第10話 竜殺しの騎士
【処刑まで――あと18日】
「シンイチ様、起きてください」
淡々とした声とともに、部屋のカーテンがシャッと開かれた。
眩しい朝の光に顔をしかめながら、俺はベッドの上で寝返りを打った。
「……あと五分寝かせてくれ……頼む」
昨夜、俺は屋敷の図書室にこもって、夜遅くまで分厚い歴史書や周辺国の地理の本と睨み合っていた。
先日の毒殺未遂事件。あの夜、俺はただ突っ立っていることしかできなかった。貴族たちの言葉の裏も、王太子の思惑も、何も理解できなかった。
俺はこの世界のことを、あまりにも知らなすぎる。だからせめて、文字を覚え、この国の政治や歴史について少しでも知識を詰め込もうとしたのだが――慣れない活字との格闘で、今は強烈な寝不足に襲われている。
しかし、布団を被り直そうとした俺の抵抗は、マリーによって無慈悲に払いのけられた。
「起きてください。これからエリシア様の鷹狩りに付き添っていただきます」
「……は? 鷹狩り?」
寝起きの頭で聞き返し、俺はのそりと身を起こした。
「はい。領地内の森へ向かいます。シンイチ様も同行するようにと、エリシア様から指示が出ております。すぐに出発の準備を」
「急だな、おい……わかったよ」
大あくびを噛み殺しながら、俺は慌ててベッドから這い出した。
◇
秋の深まる森には、ひんやりと澄んだ空気が満ちていた。
木漏れ日が色づいた落ち葉を照らし、風が吹き抜けるたびに木々がざわめく。
公爵令嬢の外出ということもあり、一行はなかなかの大所帯だった。エリシアと俺、そしてマリーの他にも、周囲の警戒にあたる複数の護衛騎士たちや、荷物や食事の世話をする使用人たちが同行している。
少し開けた場所で、エリシアは馬を止め、革の手袋をはめた腕に立派な鷹を乗せていた。
彼女が静かに腕を振ると、鋭い鳴き声とともに鷹が大空へと舞い上がる。
空を旋回する鷹を見上げるエリシアの横顔は、いつもの冷徹な悪役令嬢の仮面とは少し違い、視線は鋭くも穏やかだった。
やがて鷹が戻ってくると、エリシアは迷いのない動作で腕に受け止めた。
「よくやったわ」
鷹の翼の具合を確かめるように、彼女の指先が繊細な手つきで羽毛を撫でる。護衛や使用人たちも、彼女の所作を邪魔することなく、息を合わせて自然に動いていた。
だが、俺の頭にはどうしても重い事実がよぎってしまう。
周囲からのいわれのない犯人扱い。そして、不可解な事故で亡くなった彼女の両親のこと。
夜更かしのせいだけではなく、彼女の抱える重圧を思うと、清々しい森の中にいても頭が痛くなってくる。
「朝から顔色が悪いわよ、シンイチ。」
エリシアは、鷹の翼をゆっくりと撫でながら言った。
「私を幸せにするとかなんとか言ってたけど、そろそろお家が恋しくなってきたのかしら?」
「まあ、味噌汁とか飲みたくはなってきたけど…いや、そうじゃなくて」
俺は少し迷ったあと、彼女に視線を向けた。
「エリシア。こんなときに聞くのも何だけど……三十日後の話、何かできることはないのか?」
俺の唐突な問いに、エリシアは微かに目を細めた。怒っているわけではない。ただ、静かな湖面のような瞳で俺を見つめ返してくる。
「やれることはしているわ」
彼女は短くそう答えた。具体的な事情は何も語らない。
だが直後に、ほんのわずかに口元を和らげ、からかうような視線を俺に向けた。
「それにしても図書室があなたの新しい寝室になったのかしら? ベッドの方が疲れが取れると思うけれど」
「なっ、なんで知ってるんだ!」
「ふふ。この世界のことを学ぼうとする姿勢は評価してあげる。でも、今はせっかく外に出たのよ。余計なことは忘れて、この森の空気を楽しまないとね」
ふわりと風が吹き、彼女の金髪が揺れた。
彼女は、死を受け入れているからこそ平静でいられるのだろうか。それとも、まだ抗う術を持っているのだろうか。
俺には判断できなかった。エリシアが抱えているものの重さを、俺はすべて理解できているわけではない。
「……そうだな」
今は彼女の言葉を真っ直ぐに受け止めることしか、俺にはできなかった。
◇
鷹狩りが続く中、俺は一行の陣地から声が届く範囲で、少しだけ森の小道を歩いていた。
足元の落ち葉を踏む音を聞きながら、木々の間を抜ける風を肌で感じる。
図書室で見た地図によれば、この森は王国の国境に近い。嘆きの洞窟とはちょうど反対方向に位置する場所だったはずだ。
穏やかな時間だった。
だが、ふと道から外れた茂みの方に目を向けると、微かな異変に気づいた。
「……ん?」
最初は、古い布か何かが落ちているように見えた。
しかし、目を凝らすと、それが人間だとわかる。
「おい!」
俺は慌てて駆け寄った。
倒れていたのは、若い女性だった。
日焼けした健康的な小麦色の肌に、栗色の長いポニーテール。彼女が身につけているのは、深緑を基調とした竜をモチーフとした軽装甲だった。そして装備品には見たことのない竜の紋章が入っていた。
だが、その特徴的な衣装は泥や土埃で汚れ、あちこちに戦闘によるものと思われる無数の傷が刻まれていた。露出した肌にも擦り傷や痛々しい打撲の跡がある。
すぐそばには、大型の槍が転がっている。
明らかに普通の旅人ではない。
「大丈夫か!? しっかりしてくれ!」
不用意に身体を動かさないよう慎重に近づき、俺は声をかけた。
「う……」
女性は意識が朦朧とする中、わずかに唇を動かした。
「……ドラゴンが……」
かすれた声で呟き、その一言を残して彼女は完全に意識を失った。
ドラゴン――?
予想もしなかった単語に、俺は息を呑んだ。
彼女が何者なのか、一体何があったのかはわからない。だが、このまま放っておくわけにはいかない。
俺は彼女を助けなければと、マリーたちを呼ぶために振り返った。
◇
屋敷の客間に運び込まれた女性は、すぐに医師の手当てを受けた。
「エリシア様、おそらく隣国の騎士かと。気を失ってはいるものの命に別状はありません」
医師は、エリシアに言った。
「なるほど。他国の人間を助けたことで、面倒な問題が起こる可能性はあるわね」
身元の確かな他国の騎士を無断で匿うことが、貴族社会でどんなリスクを生むか。彼女は瞬時に計算していた。
しかし、少し考えたあと、彼女はあっさりと付け加えた。
「……まあ、恩を売っておくのも悪くないでしょう」
冷徹な政治的打算を装った、エリシアらしい言い回しだった。
◇
数時間が経ち、ようやく女が目を覚ましたと報告が入った。
俺が急いで客間へ入ると、すでにエリシアとマリーがベッドの傍らに立っていた。
ベッドの上で身を起こした女は、俺の姿を認めると短く礼を口にした。
「君が私を見つけてくれたと聞いた。恩に着る」
「いや、エリシアの判断のおかげだよ。俺は運んだだけだ」
マコトと名乗った彼女は、痛む身体を庇いながら真っ直ぐにエリシアを見た。
「エリシア様、ありがとうございます。私はガレイド王国の第2竜騎士団に所属しているマコト・ハーリアだ」
「竜騎士……?」
俺が聞き返すと、エリシアが静かに補足した。
「竜騎士はガレイド王国の象徴。ドラゴンを討伐するための専門の騎士よ。ただ、ここ百年近く、ドラゴンが現れたという記録はないはずだけれど?」
探るようなエリシアの視線に、マコトは重く頷いた。
「ああ、その通りだ。ドラゴンは長きにわたり姿を見せることはなかった。我々は代々、有事に備えて国を守ってきたが――」
マコトの表情が険しくなる。
「しかし、先日ドラゴンが現れたんだ」
マコトの言葉に、部屋の空気が張り詰める。
「ドラゴンが?」
エリシアの眉が、かすかに動いた。
「ええ」
「そんなにヤバいのか? ドラゴンって」
「ええ。ドラゴンは通常の魔物とは次元が違う、甚大な被害をもたらす天災に近い存在よ」
エリシアが静かに答える。
「私はドラゴン討伐部隊として前線に出たが……ドラゴンの圧倒的な力の前に、部隊は散り散りになった。ドラゴンが別の方向へ飛び去った隙に、私はどうにか戦場を離れることができたんだ」
マコトは悔しそうに唇を噛んだ。
突然現れたドラゴンが、なぜ姿を現したのか。マコトにも原因はわかっていないようだった。
「……ドラゴンね」
エリシアはそれ以上何も語らなかったが、ドラゴンの出現という事実に対して、彼女なりの違和感を覚えているようだった。
◇
翌朝。
屋敷は、いつもより少しだけ騒がしかった。
昨夜、手当てを受けて休んでいたはずのマコトが、姿を消したらしい。
廊下では使用人たちが小声で話し合い、彼女を最後に見かけた時間や、出入り口の様子を確認していた。どうやら、朝になって彼女の部屋を訪ねた使用人が、もぬけの殻になっていることに気づいたようだ。
俺は中庭に出て、朝の紅茶を飲んでいるエリシアを見つけた。
「エリシア。マコトがいなくなったみたいだ」
彼女はカップを口元から離し、ちらりと俺を見た。
「……そう」
それだけだった。
「心当たりとか、ないのか?」
「本人に聞いてみなければ、わからないわね」
エリシアはそう答えると、再び紅茶に口をつけた。
驚いているようにも、慌てているようにも見えない。
まるで、彼女がいなくなることを、どこかで予想していたかのように。
……いや、考えすぎか。
マコトは昨夜、まだ傷が残っている身体で、ドラゴンの話をしていた。自分の国で何が起きたのか、仲間たちはどうなったのか。気がかりなことはいくらでもあるはずだ。
それでも、ひと言くらい残していってもよかったんじゃないか。
助けてもらった相手に礼も言わずに出ていくような人には見えなかった。
屋敷の者たちが玄関や門の周辺を確認していたが、マコトは見つからなかった。自分の足で屋敷を出ていったのは間違いなさそうだ。
ドラゴンの危機を知らせるために国へ戻ったのか。それとも、俺たちには話せない事情があったのか。
考えても答えは出なかった。
「シンイチ。頼んでいた買い物、忘れないでちょうだいね」
「あ、ああ。わかってる」
エリシアに言われて、俺はようやく今日のお使いを思い出した。
結局、マコトがどこへ向かったのかはわからないまま、俺は屋敷を出ることになった。
気にはなる。
けれど、今の俺には、彼女を探しに行く理由も、探し出す手がかりもなかった。
◇
頼まれていた蜂蜜を買い、街の通りを歩いていると、表通りから少し外れた裏路地で一人の人物とすれ違った。
目立たないようにフード付きのローブを深く被っているが、背負われた大型の槍には見覚えがあった。
「……マコト?」
声を掛けると、ローブの人物が足を止めた。
フードの奥で、栗色の瞳がこちらを向く。やはり、昨夜助けた竜騎士のマコトだった。
「こんなところで何してるんだ? まだ傷も治ってないだろ」
俺が尋ねると、マコトは小さく息を吐いた。
「助けてもらったことには感謝している。エリシア様にも、礼を伝えておいてくれ」
「屋敷に戻らないのか?」
「ああ。これ以上、迷惑はかけられないし、私にもやらなきゃならないことがある」
マコトは毅然とした声で言い切った。
「それじゃあ。」
彼女は、軽く頭を下げると、ローブの襟元を直し、立ち去ろうとした。
けれど、ふと何かを思い出したように足を止め、俺を振り返った。
「……君、ひとつ聞いてもいいか?」
「何だ?」
「この国には、いつからいる?」
唐突な質問に、俺は一瞬返事に詰まった。
「え? あー……まあ、最近かな」
「やっぱりな」
「やっぱりって、何が?」
「この国の人間なら、昨夜の話を聞いて、あんな顔はしないと思ってね」
「昨夜の話?」
「ドラゴンのことさ。君は驚いていたが、それだけじゃない。まるで、何が起きているのか、何も知らないような顔をしていた」
思わず言葉に詰まる。
実際、何も知らないのだから仕方がない。
マコトは俺の反応を見て、小さく肩をすくめた。
「まあ、私の勘違いかもしれないが……君は少なくとも、この国やこの周辺の事情に詳しい人間じゃない。違うかい?」
「……まあ、そんなところだ」
俺は曖昧に答えた。
まさか、別の世界から来たなんて説明するわけにもいかない。
「なら、余所者の君に忠告しておこう」
マコトの表情が、ふっと険しく引き締まった。
「この国は何かがおかしい」
「何かって?」
唐突な言葉に、俺は眉をひそめる。
「ドラゴンの件も、私はこの国が関わっていると思っている」
「この国が関わってるって……どういうことだよ」
驚く俺を見て、マコトは自嘲気味に首を振った。
「すまない。今のところ、これは私の感覚でしかないんだ」
確たる証拠があるわけではない。ただ、隣国から来た彼女の直感が、この国に漂う危険な匂いを嗅ぎ取っているらしかった。
マコトは、俺の目を見て、少し表情が柔らかくなった。
「君も、気をつけて。この恩は忘れない」
マコトはそれだけを告げると、足早に裏路地の奥へと姿を消した。
俺は一人、その場に取り残された。
◇
屋敷に戻った俺は、自室のベッドに腰を下ろしたまま、マコトの言葉を何度も頭の中で繰り返していた。
エリシアの30日後の死の運命。
追悼の宴で起きた、アウロラへの毒殺未遂事件。
エリシアの両親の不可解な死。
そして、突如現れたというドラゴン。
マコトが告げた、この国への疑念。
これらがすべて繋がっているのかどうか、この世界では『余所者』でしかない俺にはわからない。
明確な証拠もないし、歴史や政治の知識も圧倒的に不足している。魔法の才能だって皆無だ。
鷹狩りのとき、エリシアは言っていた。
『やれることはしているわ』
彼女は、俺が知らないところで何かを進めているのだろうか。
俺にはわからない何かを知っているのだろうか。
それとも、あの落ち着いた様子は、自分の運命をすでに受け入れているからなのだろうか。
ただ一つ確かなのは、もし彼女が何かをしているのだとしても、俺はまだ何もできていないということだ。
図書室で本を読んで知識を詰め込んでも、すぐに答えが出るわけじゃない。行動を起こすための手掛かりすら、俺は持っていない。
残酷なことに、処刑までの時間は確実に減っていく。
俺は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
「俺は、どうすればいい?」
答えのない問いだけが、部屋の静寂の中に吸い込まれていった。
【処刑まで――あと17日】




