な光景が、俺からまともな思考力を奪っていた。


 エリシアは、俺が部屋に飛び込んできたことに気づいているはずだった。だが、彼女は彫像のように動かない。


 その顔には、いつもの冷たい微笑も、他人を寄せ付けない気高い仮面もなかった。


 ただ、目の前の事実を受け止めきれないような、ひどく脆く、今にも崩れ落ちそうな茫然とした表情を浮かべていた。


 先ほどの悲鳴を上げたのは、アウロラだったのか、それともエリシアだったのか。混乱する頭では、それすらも判断できなかった。


「……エリシア……?」


 絞り出すように呼んだ俺の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。


 青い瞳が激しく揺れている。彼女の唇が微かに動いたが、声は出なかった。


 頭の中が真っ白になる混乱の中、ふと、嫌な記憶がよみがえった。


 図書室で見つけた、あの無数の赤いバツ印の記録。


『このままエリシア様のお側にいるのは危険です』という、アウロラの警告。


 今朝『別用がある』と言って、屋敷を空けたマリーの不在。


 エリシアが、アウロラを殺したのか。


 それとも、あのダガーの持ち主であるマリーが、この惨劇に関わっているのか。


 わからない。何もわからない。


 動かない聖女。胸に突き立った見覚えのある刃。そして、立ち尽くす悪役令嬢。


 息の詰まるような血の匂いの中、俺はただ、絶望的な光景を見つめることしかできなかった。


【処刑まで――あと16日】

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