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仮番のはずが、本当の番は宿敵の人狼公爵でした  作者: ワシワシ/三月ふゆ


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 満月の夜から、数日ほど、リーゼは妙に自分の手元を気にするようになった。

 書類をめくる時も、茶器を持つ時も、髪を梳く時も、ふとした瞬間に思い出してしまうのだ。

 月の下、ルシアンの頬に触れた自分の指先を。

 そして、首筋の毛並みを整えられた時の、あのどうしようもない熱を。

 おかしい。

 あれは事故だ。

 事故で、流れで、雰囲気で、ほんの軽く触れただけ。

 なのに、どうしてこうまで尾を引くのだろう。

 リーゼは朝の身支度を終え、鏡の前で耳飾りに触れた。

 鏡の中の自分は、ひどく平静を装って見える。

 装っているだけだ。

 胸の奥は、ちっとも静かではない。

 好きになってしまった。

 あの夜、はっきりそう思った。

 思ってしまった以上、もう知らないふりはできない。

 でも、だからといってどうしろというのだ。

 ルシアンはあくまで、好敵手への友情で動いている。

 そうでなければ、あんな言い方はしない。

 あんなふうに、守るとも愛してるとも言わず、ただ「気に食わないから協力する」とだけ言って、こちらに余計な期待を持たせないはずだ。

 そこへ自分だけが恋心を持ち込むのは、やっぱり失礼ではないのだろうか。

「お嬢様?」

 マルタの声で、リーゼははっとした。

「どうなさいました?」

「……なんでもない」

「最近、よく“なんでもない”とおっしゃいます」

「そうかしら」

「そうです」

 マルタは櫛を片づけながら、少しだけ笑った。

「本日はフェンリル家から使いの方がいらっしゃるそうです」

 リーゼの肩が、わずかに跳ねた。

「そう」

「何かお伝えしたいことでも?」

「ないわ」

 即答してから、少し早すぎたかもしれないと思った。

 マルタは口元を押さえ、何か言いたそうにしたが、結局は何も言わなかった。

 ありがたい。

 今つつかれたら、きっとろくな顔ができない。

 昼前、セレニア家の応接間に届けられたのは、フェンリル家からの正式な文書だった。

 文面そのものは堅い。

 婚約式当日の件について、今後しばらく両家の往来を増やし、儀礼上・実務上の調整を行いたい、というものだ。

 要するに、仮に結ばれた番として、外から見て不自然でないだけの接点を増やす、ということだった。

 父は文書を閉じ、リーゼへ視線を向けた。

「フェンリル家はきちんとしている」

 それが最初の一言だった。

「ローゼンベルク家のように、曖昧なまま力で押し通すつもりはないらしい」

 リーゼは黙って頷いた。

「お前は、明日の訪問に同席しなさい」

「……わかりました」

 内心は少しだけ複雑だった。

 会いたい。

 でも、会えばきっとまた余計なことを考える。

 翌日、フェンリル家の別邸は、セレニア家とはまた違う静けさに満ちていた。

 華やかさを誇るというより、必要なものだけがある、という印象だ。飾り立てる趣味がないのか、あるいは飾らなくても十分なのか。

 たぶん両方だろう、とリーゼは思った。

 応接室へ通されると、先にいたのはルシアンではなく、その父だった。

 フェンリル公は落ち着いた人で、息子ほど人の癇に障る言い回しをしない。ただ、その分だけ見ているものが多い気がした。

「このたびは息子がご息女を驚かせたようで」

 にこりともしないまま言われて、リーゼは少し困る。

「いえ……」

「もっとも、枝を受け取ったのはあれのほうですが」

 その一言で、フェンリル公の口元がほんの少しだけ緩んだ。

 似ているようで、全然似ていない。

 そんなことを考えた時、遅れてルシアンが入ってきた。

「悪い、遅れた」

 そう言った本人は、まったく悪びれていなかった。

 父に一瞥されて、さすがに少しだけ肩をすくめる。

 リーゼと目が合う。

 ほんの一瞬だけ、あの満月の夜が二人のあいだによぎった気がして、リーゼはあわてて視線を外した。

 ルシアンも何も言わない。

 言わないのに、なんとなく落ち着かない。

 話し合いそのものは、驚くほどまともに進んだ。

 今後しばらくの訪問頻度。

 人前での距離感。

 両家に不利益が出ないようにするための根回し。

 全部、必要な話だ。

 必要なのに、リーゼは時々、横に座るルシアンの存在ばかり気になってしまう。

 脚を組み替える気配。

 紙をめくる指。

 不意に落ちる視線。

 そんなものをいちいち拾ってしまう自分が嫌だった。

 会談が終わり、父同士の話が少し長引くあいだ、リーゼとルシアンは庭へ出された。

 初夏の花が少しずつ色づき始めた庭だった。

 整いすぎず、でも荒れていない。どこか、彼らしい。

「なんでそんなに黙ってる」

 先に口を開いたのはルシアンだった。

「あなたこそ」

「俺はいつも通りさ」

「嘘」

「俺ほど正直者はいない」

 リーゼは噴き出しかけ、ゴホンと咳払いをする。少し迷ってから言った。

「……満月のあとから、少しだけ、違う」

 ルシアンが目をそらして黙る。

 ああ、言わなければよかった。

 そう思った時にはもう遅かった。

「リーゼ」

 ルシアンは妙に静かな声で言った。

「追求していいのか」

 リーゼは目を瞬いた。

「どういうこと」

「そのままさ」

 言ってから、ルシアンは舌打ちした。した後で、

「今のは君にじゃない、俺にだ。……無礼な真似をしてすまない」

 珍しく、言いすぎた顔だった。

 リーゼは、泣きそうになる。

 この人は、いつもそうだったじゃないか。

 無礼をするし、からかうし、意地悪だと思ってたけれど、違うじゃないか。

 ねえ、今のは、何。

 何の意味。

 聞いてはいけない気がするのに、聞きたくて仕方がない。

 でも、その前に別の声が割り込んだ。

「ずいぶん楽しそうだな」

 凍る。

 振り向くと、オリアンダーがいた。

 まただ。

 どうしてこの男は、こうも平然と現れるのだろう。

 今日の彼は以前よりさらに整った笑みを浮かべていた。何も諦めていない顔だ。

「招かれていないと思うけれど」

 なぜ、フェンリル家にまで。リーゼが言うと、オリアンダーは肩をすくめた。

「少し話したいだけだよ。ご当主には話を通した。各々で話をつけろと言ってくださったのでね」

「私は話したくない」

「そう言わないでくれ。君も、少しは冷静になっただろう?」

 また、その口調だ。

 自分だけが正しく、こちらは一時的に感情を乱しただけなのだと決めつける声音。

 ルシアンは、今度は笑わなかった。

「しつこいな」

「君には関係ない」

「大ありだろ」

 ルシアンの声は低い。

 オリアンダーは薄く笑った。

「彼女は一時の気の迷いで君を選んだに過ぎない」

「違う」

 リーゼは即座に言った。

 オリアンダーの目が、初めてわずかに揺れる。

「私はあなたに戻るつもりはない」

「リーゼ」

「何度言わせるの」

 あんたなんか、もう毛虫以下にも興味がない。

 でも、もうこの男にだけは譲れなかった。

「私の気持ちを、勝手に都合よく解釈しないで」

 オリアンダーの口元から笑みが薄れる。

 そのかわり、別の冷たさがにじみ出る。

「君は本当に、自分が何をしているのかわかっていない」

 まるで、私に考える頭が無いみたいに言う。いつだってそうだった。みんなの前で、大きな声で言うのだ。

「わかってる」

「いや、わかっていない」

 言いながら、オリアンダーの視線はルシアンへ向く。

「そもそも君が横から余計なことをしたから――」

「俺のせいにするなよ」

 ルシアンは一歩前へ出た。

「選んだのはリーゼだ」

「彼女が?」

 リーゼに考える意思がないかのように、オリアンダーは苦笑した。

「本気でそう思っているのか」

「少なくとも、お前よりは信じてる」

 オリアンダーの頬がぴくりと引きつる。

 リーゼはその横顔を見つめた。

 ああ、この人は。

 ルシアンは、自分の選択を、自分より信じている。

 そのことが、ふいに胸へ刺さる。

 オリアンダーが何か言い返そうとしたその時、遠くからフェンリル公の声が響いた。

「ルシアン」

 低く、よく通る声だった。

 オリアンダーは舌打ちを飲み込むみたいに息を吐き、またきれいな顔へ戻る。

「また来るよ、リーゼ」

「来なくていいわ」

「今はそう言うだろうね」

 そうして彼は去っていった。

 残された庭に、変に重たい沈黙が落ちる。

 リーゼは自分の手が少し震えているのに気づいて、そっと握りしめた。

「……大丈夫か」

 ルシアンが言う。

「大丈夫」

「……」

「本当に」

 ルシアンはじっとリーゼを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

「ならいい」

 それ以上は聞かない。

 そのことがありがたかった。

 聞かないくせに、見ている。

 その視線だけで、少し息がしやすくなる。

「さっき」

 リーゼは勇気を出して言った。

「私より、私のことを信じるみたいに言った」

 ルシアンが固まる。

 ほんの一瞬だったけれど、たしかに固まった。

「……あーまあ」

 ルシアンは視線を逸らす。

 気まずそうだった。

 リーゼは少しだけ笑ってしまった。

「……ありがとう」

 ルシアンがまた黙る。

 最近、この男は自分に礼を言われるたび少しだけ変な顔をする。

 そこが少し可笑しくて、少し愛おしいなんて思ってしまう自分は、きっともうだめだ。

 でも、その気持ちはまだ言わない。

 言ってはいけない。

 これはきっと、友誼に対して抱いてはいけない熱だ。

 リーゼはそう自分に言い聞かせながら、庭の向こうの明るい空を見上げた。

 もうすぐ、また満月が来る。

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