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仮番のはずが、本当の番は宿敵の人狼公爵でした  作者: ワシワシ/三月ふゆ


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5/10

5

 茶会の帰り、リーゼはひどく静かだった。

 馬車の揺れに身を任せながら、窓の外の曇った空をぼんやり見ている。茶会のざわめきも、夫人の嘲笑い、値踏みする目も、もう遠い。残っているのは、ルシアンの声ばかりだった。

 あんなふうに、みんなの前で、ためらいもなく自分の側に立たれたことがあっただろうか。

 ない。

 一度も。

 その事実が胸の奥へじわじわ染みてくる。

 ありがたい。

 でも、ありがたいだけでは済まない何かも一緒に膨らんでくる。

 リーゼは窓に映る自分の顔を見て、少しだけ眉をひそめた。

 馬鹿なことを考えないように。

 そう言い聞かせても、いったん生まれた違和感は消えてくれなかった。


 ※ ※ ※


 数日後、セレニア家の庭園へ続く石畳を歩いていた時だった。

 午後の陽は傾きかけていて、薔薇の影が長く伸びている。使用人たちの姿も少なく、庭の奥は妙に静かだった。

「リーゼ」

 その声だけで、背筋が冷えた。

 振り向くまでもない。

 オリアンダーだった。

 今日の彼は、いかにも思慮深い男の顔をしていた。怒りを飲み込み、寛容さだけを表に出したみたいな、あの顔だ。

「少し話せるか」

 リーゼはその場で立ち止まった。

「話すことなんてない」

「あるさ」

 オリアンダーは笑った。柔らかい、理解のある婚約者の顔で。

「君だって、わかっているはずだ。あの日は混乱していたんだろう」

「違うわ」

「違わない」

 言い切る声音が、やけに静かでぞっとする。

「君は感情的になっていた。あんな真似をしたのは、俺の気を引きたかったからだろう」

 リーゼはしばらく瞬きを忘れた。

 この男は、本気でそう思っているのか。

 いや、思っているのだろう。自分にとって都合のいい形で、全部を解釈して。

「今からでも遅くない」

 オリアンダーは一歩近づく。

「君が皆に謝りに行くんだ。私が取りなしてやる。フェンリル公子とのことも、若気の至りだったとすれば収まる」

 吐き気がした。

 まただ。

 また、この人は、自分の都合のいい場所へ私を押し戻そうとしている。

 何もなかったことにして。

 私が謝って。

 私が自分を引っ込めて。

 この人が寛大に許した顔をして終わる。

 一周目の私は、それに従ったのだろう。

 きっと何度も。

 リーゼはゆっくり息を吸った。

「もうあんたに興味ない」

 オリアンダーの笑みが、ぴくりと動いた。

「……何?」

「聞こえなかった?」

「リーゼ」

「私はもう、あんたのために謝ったり、都合よく引っ込んだりしない」

 オリアンダーの目が細くなる。

「まだ意地を張るのか」

「意地?」

 リーゼは笑った。

「そう見えるのね」

「君は、自分が何をしているのかわかっていない」

「わかってる」

 リーゼは言葉を切った。

「私はもう、あんたのところには戻らない」

 その瞬間、オリアンダーの顔から、わずかに人のいい仮面が剥がれた。

「君は俺の番だろう」

「仮番だった、よ」

「同じことだ」

「違う」

 低く、押し殺した怒りが滲み始める。

 その時だった。

「違うよなあ」

 気の抜けるような声が、横から割って入った。

 リーゼが目を向けると、庭園の生垣の影に凭れかかるようにルシアンが立っていた。いつからいたのか全然わからない。黒髪の奥で、あの金褐色の目だけが面白そうに細められている。

「フェンリル公子」

 オリアンダーの声音が一段低くなる。

「盗み聞きとは、いい趣味ではないな」

「盗み聞きしたくなるようなみっともない話をしてたのはどっちだ」

 ルシアンは肩をすくめた。

「俺の番の周りをうろちょろするなよ」

「フェンリル公子の番ではない。彼女は俺の気を引きたいばかりに少し⋯⋯錯乱している」

 ルシアンは肩をすくめ、にこりと笑った。にこりと笑ってから、さらりと言う。

「雌狼にふられても、うろうろ周囲を未練がましいんだよ。ションベンするなら森の木にでもしろ」

 一瞬、庭園の空気が止まった。

 リーゼは呆然とした。

「……あのねぇ」

「おっと、上品過ぎたよな?」

「そうよ!」

 なのにルシアンは、あはは、と子どもみたいに笑った。

 オリアンダーのこめかみが引きつる。

 リーゼは思い出していた。

 一周目でも、この男はこうだった。

 大事な場面で、空気を壊すようなことを平気で言う。下手をすると、こちらが必死で繕っていたものまで台無しにする。

 だから嫌いだった。

 嫌いで、意地が悪くて、失礼な男だと思っていた。

 でも今、目の前で起きていることはどうだ。

 オリアンダーがまた“話のわかる男”の顔で自分を丸め込もうとした時、ルシアンは空気を壊してでも割って入った。

 こちらに愛想笑いをさせないために。

 我慢して飲み込ませないために。

 胸の奥で、何かが静かにひっくり返る。

 人を見る目がなかったのは、自分の方だったのかもしれない。

 顔が熱くなった。

 恥ずかしさと、申し訳なさと、それからどうしようもなく深い感謝とが一気に押し寄せてくる。

 ルシアンはまだ笑っていた。

「何だよ、その顔」

「なんでもない」

「そうか?」

「そう」

 声が少し掠れた。

 オリアンダーは二人を見比べ、ついに取り繕うのをやめたように息を吐いた。

「……君も、随分と安い女になったものだな」

 リーゼの背筋がぴんと張る。

 でも、ルシアンが一歩前に出る方が早かった。

 笑みは消えていない。

 ただ、目だけが冷えていた。

「今のは聞き捨てならないな」

「事実を言ったまでだ」

「事実?」

 ルシアンは首を傾げる。

「自分に縋ってくれなかった女を、安いって言ってるだけに見えるな」

「……っ」

 オリアンダーの顔色が変わる。

 けれど、ここで感情的に殴りかかるほど馬鹿ではない。彼は辛うじて口元を引き締めると、リーゼへ最後に視線を向けた。

「君は必ず後悔する」

「しないわ」

 即答だった。

 オリアンダーはそれ以上は何も言わず、踵を返した。

 庭園の小径を去っていく背中を見送りながら、リーゼはようやく肩の力を抜いた。

 膝が少し震えていた。

 気づかれたくなくて、ぎゅっと拳を握る。

「大丈夫か」

 ルシアンの声が、今度は少しだけ低かった。

 さっきみたいなふざけた調子ではない。

「……大丈夫」

「⋯⋯なら、いい。君は、オリアンダーが好きだっただろ」

「今は興味ない」

「ふうん」

 ルシアンは少し黙ってから、ふいに顔を寄せてきた。

 近い。

 近いのに、さっきのオリアンダーみたいな寒気はない。ただ心臓だけが変に跳ねる。

「震えてる」

「うるさい」

「見栄っ張りだな」

「そっちこそ」

「俺は見栄じゃない」

「じゃあ何」

「親切」

 リーゼは思わず吹き出した。

「どの口が」

「この口」

 あはは、とまた子どもみたいに笑う。

 その笑い方に、また胸の奥がじわりと熱くなった。

 こんな人だっただろうか。

 いや、ずっとこうだったのかもしれない。

 私がちゃんと見ていなかっただけで。

「……ありがとう」

 小さく言うと、ルシアンは少しだけ目を瞬いた。

「今日のぶん?」

「今日のぶんも」

「も?」

「いろいろ! ありがとうって言いたいの!」

 ルシアンは一瞬だけ黙った。

 それから、わざとらしく肩をすくめる。

「ふつうに感謝させてよ」

 リーゼは笑いながら言った。

 笑ってから、ふと気づく。

 今、自分はこの人の前で、こんなふうに自然に笑っている。

 一周目には考えられなかったことだ。

 その事実が、嬉しいような、苦しいような、変な気持ちを胸に残した。

 友達だから。

 たぶん、そうなのだろう。

 好敵手で、友誼があって、公正で。

 だから見捨てなかった。

 それだけのこと。

 なのにどうして、こんなに胸が苦しいのだろう。

 その答えを考えるのが怖くて、リーゼは空を見上げた。

 満月まで、まだ少しあった。

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