【第9話】 名前のない影
風が戻った翌日、街は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
だが紬の胸の奥には、昨日返してもらった名前の欠片がまだ不安定に揺れていた。
「風花」という響きは確かに戻ったのに、どこか輪郭が曖昧で、触れようとすると指先からすり抜けていく。
紬は観察ノートを抱え、古道具屋の前で深呼吸した。
ルクは肩で小さく跳ねるが、昨日の影の少女と接触したせいか、光が少し弱い。
「紬、今日は影の少女のことを調べよう」
蓮が静かに言った。
彼女の声はいつもより慎重で、紬の胸にそっと触れるようだった。
「うん。名前を失った理由……知りたい」
紬はノートを開き、昨日少女が返してくれた名前の欠片の響きを記録する。
その響きは温かいのに、どこか悲しみを含んでいた。
紬と蓮は、影の少女が現れた場所へ向かった。
広場の端には、昨日の糸の残滓がまだ薄く漂っている。
透明で、光の残滓だけが揺れている。
「この糸……紡ぎ手のものじゃない」
蓮が言った。
「じゃあ、誰の?」
紬は糸に触れようとするが、ルクが慌てて止めた。
「紬、触っちゃダメ! これは……名前を失った人が残す糸だよ」
紬は息を飲む。
名前を失った人が残す糸――
それは、紡ぎ手とは別の存在が生み出すものだ。
「影の少女は……紡ぎ手じゃないんだね」
紬が呟くと、蓮は頷いた。
「うん。紡ぎ手の糸はもっと冷たくて、規則的。昨日の少女の糸は……揺れてた。迷ってるみたいに」
紬は胸の奥が痛くなるのを感じた。
名前を失った少女は、ただ迷っていたのかもしれない。
そのとき、風がふわりと揺れた。
ユイが駆け寄ってくる。
「紬! また声が聞こえた!」
「声?」
紬は息を飲む。
ユイは風を集めるように目を閉じた。
「風の中に……昨日の少女の声が混ざってる。すごく弱いけど、確かに聞こえる」
紬は風の流れに耳を澄ませる。
すると、かすかな声が風に乗って届いた。
――名前が、ほしい。
――返したい。
――でも、怖い。
紬は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
少女は紬の名前の欠片を返したが、それでもまだ名前がないままなのだ。
「紬、少女は君を呼んでる」
蓮が言った。
紬はステッキを握りしめる。
「……行かなきゃ」
風の声を頼りに、紬たちは街外れの古い公園へ向かった。
公園は人影がなく、ブランコが風に揺れている。
その揺れ方は、どこか不自然だった。
「ここだ……」
ユイが囁く。
ブランコの影が、ゆっくりと形を変えた。
昨日の少女だ。
髪は糸のように細く、瞳はかすかに光っている。
「……来てくれた」
少女は紬を見つめる。
紬は一歩近づく。
「名前、返してくれてありがとう。あなたの名前は……?」
少女は首を振る。
「ないの。奪われたの。ずっと前に」
蓮が眉をひそめる。
「紡ぎ手に?」
少女は少しだけ考え、ゆっくり頷いた。
「たぶん……そう。でも、はっきり覚えてない。名前がないと、記憶も揺れるから」
紬は胸の奥が痛くなる。
名前を失うことは、存在の輪郭が曖昧になること。
記憶も、感情も、過去も揺れてしまう。
「紬……お願い。名前の響きを、少しだけ貸して」
少女は震える声で言った。
蓮が叫ぶ。
「紬、ダメ! 昨日も響きを預けたばかりなのに!」
紬は蓮の手を握る。
「大丈夫。昨日返してもらったから、少しだけ余裕がある」
蓮は唇を噛む。
「紬……お願いだから、消えないで」
紬は少女の瞳を見つめる。
その瞳は、紡ぎ手の冷たさとは違う。
ただ、名前を失った痛みだけが揺れていた。
紬は静かに言った。
「……少しだけなら、貸すよ」
少女は紬の胸に手を伸ばし、名前の響きをそっと受け取った。
その瞬間、少女の瞳が少しだけ明るくなる。
「ありがとう……紬。これで、少しだけ思い出せる」
少女はふわりと揺れ、風の中に消えた。
少女が消えた後、ブランコの下に小さな紙片が落ちていた。
紬は拾い上げる。
それは――古い写真の切れ端だった。
写真には、幼い少女と、誰かの手が写っている。
少女の顔は影で隠れているが、手を握る人の指先は優しく触れていた。
蓮が写真を見て、息を飲む。
「これ……紡ぎ手の糸に似てる。少女は、紡ぎ手と関係があるかもしれない」
紬は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
名前を失った少女と紡ぎ手――
二人の間に何があったのか。
紬は写真を観察ノートに挟み、静かに言った。
「……少女を助けたい。名前を取り戻せる方法、探す」
蓮は紬の手を握り、強く頷いた。
「一緒に探そう。絶対に」
あとがき(紬の日記)
影の少女が名前を返してくれた。
でも、まだ名前がなくて揺れていた。
写真の切れ端が胸に残ってる。
紡ぎ手と少女の関係……気になる。
明日は少女の名前を探す手がかりを集めたい。




