32:オリジナル?
いつのまにか虫の声がやんでいた。あたりは真の静寂に包まれている。風がわずかに強まり、半そでのTシャツ一枚では肌寒い。
莉菜とサカキは、互いに見つめ合ったまま、その場に立ち尽くしていた。サカキは相変わらず、静かに莉菜を見下ろしている。
彼の語るルリカの木の話も、一四〇年後の未来から来たという話も、莉菜を大いに混乱させていた。そんな作り話、信じられるはずがない――そう言ってやりたいのに、声が出ない。
否定した瞬間、何かが決定的に崩れてしまう。
――そんな予感があった。
彼から放たれる緊迫感が、それを許さなかった。
「あなたの話を、どうやって信じろと? 未来から来たなんて……そんな非現実的な話を、どうやって……」
「信じるかどうかは莉菜の自由だ。オレの任務は、ルリカの木を構想段階で打ち消すことだけだ」
「そんなこと……」
言葉を呑む莉菜に、サカキは小さく息をついた。
「ルリカの木は、暑さや乾燥に強い。一度取り込んだ水分を、幹に溜め込んだまま離さない。成長も速く、他の植物とは比べものにならない。年に二度実る果実は、水分も栄養も豊富だ。――砂漠化防止と食糧供給、その両方を担えると期待された」
サカキが語るそれは、莉菜が目指してきた理想そのものだった。
――まさに、自分が構想していた“あの木”。
否定しようとする思考とは裏腹に、胸の奥がわずかに高鳴る。
「世界中に植林され始めて数年後、二酸化炭素の吸収率と酸素の排出率が通常の植物の二〜三倍あることが判明した。グリーン・ワークの要――地球を救う奇跡の植物と呼ばれた」
サカキはポケットから何かを取り出し、莉菜の足元に置いた。高さ五センチほど、手のひらに収まる円柱状の物体。
初めて公園で見かけたとき、彼のポケットに入っていたものだ。鈍い銀色のそれは金属製らしいが、用途は見当もつかない。ただの錘にしか見えなかった。
手を離し、体を起こしたサカキが言う。
「Power On」
ヴォン、と低い音が響き、物体の上部に緑色の光がぼうっと浮かび上がった。
「これは……」
よく見ると、その光は木の形をしていた。一本の木が、立体映像となって空中に浮かび上がっている。
「ホロスコープ・マシーン。この映像がルリカの木だ」
莉菜は息を呑み、食い入るように見つめた。
間違いない。異様に広がる枝。そして、不釣り合いなほど大きな葉。
スケッチブックに描き留めた、あの木そのものだった。
「縮尺は十五分の一。実際は十五〜十六メートルある。それでもまだ若い木だ」
驚きとともに、奇妙な高揚が胸を満たす。頭の中と紙の上にしか存在しなかったものが、今、目の前にある。――触れられそうなほど、現実として。
「この木は、オリジナル」
「オリジナル?」
「Next」
映像が切り替わった。現れたのは、やや形の異なる木だった。根は太く増え、枝の間から幾筋もの蔓が伸びている。
「これが、最近のルリカの木だ」
もし彼の話が真実なら――この木は、わずか百年足らずで形態進化を遂げたことになる。それは、異常な速度だった。
「実用化から約三十年後、インドで大量の放射能を浴びた。もともと速かった分子進化が、突然変異的に加速した。最終的には、光合成と並行して有機物の直接摂餌が可能になった。……結果、移動能力を得た」
「Next」
蔓が伸び、何かを捕らえた。そして、繭のように包み込み、締め上げた。その隙間から、液体が滴り落ちていた。
「蔓で拘束し、繭状に覆って圧壊し、吸収する。それが摂餌方法だ」
――血だ。理解が追いつくより先に、背筋が冷えた。
「……ひどい」
莉菜は膝をつき、小さく呟いた。
「少しは信じる気になったか? これが、莉菜が創ろうとしているルリカの木の真実だ」
サカキは静かに言う。
「食肉化し、移動能力を得たことで、生物相関は一変した。――Last data」
世界地図が表示され、そのほとんどが赤く染まっていた。
「赤い部分が分布域だ」
赤道から南北緯度五十五度付近まで、隙間なく塗りつぶされていた。砂漠地帯ですら例外ではない。同一種の植物が、ここまで広がるなど――あり得ない。
だが、それを自分は今、見せられている。
「山も砂漠も街も関係ない。焼き払っても増殖する。すべてを食い尽くす。……地上がルリカの木に呑まれるのも時間の問題だ」
「Power off」
映像が消え、月明かりだけが残る。
サカキは無言で装置を拾い上げ、中央公園の木々を見据えた。風に揺れる枝葉。
その影は深く、どこまでも沈んでいる。
まるで、闇が形を得ているかのようだった。
生ぬるい風に乗るざわめきは、囁きのようでもあり、くすくすと笑う声のようでもある。
その意思の行き先を、サカキは知らない。
だが――莉菜のように、この植物たちを信じることはできなかった。
彼らもまた、生きるものだ。種を存続させるために、すべてを競争の中に置く存在。その中には、人間も含まれる。――例外はない。
自然への回帰など、人間の一方的な幻想に過ぎない。
植物にとって人間とは、ただ種を運ぶ存在にすぎないのだから。




