31:この目で、見てきた
半分あけたカーテンから月明かりが斜めに差し込み、フローリングの床に反射して天井が淡く光っていた。そのせいで部屋の中がぼんやりと明るく、まるで透明な海の底にまどろんでいるようだった。辺りは静まりかえり、虫の音だけがかすかに残っていた。
その静けさと、月明かりがつくる蒼い影に慄きながら、少年はソファから身を起こした。
汗まみれのシャツが胸元に貼りついている。剥がすように脱ぎ捨て、大きく息をついた。
――嫌な夢を見た。
全身に残る倦怠感を振り切り、新しいシャツを着てテラスに出た。濃紺の天空に、満月が輪郭を浮かべて冷たく輝いていた。その孤高の光は、冷たいシャワーを浴びているみたいに心地よい。
視線をさげると、黒く広がる中央公園の木々が視界に入る。耳を澄ませば、風にまぎれて同じくらいどす黒いざわめきが聞こえてきそうだった。
それから目をそらすように、生ぬるく吹き抜けていく風を正面に受け止めて、少年は再び上空を振り仰いだ。
降りそそぐ月の光。
その眩しさに少年は目を細めた。
どんな時代でも月の輝きは変わらない。ほんの少し前までは、恐怖にまじった安堵感をもって見上げていた。闇を生き抜くものたちにとって、月は唯一の味方だった。
「ルリカ……」
少年は月を見上げたまま小さく呟いた。首にかけた銀のネックレスをそっと握りしめる。
自分が何のためにここにいるのか、何をやらなければならないのか、やっと思い出すことができた。
ある意味、思い出さないほうが幸せだったのかもしれない。課せられるものも、背負うものもないこの場所で生きていけるのなら、どんなに楽かしれない。
――それでも。
少年は唇をかみしめた。
一番大切なものを守りたい。何を捨てても、何を賭けても守り通すと誓った。
だから、この現実から自分だけ逃れるわけにはいかない。諦めるわけにはいかなかった。
かすかな物音に目を覚ました莉菜が起き上がると、少年がテラスに出て行くところだった。
「こんな時間にどうしたの?」
声を掛けると、少年はゆっくりと振り向き、唇の端をわずかに歪めて微笑んだ。その表情は悲しげであり、どこか皮肉めいてもいて、莉菜は少し驚いて彼を見つめた。
少年はそんな莉菜から目をそらし、天頂にかかる月を見上げた。月明かりが少年の凛とした横顔を淡く縁取り、まるで彼自身が燐光を放っているようだ。
そこに在りながら、どこにも属していない。少年の周囲だけが、わずかに現実から剥がれているようだった。
「……莉菜」
まぶしい程に明るい月を見つめたまま、少年が低く呟いた。
「人はなぜ何かを創ろうとするんだ。……それで、何が救われるんだ」
「……どういうこと?」
彼の言わんとすることが理解できずに、莉菜は困惑の声をもらした。
莉菜に視線を戻した少年の顔には、まったく感情がこもっていなかった。
「科学技術が生み出したもののせいで、大勢が死にゆく。すべてを失い、残されたのは恐怖と怒りだけ。死に怯えながら、ただ生き続ける」
淡々と続ける少年の言葉に莉菜は戸惑った。莉菜を冷ややかに見下ろし、彼は静かに問い掛けてきた。
「――そんな思いをしたことがあるか?」
莉菜は答えなかった。少年の言葉の意味と、なぜ急にそんなことを言い出したのか、それを考えるだけで精一杯だった。
彼がいったい何を思い出したのか、莉菜には見当もつかなかった。ただ、自分にとって非現実的な話であることだけは確かだった。
「急にそんな話をされても、私には何がなんだか分からない。――あなたは何を思い出したの?」
長い沈黙があった。
莉菜にどう伝えようかと思案しているより、自分自身溢れる感情と葛藤しているように見えた。
少年は莉菜を見下ろしたまま、やっと口を開いた。
「近い将来、ルリカの木は実現する。あなたの手によって。だが、潤いを与えてくれるはずのルリカの木は、やがて巨大で凶暴な食肉木へと進化し、人間や動物を襲うようになる。」
「――なに、それ……」
思いがけない少年の言葉に、莉菜は息を呑んだ。ルリカの木はまだ構想段階で、研究すら始まっていない。ましてその構想も、昼間に初めて少年へ話したばかりだ。
それが実現化され、人や動物を襲うようになるなど、彼に分かるはずもない。
「そんな馬鹿げた話……」
こんなことを言われるためにあのスケッチブックを見せたわけではない。ひどく傷つけられた気がした。
「馬鹿げてるか?」
少年は押し殺した声で静かにそう言った。
「発明当時は輝かしい栄誉だったものが、のちに恐怖の対象となった例はいくらでもある。ルリカの木だけは何の被害ももたらさないと、今のあなたに言い切れるのか?」
「それは……」
莉菜は言い淀んだ。まだ実現化してもいないのに、そんなこと分かるはずもない。
だが、ルリカの木は生き物だ。道具でもなければ兵器でもない。
「それでも、ルリカの木はグリーン・ワークを手助けし、地上に緑を増やす植物なの。『もの』ではない。緑がそんな風になるなんてあり得ない。見てきたような言い方をしないで」
少年は表情一つ変えず、静かに莉菜を見ていた。漆黒の瞳に月明かりが溶け込み、まるで青白い炎が揺らめいているようだ。
その中に、莉菜は彼の揺るぎない意思と、冷たい怒りを垣間見た気がした。その怒りは静かに、しかし身を焦がすほどの激しさをもって莉菜を射抜いていた。彼女を責めたてるように。
少年は何も言わなかった。表情のない顔で彼女を見つめていた。月の光を溶かした瞳の色は、底冷えがするほど冷たいのに、莉菜は魅入られたように目が離せずにいた。
――やがて少年が口を開いた。
「現実はそうなる」
そう言い放った。
「この目で、見てきた」
何者も侵しがたい声音と、確固たる意志をもって。
そしてその漆黒の瞳で、莉菜を真っ直ぐと射抜いた。夜の闇が集束し、底知れぬ影を落としているようだ。
「そんな……」
「すべて、思い出した」
凛とした声音が響く。
「オレの名前はサカキ。――今から一四〇年後の未来を、生きていた。」




