04:何であそこにいたか覚えてない?
「―――っ………」
ベッドに寝かせていた少年が、不意に小さな呻き声を漏らした。その声に、ソファでウトウトしていた莉菜は眠い目をこすりながら起き上がり、首を伸ばして二段高くなっている隣室の様子を覗いた。
ふう、と長い息を吐いて、少年が薄く目を開けるのがガラス越しに見えた。
その様子に、莉菜はホッと胸をなでおろした。中央公園で怪我を負って倒れた少年を助けたはいいが、朝七時から開業している病院もなく、莉菜は少年を背負い、半ば引きずるようにして自分の部屋まで運んできた。
怪我自体は大したことはなかったが、裂傷と打撲が体中に無数にみられ、またそのせいか彼の体は微熱を発していた。
とりあえず傷口を消毒し、怪我がひどい右腕は包帯を巻いて手当をしてみたものの、彼が目を覚ますまではどうにも心配だった。
「気分はどう?」
莉菜はそっと部屋のガラス戸を開け、少年に向かって声をかけた。包帯を巻いた手を額に当ててまぶしそうに目を細めていた少年は、急に声をかけられて驚いたのか、素早く身を起こして身構えた。
「っ――!」
同時に脇腹を押さえて顔をしかめる。
「まだ寝てたほうがいいわよ。あちこち怪我してるんだから」
「……あなたは?」
うつむいたまま押し殺すような声で、少年は言った。
「和泉莉菜。ここは私の部屋よ」
警戒するような少年の声音に、肩をすくめて小さく笑いながら莉菜は答える。
そこで少年はようやく自分のいる場所を認識したのか、右手の包帯からベッド、部屋の中へと視線を巡らせる。そして、最後に目の前の莉菜をまっすぐととらえた。
ようやく目があった少年の瞳は、夜の闇を吸い取ったような静かな漆黒の光をたたえていた。
ひどく印象的な目だ。そう思った。
見ず知らずの他人の部屋で、いきなり突きつけられたこの状況の中で、戸惑いどころか何の感情も表さない無表情さとは裏腹に、その瞳には何かしらの意思が揺らめいているようだ。
「……オレは、何でここにいるんだ?」
少し掠れた声で少年が言った。
「この近くの公園で倒れていたの。覚えてない?」
「傷の手当もあなたが?」
「そう。外傷のほうは大したことないみたいだけど、他は大丈夫?」
「……たぶん、大丈夫」
痛みを確かめるように、ベッドの上で手足を動かして少年は答えた。
「よかった。何でまたそんな怪我をしたの?」
「………」
思考をめぐらせるような眼で少年は黙り込み、長い沈黙のあと重々しく口を開いた。
「思い出せない」
「どうして?」
「何も、覚えてない」
そう言って少年は長いまつ毛を伏せた。
「何もって……じゃあ名前は……」
莉菜は一抹の不安を覚えた。嫌な予感がする。少年は莉菜の顔を見据えたまま一瞬考え込み、それから答えた。
「……分からない。何一つ思い出せない」
予測したその答えに、莉菜は深いため息をついた。それでも念のため口に出して確かめてみる。
「まさかとは思うけど、記憶喪失?」
「それ、どういう意味だ?」
少年はいぶかしそうに眉を顰めた。
「記憶が無くなるってことよ」
莉菜はふうと小さくため息をつき、唯一の頼みの綱を口にする。
「IDカードとか、何か身分証明書みたいなもの持ってないの?」
「IDカード……」
彼は軽くたたくように体中を探す。華奢な首筋に掛けられた銀色のネックレスが、ボタンを外したシャツの胸元で微かにこすれる音を立てた。だいぶ古いものなのか、かなり光沢を欠いていた。
「ないみたいだ」
莉菜を見上げて、少年はあっさりと言った。
「やっぱり……」
とんでもないことになった。気が遠くなりそうだ。
「この街に来訪・滞在するには、IDカードの所持が義務づけられていて、ちょっと外を歩くだけでもカードの携帯が必要なの。何も持ってないってことは、失くしたかあるいは不法侵入者か……」
莉菜は少年を見つめたまま少し考え込む。
「その状態から言って、誰かに盗られたと考えるほうが自然よね」
「誰かに襲われて、怪我して、盗られて……記憶も無くなった?」
「でも、怪我が打撲じゃなくて裂傷なのよね。それも体中にたくさん。……ねぇ、私が見たとき、あなたは公園で木を見上げてぼんやり立っていたんだけと、何であそこにいたか覚えてない?」
「……」
少年は押し黙ったまま軽く眉を寄せる。その横顔には、自分の記憶が全くないことに対する不安や焦りは全く見られない。実感がないのだろうか。
「気がついたらあの場所にいた。あの木の下で目がさめた。その前のことは覚えてない」
「何かの事件に巻き込まれたのかな」
「さあ……」
少年は短く答えると、無表情なまま莉菜の顔を直視した。まるで莉菜の反応を伺っているみたいだ。
「なに?」
その瞳の奥の真意を測りかねて、莉菜はどぎまぎした。
「オレをどうするつもりだ?」
乾いたその声音に、莉菜は一瞬言葉に詰まる。まるで内心の戸惑いを見透かされたようだ。
それでも……。
「大丈夫。ここにいていいわよ。とりあえず何か手がかりがないか調べてみるから」
「いいのか?」
「いいも悪いも」
莉菜は肩をすくめて軽く笑った。
「IDカードも無いあなたが一人でふらふらしてたら、記憶を取り戻すどころかこの街から強制退去させられる。そうなりたくないのなら、嫌でもここに居たほうがいい」
莉菜の言葉に少年は口を開いて何か言いかけたが、そのまま言葉を飲み込んでわずかに視線を落としただけだった。
その長いまつ毛の先を見つめたまま、莉菜は彼の心情を思う。彼の表情からは何も読み取れない。
十六、七歳ぐらいであろうか。まだあどけなさを残す顔をしているのに、話し方や仕草が妙に落ち着いていて、実際よりも大人びた印象を受ける。少年らしい無邪気さや軽妙さが彼からは感じられないのだ。
「もう少し寝たら?後で何か手がかりがないか調べてみましょう。」




