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02 : 徹夜ですか?それとも実験?

「午前6時です」


 デスクの上に無造作に置かれた時計が、短い合成音で時刻を告げた。きっちりブラインドを下ろした室内は、日が昇っても薄暗いままだ。

 

 時間だけが機械の音で切り分けられ、昼夜の感覚はとっくに失われている。

 

 莉菜は電子顕微鏡に接続している液晶モニターから目を離し、両目をぎゅっとつぶって息を吐いた。

 

「もう朝……」


 大きく伸びをすると、関節が小さく軋んだ。六時間以上もモニターをにらみ続けていた身体は、思考より先に疲労の叫びを上げている。

 

「やっぱり徹夜はこたえるな」

 

 隣で顕微鏡を覗いていた日々木が、同じように背を伸ばし、そのまま莉菜の脇のモニターを覗き込んできた。


 画面には、受粉を終え細胞分裂を始めたオリーブとザクロの交配胚が映っていた。通常よりわずかに速い分裂速度の数値が、淡々と並んでいる。

 

 莉菜は一瞬だけその数字を見て、すぐに視線を落とした。実験ノートに記録を残すためだ。

 

「作業は一段落だな」


 日々木はそう言って立ち上がると、ゴム手袋を外し、ブラインドを開けた。同時に、薄緑の光が室内に流れ込む。雲ひとつない空はまだ淡く、完全な朝になりきっていない。

 

 莉菜はモニターの電源を落とし、眩しさに目を細めながら窓の外を見た。


 五階の実験室からは、大学を囲う池とその外側に広がる中央公園の樹海が見える。人工的に整えられたはずの景観なのに、遠目には森のようにしか見えない。新緑が異様なほど鮮やかに光を返し、池の水面は細かな波を立て、空の色を砕いている。


「もう梅雨も終わりかな」

 

 日々木が、カップを差し出しながら空を仰ぐ。その言葉に、莉菜は一拍遅れて外の景色を見直した。


 温暖化か異常気象かは判然としないまま、ここ数年、梅雨明けは数週間単位で早まっていた。


 だが、浄水効率一〇〇パーセントの施設と海水淡水化プラントの整備により、生活水に関しては、それほど深刻化してはいない。


 それでも環境変動そのものは、地球規模で静かに進行していた。干ばつ、土壌流失、砂漠化、酸性雨。温室効果による極域のオゾンホール、巨大化する台風、長期化するエルニーニョ。


 ニュースを見ない日はない。ただそれらはすでに、日常の背景音に沈んでいた。


 危機はある。――だが、それが危機として認識されていない。

 


「今年も、あまり雨降りませんでしたね」

 

 莉菜は日々木と自分が使っていたゴム手袋を、奥の棚においてある消毒液につけると、洗浄器のスイッチを入れた。


 サンプルを片手に日々木は少し肩をすくめた。毎年こうだと、何を基準に雨が多い少ないとなるのか。そう言いたげな表情をしていた。


 この研究室では果実木の遺伝子組替えを主としており、莉菜と日々木は混合果実木の育種を担当しているため、実験を共にすることが多い。

 

 日々木は莉菜より二年先輩のドクター三年で、柔和で堅実な性格から研究室のまとめ役を任されている。

 

 二年前に別大学から移ってきた彼は、斬新な発想力と研究熱心さで評判が高く、莉菜にとっても尊敬する存在の一人だった。


「つき合わせてしまって悪かった」

 

 雑然とした実験用デスクの上を丁寧に片付けながら日々木は言った。

 

「徹夜ですか?それとも実験?」

「両方だな」

 

 小さく笑いながら、日々木は戸締まりと機材のスイッチを確認する。

 

「お詫びに朝飯おごるよ」

「今日は遠慮しときます。すぐにでも眠りたいので」

「じゃあ、また今度だな」

 

 クーラーのきいた実験室を出て隣の学生部屋に入ると、途端に暑くるしく感じる。莉菜は白衣を自分の机の上に脱ぎ捨て、Tシャツの胸元をパタパタとあおいだ。


 使われていないデスクの上には、研究院たちの私用サンプルが積み上がっていた。下のほうに埋もれている自分のサンプルを横目に、莉菜は荷物を引っつかんだ。

 

「そっちの戸締まり、大丈夫だよな」

「大丈夫です」

 

 政府直轄の大学とあってか、戸締まりだけでなく出入りさえも細かい。機密的な研究も行われているため、管理が厳重だ。構内への立ち入りは二十四時間可能だが、その都度IDカードの掲示が要求される。

 

 警備員が定期巡回しており、用のない者はIDカードを所持していても強制的に門外へ追い出されてしまう。


 各研究室では、IDカード、カードキー、フュージョン照合が求められる。トラブルを避けるため、カードキーがなければドアロックはできないが、それでも入退室の都度ドアロックが義務づけられていた。


「忘れものはないよな」


 日々木は首からぶら下げているカードの束を取り出した。学内の建物に頻繁に出入りする関係者は、カードの枚数や掲示が多いため、便宜的にまとめてタグのように首からぶら下げていた。

 

 カード類は30×10×0.3mmに統一されており、よほどの数がない限り首に下げていても違和感はない。


 日々木は数枚のカードの中から赤いカードキーを取り出すとホルダーに差し込んだ。ピピッ、と小さな機械音がして、ホルダーの横のランプが青から赤へ変わった。

 

「そうだ……」

 

 エレベーター待ちをしながら日々木は急に思い出したように、片手に抱えたカバンから緑色のカードキーを取り出した。


「温室のカードキー。渡すの忘れていた」

「やっとできたんですか、これでやっと自由に出入りできる」

 

 一階から上ってきたエレベーターに乗り込みながら、莉菜は日々木からカードキーを受け取ると、首からぶら下げている鎖をはずしてカードの束に加えた。IDカード、研究室のカード、自宅のカード、今受け取ったカードと、計四枚のカードが莉菜の胸元で、シャラシャラと音を立てた。

 

「これでやっと温室まで和泉のお供をしなくて済む」

「ひどいですよ、文句なら申請するのを忘れていた教授に言って下さい」

「冗談だよ」

 

 日々木が苦笑いを見せた時、ちょうどエレベーターが一階についてドアが開いた。

 

「今日は歩きなのでこちらから帰ります」

 

 駐車場とは反対方向にある出口を指さして莉菜は言った。

 

「送ってくよ」

「中央公園を抜けたほうが早いからいいですよ」

 

 莉菜がそう言うと、日々木は、はにかんだような笑みを見せた。

 

「じゃあ、気をつけて」

「お疲れさまでした」

 

 日々木が駐車場へ歩き出したのを見届け、莉菜も初夏の光が差し込む外へ出た。


 十八歳になる年に大学へ入学し、一、二年次を飛び級して今年ドクター・コースに上がった莉菜は、七月で二十三歳になる。

 

 若苗大学の設立の際、優秀な人材を出来るだけ早く確保するために、指定試験をパスすれば十七歳からの入学と飛び級制度が設けられた。この制度により年間十数人の飛び級者が出ているが、莉菜のようにストレートでドクターまで上がってきた者は少ない。そのせいか、この年齢でドクターというと、いい顔をされないことの方が多かった。

 

 莉菜が所属している研究室でも、六人の研究生の中で莉菜の年は下から二番目だ。肩身が狭いが、教授や他のメンバーが気に留めていないのが救いだった。

 

 莉菜の専攻は植物遺伝工学で、教授と研究生六人でチームを組んでいる。遺伝子組み替えと交配を行い、乾燥に強い樹木と混合果実木の育成を進めていた。


 実践的な研究が求められているため、どうしても個人レベルでの研究より、チームでの研究が優先されてしまう。各個人のテーマはあるが、共同研究が優先だ。

 

 今はまだチームでの研究ではあっても、莉菜は近いうちに個人的に自分の研究を始めようと計画を立てていた。

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