6
その夜は、ひどく寝つきが悪かった。
寝台に入って目を閉じるたび、庭園への石畳でのやり取りが浮かぶ。オリアンダーの、まだ自分を取り戻せると思っている顔。ルシアンの、くだらないことを言いながら平然と割って入ってくる声。あはは、と子どもみたいに笑う顔。
腹が立つはずなのに、そこばかり思い出す。
毛布を引き寄せても、胸のあたりが妙に落ち着かなかった。
※ ※ ※
数日後、リーゼはセレニア家の温室脇の回廊を歩いていた。
季節の気配が少しだけ深まってきて、ガラス越しの日差しもどこか薄い。今日は大きな予定はない。帳簿を見て、母に呼ばれて、アルベルトに素っ気なく挨拶されて、それで終わるはずだった。
「いた」
気の抜ける声がして、リーゼは立ち止まった。
ルシアンだった。
何の遠慮もなく窓枠に片肘をついている。黒髪が午後の光を鈍く返し、その金褐色の目だけがやけに明るい。
「いた、じゃないわよ。人の家で何してるの」
「招かれてる」
「招かれてるからって、そんな猫みたいに出るのやめてくれる?」
「狼だが」
「そういうことじゃないの」
ルシアンは笑った。
「暇か」
「失礼ね。暇じゃないわ」
「じゃあ忙しいのか」
「……ちょっと暇」
「だろうと思った」
腹が立つ。
腹が立つのに、前みたいにその場から逃げたくはならない。
ルシアンは窓枠から身を起こした。
「今夜、満月だろ」
「そうね」
「狼になって散歩しよう」
リーゼは瞬いた。
「は?」
「満月だ。狼になって散歩するにはちょうどいい」
「突然すぎるんだけど」
「前は毛虫みたいに君に嫌われたから言い出せなかったんだ」
リーゼは思わず眉をつり上げた。
「毛虫よりはましだった!」
「いーや毛虫より嫌ってた!」
「そこまでじゃないわよ!」
「そこまでだったね」
「違うってば!」
顔を見合わせた瞬間、どちらからともなく噴き出した。
笑いが止まらない。
笑いすぎて少し痛くなった脇腹を押さえながら、リーゼは息を整えた。
「散歩って、満月の夜に狼になって、ただ並んで歩く気?」
「まさか」
ルシアンの口元が持ち上がる。
「競争だ」
「は?」
「じゃあ今夜」
「ちょっと」
「逃げるなよ」
「逃げないわよ!」
言った瞬間に、しまったと思った。
ルシアンの目が面白そうに細められる。
「よし、決まりだ」
※ ※ ※
その晩、空は雲ひとつない満月だった。
青白い光が庭を洗い、芝も石畳も、昼間とは違う顔をしている。夜の庭園は静かで、世界の輪郭だけが少しやわらかく見えた。
満月の力を受けると、人狼は完全な獣にも、人の輪郭を残した半狼の姿にもなれる。今夜の二人は、走るために後者を選んだ。
リーゼは外套の紐を結び直しながら、小さく息を吐く。
本当に来てしまった。
来るつもりだったけれど、来たら来たで、妙に落ち着かない。
「遅い」
すぐ後ろから声がして、リーゼは肩を揺らした。
「うわっ」
「うわっ、じゃない」
「いきなり背後に立たないでよ!」
振り返ると、ルシアンが笑っていた。
今日は軽装だ。長い脚も、しなやかな肩の線も、昼よりずっと自由に見える。月の光の下では、黒髪もその金褐色の目も、少し現実離れしていた。
「準備は」
「できてる」
「なら」
ルシアンはわずかに顎を上げた。
「行くぞ」
次の瞬間には、先に駆け出している。
「ちょっ、ずるい! フェアネスはどこ!?」
慌てて追いかけると、月光を浴びた庭を二つの影が駆け抜けた。草を蹴り、低い石垣を飛び越え、小径を外れて森の縁へ入る。
速い。
腹が立つほど速い。
「待ちなさいよ!」
「待たない!」
「卑怯!」
「競争だろ!」
風が頬を切る。
肺が熱い。
でも、笑っている自分に途中で気づいた。
こんなふうに全力で走るのは、いつぶりだろう。誰かのためでも、役目のためでもなく、ただ追いかけるために走るなんて。
開けた岩場に出たところで、ようやくルシアンが足を止めた。
大きな岩肌が月の光を受け、白く青く冴えている。眼下には森の黒い海が広がり、その上に満月が静かに浮いていた。
リーゼは少し遅れて辿り着き、肩で息をしながらルシアンを睨んだ。
「……競争する前に走り出した!」
「勝負にずるいも何もあるか」
「ある!」
言いながら、リーゼは笑っていた。
ルシアンも笑っている。
静かな岩場に、二人の息と笑い声だけが残る。
しばらくして呼吸が落ち着いてくると、ふいに胸の奥が熱くなった。
さっきまで楽しかったぶん、その熱は急に来た。
リーゼは月を見上げたまま言った。
「……今まで、ごめん」
ルシアンが少し首を傾ける気配がする。
「何が」
「あなたのこと、ずっと嫌なやつだと思ってた」
「まあ⋯⋯それは知ってる。実際、意味もなく嫌味も言った」
「意味もない時もあったの」
「そうそう、君は俺を毛虫扱いだしな」
「毛虫扱いしてないじゃない!」
また少し笑って、それからリーゼは息を吐いた。
「でも」
今度は、ちゃんとルシアンを見る。
「今ならわかるの。あなた、ずっと助け舟を出してくれてたんでしょう」
「そんなことあったか?」
とぼける。
そういうところだ。
でも、今はわかる。
オリアンダーにみんなの前で刺されるたび、ルシアンは空気を壊してでも横から割って入ってくれていた。あの時の私は、それを失礼な嫌味としか思えなかったけれど。
「私、全然わかってなかった」
喉の奥が少しだけ詰まる。
「嫌っててごめん」
ルシアンは黙った。
月の光が黒髪を薄く縁取っている。
「……ありがとう、ルシアン」
今度はとぼけなかった。
ルシアンはしばらく黙ったまま、それからようやく視線を逸らす。
「言ったろ」
ぶっきらぼうな声だった。
「俺は好敵手が毛虫野郎にいいように使われてるのが気に食わなかっただけさ」
「毛虫野郎って誰」
「オリアンダー」
「そこまで毛虫だった?」
「俺の中ではな」
リーゼは思わず吹き出した。
「失礼すぎる」
「そうか?」
「そうよ」
でも、その言い方が妙にありがたかった。
友情だ。
きっと、深い友情なのだろう。
そう思った瞬間に、胸の奥が少しだけ痛くなる。
どうして痛いのかは、考えない。
「まあ」
ルシアンが少しだけ肩をすくめる。
「そんなに感謝するなら、今度俺がきついブラックジョークを言っても一回は許してくれよな! 寛大なお嬢様!」
「もう!」
リーゼは笑って、軽く肩を小突いた。
ルシアンも笑う。
そのまま自然に、ほんの軽く、リーゼの頬に触れた毛先をルシアンが指先で払った。
リーゼもつられるように、ルシアンの首筋に乱れた毛並みを整えるように触れてしまう。
その瞬間だった。
二人とも、ぴたりと動きを止めた。
毛繕い。
家族や、恋人や、夫婦がする距離だ。
月の下で、至近距離で、おたがいの毛並みに指を入れている。
リーゼは弾かれたように手を引いた。
「……っ」
熱い。
顔が。
耳まで。
ルシアンもさっと目を逸らした。
「か、帰るか」
「う、うん、そうねっ」
声が上ずった。
最悪だ。
いや、最悪ではない。
最悪ではないのに、どうしていいかわからない。
二人は妙にぎこちなく岩場を降りた。
さっきまであんなに笑っていたのに、帰り道は変に静かだ。並んで歩いているだけで、足元の草を踏む音がやけに大きく聞こえる。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
嫌ではないことが、いちばん困る。
屋敷の灯りが見えてきたところで、ルシアンがぼそりと言った。
「……さっきのは」
「言わないで」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
ルシアンは少し黙って、それから低く笑った。
「じゃあ言わないでおくか」
「そうしよう」
「寛大なお嬢様の命令だしな」
「その呼び方、気に入ったの」
「お気に入りだ」
また少しだけ笑ってしまう。
笑ったあとで、リーゼはそっと息を吐いた。
好きになってしまった、と思った。
たぶん、もうとっくに。
でもルシアンは、あくまで好敵手への友情で自分に手を差し伸べているのだろう。
あんなに深い友誼に、恋で返すなんて。
それはあまりにも失礼じゃないのだろうか。
そんなことを考えてしまう自分に、少しだけ苦しくなる。
ルシアンは何も知らない顔で、いつものように歩いている。
その横顔を盗み見て、リーゼはすぐに視線を逸らした。
満月の光は、ひどく明るかった。




