03:……どうしよう……
2042年。科学界――とりわけ植物学は、新たな転機を迎えていた。
環境破壊に歯止めをかけるため、2035年、日本の研究者たちによって「グリーン・ワーク思想」が提唱され、やがて国際規模へと発展した。
それは、人類が環境再生へ踏み出した大きな一歩でもあった。
減少し続ける森林を緑化事業で補い、最終的には増加へ転じさせる――それが本来の目的だった。
しかし、自然条件下では森林の消滅速度が生長速度を上回る。その対策として、品種改良や交配と並行して、疑似環境システムの研究と実証が各地のリサーチベースで進められた。
その中でも、特に推進されたのが植物遺伝子工学である。環境を元に戻すのではなく、現在の環境に適応する植物の創出へ――
研究の主軸は、遺伝子組み換えによる新種開発へと移っていった。
提唱から三年後の2038年、「緑」をコンセプトとした学術都市〈ワカナエシティ〉が山間部に建設された。若苗大学を中心に広がるこの都市は、関係者のみが居住を許され、出入りも厳しく制限されている。その閉ざされた環境の中で、多数の実験が進められていた。
設立から四年。すでに成果も現れ始め、グリーン・ワーク構想は「試行」から「実用」へと移行しつつあった。
――その中心にある若苗大学のキャンパスで、莉菜は朝の空気を吸い込んだ。雲のない青空に目を細め、階段を降りる。正面には、朝日を受けて新緑に光る六角柱の建物が見えた。
若苗大学のキャンパス内の建物は、すべて黄緑がかったタイル張りで統一されている。植物をイメージしてデザインされたもので、大学名もその色名に由来してつけられた。
キャンパスの中央には「中央棟」と呼ばれる六角柱の建物が三つ、三角を描くように並ぶ。その外側にはループ状の道路を挟み、自然科学群Ⅰ・Ⅱ、医学群、工学群の各棟と、食堂・図書館・体育館が円状に配置されている。さらにその外側を、もう一つのループ道路がキャンパス全体を取り囲んでいる。
キャンパス内に部外者が無許可で侵入するのを防ぐため、ゲートは二つしかなく、出入りの度に警備員からIDカードの掲示が求められた。
キャンパスは三メートルほどの高さの有刺鉄線で囲われ、その外側には幅五十メートルの人工池がぐるりと巡らされていた。水は常に澄み、外部からの侵入を強く拒んでいるかのようだ。
さらに「中央公園」と呼ばれる森のような公園がその外側を囲っており、ここから同心円状にワカナエシティの街並みが広がっている。
莉菜が住むマンションは、北ゲートを出て池を渡り、中央公園を通って十五分ほど歩いたところにある。
莉菜はこの中央公園にある石畳の小路と鬱蒼とした樹木がとても好きだ。暇さえあれば散歩をしたり、レポートに追われていてもノートパソコンと弁当を片手に訪れたりしている。この公園の近くに住みたくて、マスターに上がるときに無理をして今のマンションを借りた。
朝七時の公園は、ジョギングや犬の散歩をする人のほかに、ほとんど人影はない。
この街の人々にとって、ここは憩いの場であり、生活の中心でもあった。この広い公園で、一日を通して皆が思い思いの時間を過ごしているのだ。
「今日も暑くなりそうだ」
莉菜は目を細めて雲一つない青空を見上げ、深呼吸をした。朝の空気はひんやりとしていて気持ちがいい。何か身が清められるような気さえする。夜を終えた植物たちも、生き生きとして見えた。
枝を広げた木々の葉と、朝露に濡れた土の匂いを胸いっぱいに吸い込み、莉菜はさっきまでの眠気が嘘のように消えていくのを感じた。
「帰って寝よう」
莉菜は公園を一周する石畳の小路をマンションに向かって歩き出した。今日は気持ちよく眠れそうだ。
睡眠不足そっちのけで軽やかな足取りで歩いていた莉菜だったが、大きく孤を描く小路の先に、黒い人影を見つけて思わず歩みを止めた。
人がいること自体は不思議ではないのだが、よく見ると、その人影は目の前の樹木を見上げて呆けたように立ち尽くしている。まるでその木と見つめ合っているかのようだ。
「なにしてるんだろ」
表情までは見えない。
それでも、身動き一つせず新緑の樹木を見上げるその横顔は、まだ少年のものだった。
――まるで一枚の絵を見ているようだ。
むせ返るような緑に溶け込む彼の周りだけ、時間が止まっているかのようだった。その一角だけ、空気の色がわずかに違って見える。
——なのに。
莉菜は、言いようのない違和感を覚えていた。彼のいる空間だけが浮き上がり、周囲と噛み合っていない。
そのとき――
不意に少年の身体がぐらりと揺れ、力が抜けたように、そのまま崩れ落ちた。
「あっ」
反射的に莉菜は走り出していた。ドサッと鈍い音が耳に届く。近くまで寄ってみて、はじめて少年が怪我をしているのに気づいた。黒い服のあちこちが破け、そこから血が滲んでいる。少年は倒れたまま、身じろぎ一つしない。
莉菜は息を潜めるように、倒れている少年へとゆっくり近づき、恐る恐るその顔をのぞき込んだ。
それは、大人とも子どもともつかない、整った顔立ちの少年だった。
「大丈夫?」
莉菜は裂傷だらけの少年の身体を揺すった。
「……熱い……」
眠っているように静かな横顔ではあったが、呼吸がわずかに乱れている。触れた肩から彼がかなりの熱をもっていることが分かった。
「……どうしよう……」
その場にしゃがみ込んだまま、莉菜は途方に暮れた。




