【第10話】 影の少女の記憶
夜の公園で拾った古い写真の切れ端は、紬の観察ノートの中で静かに存在感を放っていた。
少女の手を握る誰かの指先――その優しい触れ方は、紬の胸の奥に小さな痛みを落とした。
「この写真、もっと調べよう」
蓮が言った。
彼女の声はいつもより慎重で、紬の胸にそっと触れるようだった。
紬は頷き、古書館へ向かう準備をした。
影の少女の名前を取り戻すための手がかりは、きっとこの写真の中にある。
古書館の扉を押すと、紙と埃の匂いがふわりと迎えた。
女主人は静かに微笑み、紬の手にある写真の切れ端を見つめた。
「これは……古い記録の一部ね」
女主人は写真をそっと受け取り、奥の棚から分厚いアルバムを取り出した。
「この街には、昔“名前を失った子ども”の記録があるの。誰もその子の名前を覚えていないまま、記録だけが残った」
紬は息を飲む。
「影の少女……?」
女主人はゆっくり頷いた。
「可能性は高いわ。名前を失うと、存在が揺れ、影のように薄くなる。記憶も曖昧になり、誰かの名前の響きに引き寄せられることもある」
紬は胸の奥が痛くなる。
少女が紬の名前の欠片を持っていた理由が、少しだけ見えた気がした。
アルバムのページをめくると、古い写真がいくつも貼られていた。
祭りの夜、屋台の灯り、子どもたちの笑顔――
その中に、紬が拾った切れ端と同じ構図の写真があった。
「この子……」
紬は指先で写真の少女をなぞる。
少女は笑っていた。
だがその笑顔は、どこか影が差しているように見えた。
「名前は……書かれていない」
蓮が呟く。
女主人は静かに説明する。
「この子は、ある日突然名前を失ったの。家族も、友達も、誰も呼べなくなった。呼ばれない名前は、響きを失い、消えていく」
紬は胸の奥が冷たくなる。
「……呼ばれないと、名前は消えるんだ」
女主人は頷く。
「名前は“呼ばれることで存在する”の。あなたの名前が薄れたのも、影の糸が響きを奪ったから。でも、蓮さんが呼び続けたから戻った」
紬は蓮の方を見る。
蓮は少し照れたように微笑んだ。
「紬は紬だよ。呼べば戻る」
胸の奥が温かくなる。
名前の響きが、少しだけ強くなった気がした。
古書館を出ると、ユイが駆け寄ってきた。
「紬! また風の中に声が混ざってる!」
紬は耳を澄ませる。
風の流れに、かすかな声が揺れていた。
――思い出したい。
――名前が、ほしい。
――でも、怖い。
紬は胸の奥が締めつけられる。
少女は名前を取り戻したいのに、恐れている。
「紬、少女は君を呼んでる」
蓮が言う。
紬はステッキを握りしめる。
「……行こう。少女の名前を探すために」
風の声を頼りに、紬たちは街外れの廃屋へ向かった。
屋根は崩れ、壁には古い落書きが残っている。
その落書きの中に――少女の名前らしき文字があった。
「これ……名前?」
紬は指先で文字をなぞる。
だが文字は途中で途切れていた。
「み……」
その先が読めない。
蓮が眉をひそめる。
「名前の響きが奪われたとき、文字も消えることがある。これは……少女の名前の残骸かもしれない」
紬は胸の奥が痛くなる。
少女は名前を失い、文字まで消えてしまったのだ。
そのとき、廃屋の奥からかすかな光が揺れた。
影の少女が現れた。
「……来てくれた」
少女は紬を見つめる。
紬は一歩近づく。
「あなたの名前、探してる。返したい」
少女は震える声で言った。
「名前……思い出したい。でも、怖い。思い出したら……痛い気がする」
紬は胸の奥が締めつけられる。
名前を失った痛みは、思い出すことさえ怖くなるほど深いのだ。
紬は静かに言った。
「一緒に探そう。痛いなら、私が支える」
少女は紬の胸に手を伸ばし、かすかに光を揺らした。
「……ありがとう。紬」
その瞬間、少女の瞳に小さな光が灯った。
名前の響きの欠片が、少女の中で揺れ始めた。
少女が消えた後、廃屋の床に小さな紙片が落ちていた。
紬は拾い上げる。
それは――少女の名前の最初の一文字だった。
「み……」
紬は呟く。
蓮が静かに言った。
「紬、これは大きな手がかりだよ。少女の名前は、きっと“み”から始まる」
紬は胸の奥が温かくなるのを感じた。
少女の名前の響きが、少しだけ近づいた。
あとがき(紬の日記)
少女の名前の最初の一文字を見つけた。
“み”という響きが胸の奥で揺れている。
名前を失う痛みを、少しだけ理解できた気がする。
蓮が呼んでくれる声が、今日も私を支えてくれた。
明日は少女の名前の続きを探したい。




