5
茶会の帰り、リーゼはひどく静かだった。
馬車の揺れに身を任せながら、窓の外の曇った空をぼんやり見ている。茶会のざわめきも、夫人の嘲笑い、値踏みする目も、もう遠い。残っているのは、ルシアンの声ばかりだった。
あんなふうに、みんなの前で、ためらいもなく自分の側に立たれたことがあっただろうか。
ない。
一度も。
その事実が胸の奥へじわじわ染みてくる。
ありがたい。
でも、ありがたいだけでは済まない何かも一緒に膨らんでくる。
リーゼは窓に映る自分の顔を見て、少しだけ眉をひそめた。
馬鹿なことを考えないように。
そう言い聞かせても、いったん生まれた違和感は消えてくれなかった。
※ ※ ※
数日後、セレニア家の庭園へ続く石畳を歩いていた時だった。
午後の陽は傾きかけていて、薔薇の影が長く伸びている。使用人たちの姿も少なく、庭の奥は妙に静かだった。
「リーゼ」
その声だけで、背筋が冷えた。
振り向くまでもない。
オリアンダーだった。
今日の彼は、いかにも思慮深い男の顔をしていた。怒りを飲み込み、寛容さだけを表に出したみたいな、あの顔だ。
「少し話せるか」
リーゼはその場で立ち止まった。
「話すことなんてない」
「あるさ」
オリアンダーは笑った。柔らかい、理解のある婚約者の顔で。
「君だって、わかっているはずだ。あの日は混乱していたんだろう」
「違うわ」
「違わない」
言い切る声音が、やけに静かでぞっとする。
「君は感情的になっていた。あんな真似をしたのは、俺の気を引きたかったからだろう」
リーゼはしばらく瞬きを忘れた。
この男は、本気でそう思っているのか。
いや、思っているのだろう。自分にとって都合のいい形で、全部を解釈して。
「今からでも遅くない」
オリアンダーは一歩近づく。
「君が皆に謝りに行くんだ。私が取りなしてやる。フェンリル公子とのことも、若気の至りだったとすれば収まる」
吐き気がした。
まただ。
また、この人は、自分の都合のいい場所へ私を押し戻そうとしている。
何もなかったことにして。
私が謝って。
私が自分を引っ込めて。
この人が寛大に許した顔をして終わる。
一周目の私は、それに従ったのだろう。
きっと何度も。
リーゼはゆっくり息を吸った。
「もうあんたに興味ない」
オリアンダーの笑みが、ぴくりと動いた。
「……何?」
「聞こえなかった?」
「リーゼ」
「私はもう、あんたのために謝ったり、都合よく引っ込んだりしない」
オリアンダーの目が細くなる。
「まだ意地を張るのか」
「意地?」
リーゼは笑った。
「そう見えるのね」
「君は、自分が何をしているのかわかっていない」
「わかってる」
リーゼは言葉を切った。
「私はもう、あんたのところには戻らない」
その瞬間、オリアンダーの顔から、わずかに人のいい仮面が剥がれた。
「君は俺の番だろう」
「仮番だった、よ」
「同じことだ」
「違う」
低く、押し殺した怒りが滲み始める。
その時だった。
「違うよなあ」
気の抜けるような声が、横から割って入った。
リーゼが目を向けると、庭園の生垣の影に凭れかかるようにルシアンが立っていた。いつからいたのか全然わからない。黒髪の奥で、あの金褐色の目だけが面白そうに細められている。
「フェンリル公子」
オリアンダーの声音が一段低くなる。
「盗み聞きとは、いい趣味ではないな」
「盗み聞きしたくなるようなみっともない話をしてたのはどっちだ」
ルシアンは肩をすくめた。
「俺の番の周りをうろちょろするなよ」
「フェンリル公子の番ではない。彼女は俺の気を引きたいばかりに少し⋯⋯錯乱している」
ルシアンは肩をすくめ、にこりと笑った。にこりと笑ってから、さらりと言う。
「雌狼にふられても、うろうろ周囲を未練がましいんだよ。ションベンするなら森の木にでもしろ」
一瞬、庭園の空気が止まった。
リーゼは呆然とした。
「……あのねぇ」
「おっと、上品過ぎたよな?」
「そうよ!」
なのにルシアンは、あはは、と子どもみたいに笑った。
オリアンダーのこめかみが引きつる。
リーゼは思い出していた。
一周目でも、この男はこうだった。
大事な場面で、空気を壊すようなことを平気で言う。下手をすると、こちらが必死で繕っていたものまで台無しにする。
だから嫌いだった。
嫌いで、意地が悪くて、失礼な男だと思っていた。
でも今、目の前で起きていることはどうだ。
オリアンダーがまた“話のわかる男”の顔で自分を丸め込もうとした時、ルシアンは空気を壊してでも割って入った。
こちらに愛想笑いをさせないために。
我慢して飲み込ませないために。
胸の奥で、何かが静かにひっくり返る。
人を見る目がなかったのは、自分の方だったのかもしれない。
顔が熱くなった。
恥ずかしさと、申し訳なさと、それからどうしようもなく深い感謝とが一気に押し寄せてくる。
ルシアンはまだ笑っていた。
「何だよ、その顔」
「なんでもない」
「そうか?」
「そう」
声が少し掠れた。
オリアンダーは二人を見比べ、ついに取り繕うのをやめたように息を吐いた。
「……君も、随分と安い女になったものだな」
リーゼの背筋がぴんと張る。
でも、ルシアンが一歩前に出る方が早かった。
笑みは消えていない。
ただ、目だけが冷えていた。
「今のは聞き捨てならないな」
「事実を言ったまでだ」
「事実?」
ルシアンは首を傾げる。
「自分に縋ってくれなかった女を、安いって言ってるだけに見えるな」
「……っ」
オリアンダーの顔色が変わる。
けれど、ここで感情的に殴りかかるほど馬鹿ではない。彼は辛うじて口元を引き締めると、リーゼへ最後に視線を向けた。
「君は必ず後悔する」
「しないわ」
即答だった。
オリアンダーはそれ以上は何も言わず、踵を返した。
庭園の小径を去っていく背中を見送りながら、リーゼはようやく肩の力を抜いた。
膝が少し震えていた。
気づかれたくなくて、ぎゅっと拳を握る。
「大丈夫か」
ルシアンの声が、今度は少しだけ低かった。
さっきみたいなふざけた調子ではない。
「……大丈夫」
「⋯⋯なら、いい。君は、オリアンダーが好きだっただろ」
「今は興味ない」
「ふうん」
ルシアンは少し黙ってから、ふいに顔を寄せてきた。
近い。
近いのに、さっきのオリアンダーみたいな寒気はない。ただ心臓だけが変に跳ねる。
「震えてる」
「うるさい」
「見栄っ張りだな」
「そっちこそ」
「俺は見栄じゃない」
「じゃあ何」
「親切」
リーゼは思わず吹き出した。
「どの口が」
「この口」
あはは、とまた子どもみたいに笑う。
その笑い方に、また胸の奥がじわりと熱くなった。
こんな人だっただろうか。
いや、ずっとこうだったのかもしれない。
私がちゃんと見ていなかっただけで。
「……ありがとう」
小さく言うと、ルシアンは少しだけ目を瞬いた。
「今日のぶん?」
「今日のぶんも」
「も?」
「いろいろ! ありがとうって言いたいの!」
ルシアンは一瞬だけ黙った。
それから、わざとらしく肩をすくめる。
「ふつうに感謝させてよ」
リーゼは笑いながら言った。
笑ってから、ふと気づく。
今、自分はこの人の前で、こんなふうに自然に笑っている。
一周目には考えられなかったことだ。
その事実が、嬉しいような、苦しいような、変な気持ちを胸に残した。
友達だから。
たぶん、そうなのだろう。
好敵手で、友誼があって、公正で。
だから見捨てなかった。
それだけのこと。
なのにどうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
その答えを考えるのが怖くて、リーゼは空を見上げた。
満月まで、まだ少しあった。




