7
満月の夜から、数日ほど、リーゼは妙に自分の手元を気にするようになった。
書類をめくる時も、茶器を持つ時も、髪を梳く時も、ふとした瞬間に思い出してしまうのだ。
月の下、ルシアンの頬に触れた自分の指先を。
そして、首筋の毛並みを整えられた時の、あのどうしようもない熱を。
おかしい。
あれは事故だ。
事故で、流れで、雰囲気で、ほんの軽く触れただけ。
なのに、どうしてこうまで尾を引くのだろう。
リーゼは朝の身支度を終え、鏡の前で耳飾りに触れた。
鏡の中の自分は、ひどく平静を装って見える。
装っているだけだ。
胸の奥は、ちっとも静かではない。
好きになってしまった。
あの夜、はっきりそう思った。
思ってしまった以上、もう知らないふりはできない。
でも、だからといってどうしろというのだ。
ルシアンはあくまで、好敵手への友情で動いている。
そうでなければ、あんな言い方はしない。
あんなふうに、守るとも愛してるとも言わず、ただ「気に食わないから協力する」とだけ言って、こちらに余計な期待を持たせないはずだ。
そこへ自分だけが恋心を持ち込むのは、やっぱり失礼ではないのだろうか。
「お嬢様?」
マルタの声で、リーゼははっとした。
「どうなさいました?」
「……なんでもない」
「最近、よく“なんでもない”とおっしゃいます」
「そうかしら」
「そうです」
マルタは櫛を片づけながら、少しだけ笑った。
「本日はフェンリル家から使いの方がいらっしゃるそうです」
リーゼの肩が、わずかに跳ねた。
「そう」
「何かお伝えしたいことでも?」
「ないわ」
即答してから、少し早すぎたかもしれないと思った。
マルタは口元を押さえ、何か言いたそうにしたが、結局は何も言わなかった。
ありがたい。
今つつかれたら、きっとろくな顔ができない。
昼前、セレニア家の応接間に届けられたのは、フェンリル家からの正式な文書だった。
文面そのものは堅い。
婚約式当日の件について、今後しばらく両家の往来を増やし、儀礼上・実務上の調整を行いたい、というものだ。
要するに、仮に結ばれた番として、外から見て不自然でないだけの接点を増やす、ということだった。
父は文書を閉じ、リーゼへ視線を向けた。
「フェンリル家はきちんとしている」
それが最初の一言だった。
「ローゼンベルク家のように、曖昧なまま力で押し通すつもりはないらしい」
リーゼは黙って頷いた。
「お前は、明日の訪問に同席しなさい」
「……わかりました」
内心は少しだけ複雑だった。
会いたい。
でも、会えばきっとまた余計なことを考える。
翌日、フェンリル家の別邸は、セレニア家とはまた違う静けさに満ちていた。
華やかさを誇るというより、必要なものだけがある、という印象だ。飾り立てる趣味がないのか、あるいは飾らなくても十分なのか。
たぶん両方だろう、とリーゼは思った。
応接室へ通されると、先にいたのはルシアンではなく、その父だった。
フェンリル公は落ち着いた人で、息子ほど人の癇に障る言い回しをしない。ただ、その分だけ見ているものが多い気がした。
「このたびは息子がご息女を驚かせたようで」
にこりともしないまま言われて、リーゼは少し困る。
「いえ……」
「もっとも、枝を受け取ったのはあれのほうですが」
その一言で、フェンリル公の口元がほんの少しだけ緩んだ。
似ているようで、全然似ていない。
そんなことを考えた時、遅れてルシアンが入ってきた。
「悪い、遅れた」
そう言った本人は、まったく悪びれていなかった。
父に一瞥されて、さすがに少しだけ肩をすくめる。
リーゼと目が合う。
ほんの一瞬だけ、あの満月の夜が二人のあいだによぎった気がして、リーゼはあわてて視線を外した。
ルシアンも何も言わない。
言わないのに、なんとなく落ち着かない。
話し合いそのものは、驚くほどまともに進んだ。
今後しばらくの訪問頻度。
人前での距離感。
両家に不利益が出ないようにするための根回し。
全部、必要な話だ。
必要なのに、リーゼは時々、横に座るルシアンの存在ばかり気になってしまう。
脚を組み替える気配。
紙をめくる指。
不意に落ちる視線。
そんなものをいちいち拾ってしまう自分が嫌だった。
会談が終わり、父同士の話が少し長引くあいだ、リーゼとルシアンは庭へ出された。
初夏の花が少しずつ色づき始めた庭だった。
整いすぎず、でも荒れていない。どこか、彼らしい。
「なんでそんなに黙ってる」
先に口を開いたのはルシアンだった。
「あなたこそ」
「俺はいつも通りさ」
「嘘」
「俺ほど正直者はいない」
リーゼは噴き出しかけ、ゴホンと咳払いをする。少し迷ってから言った。
「……満月のあとから、少しだけ、違う」
ルシアンが目をそらして黙る。
ああ、言わなければよかった。
そう思った時にはもう遅かった。
「リーゼ」
ルシアンは妙に静かな声で言った。
「追求していいのか」
リーゼは目を瞬いた。
「どういうこと」
「そのままさ」
言ってから、ルシアンは舌打ちした。した後で、
「今のは君にじゃない、俺にだ。……無礼な真似をしてすまない」
珍しく、言いすぎた顔だった。
リーゼは、泣きそうになる。
この人は、いつもそうだったじゃないか。
無礼をするし、からかうし、意地悪だと思ってたけれど、違うじゃないか。
ねえ、今のは、何。
何の意味。
聞いてはいけない気がするのに、聞きたくて仕方がない。
でも、その前に別の声が割り込んだ。
「ずいぶん楽しそうだな」
凍る。
振り向くと、オリアンダーがいた。
まただ。
どうしてこの男は、こうも平然と現れるのだろう。
今日の彼は以前よりさらに整った笑みを浮かべていた。何も諦めていない顔だ。
「招かれていないと思うけれど」
なぜ、フェンリル家にまで。リーゼが言うと、オリアンダーは肩をすくめた。
「少し話したいだけだよ。ご当主には話を通した。各々で話をつけろと言ってくださったのでね」
「私は話したくない」
「そう言わないでくれ。君も、少しは冷静になっただろう?」
また、その口調だ。
自分だけが正しく、こちらは一時的に感情を乱しただけなのだと決めつける声音。
ルシアンは、今度は笑わなかった。
「しつこいな」
「君には関係ない」
「大ありだろ」
ルシアンの声は低い。
オリアンダーは薄く笑った。
「彼女は一時の気の迷いで君を選んだに過ぎない」
「違う」
リーゼは即座に言った。
オリアンダーの目が、初めてわずかに揺れる。
「私はあなたに戻るつもりはない」
「リーゼ」
「何度言わせるの」
あんたなんか、もう毛虫以下にも興味がない。
でも、もうこの男にだけは譲れなかった。
「私の気持ちを、勝手に都合よく解釈しないで」
オリアンダーの口元から笑みが薄れる。
そのかわり、別の冷たさがにじみ出る。
「君は本当に、自分が何をしているのかわかっていない」
まるで、私に考える頭が無いみたいに言う。いつだってそうだった。みんなの前で、大きな声で言うのだ。
「わかってる」
「いや、わかっていない」
言いながら、オリアンダーの視線はルシアンへ向く。
「そもそも君が横から余計なことをしたから――」
「俺のせいにするなよ」
ルシアンは一歩前へ出た。
「選んだのはリーゼだ」
「彼女が?」
リーゼに考える意思がないかのように、オリアンダーは苦笑した。
「本気でそう思っているのか」
「少なくとも、お前よりは信じてる」
オリアンダーの頬がぴくりと引きつる。
リーゼはその横顔を見つめた。
ああ、この人は。
ルシアンは、自分の選択を、自分より信じている。
そのことが、ふいに胸へ刺さる。
オリアンダーが何か言い返そうとしたその時、遠くからフェンリル公の声が響いた。
「ルシアン」
低く、よく通る声だった。
オリアンダーは舌打ちを飲み込むみたいに息を吐き、またきれいな顔へ戻る。
「また来るよ、リーゼ」
「来なくていいわ」
「今はそう言うだろうね」
そうして彼は去っていった。
残された庭に、変に重たい沈黙が落ちる。
リーゼは自分の手が少し震えているのに気づいて、そっと握りしめた。
「……大丈夫か」
ルシアンが言う。
「大丈夫」
「……」
「本当に」
ルシアンはじっとリーゼを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ならいい」
それ以上は聞かない。
そのことがありがたかった。
聞かないくせに、見ている。
その視線だけで、少し息がしやすくなる。
「さっき」
リーゼは勇気を出して言った。
「私より、私のことを信じるみたいに言った」
ルシアンが固まる。
ほんの一瞬だったけれど、たしかに固まった。
「……あーまあ」
ルシアンは視線を逸らす。
気まずそうだった。
リーゼは少しだけ笑ってしまった。
「……ありがとう」
ルシアンがまた黙る。
最近、この男は自分に礼を言われるたび少しだけ変な顔をする。
そこが少し可笑しくて、少し愛おしいなんて思ってしまう自分は、きっともうだめだ。
でも、その気持ちはまだ言わない。
言ってはいけない。
これはきっと、友誼に対して抱いてはいけない熱だ。
リーゼはそう自分に言い聞かせながら、庭の向こうの明るい空を見上げた。
もうすぐ、また満月が来る。




