26:これがその理想の木なの
「どう?なんかホッとするでしょ?」
「ホッとするというか、気持ちが正されるな」
少年は頭上の木を振り仰いでいる。その横顔は、どことなく厳しい雰囲気を帯びていた。少年の内面に潜んでいる激しさが、その中に見え隠れしているようだ。
「さっきもちょっと話したけど、私の研究目的は環境に適した新しい木の創造なの」
「新しい木?」
少年は再び莉菜に視線を戻した。莉菜はちょっと笑って先を続けた。
「既存の木の交配なんだけど、遺伝子操作や品種改良で、どんな環境にも適応できる木を作ろうとしてるの。特に乾燥帯に強い木を目指してる。少量の水で育って、成長が速くて、順応性も高く、季節ごとに違う実をつける。そんな混合木を植えることができたらいいなと思っている。」
「―――何のために?」
「森がね、年々消えていってるの」
莉菜はバックからスケッチブックを取り出した。それを胸に抱きしめ、膝の上に顎をのせて正面を見据えた。
「森が消えると、土壌が流失して荒野から砂漠になっていく。植林をしたところで、樹木の成長速度はゆっくりで、拡大する砂漠化に追いついていけない。だから、成長速度が速くて悪環境にも強い木が必要なの。そしてそれが栄養価の高い実をつけるものなら一石二鳥というわけ」
「そううまくいくものなのか?」
低く呟いた少年に、莉菜は小さくかぶりを振った。
「わからない。でも何かをしなきゃ、どんどん森が消えてしまう。森はこの地球にとって必要なものだから」
莉菜は膝の上のスケッチブックを開いた。大学に入学した時から、理想とする樹木の姿をそこに描きつづけていた。研究資料でもあるが、持ち歩いて目指すものを常に確認していたかった。
やりたい研究をやりたいようにさせてもらえなくて苛立つときでも、スケッチブックの中にある理想の木を見ることで、いつかは必ず夢を叶えるんだと自分自身を奮い立たせてきた。
「これがその理想の木なの」
三冊目になるそのスケッチブックを莉菜は少年に渡した。各組織から全体図、構造図、所見、覚え書きまで、細かく書きこんだスケッチブックを少年は1ページ目から丁寧に読み始めた。
「かなり構想が出来上がっているんだな」
「そうね。すぐにでも研究が始められるくらいには、詰めていると思う」
「じゃあ、なんで研究を始めないんだ?」
素朴な疑問を少年は口にした。その瞳をちらっと見上げ、莉菜は力なく笑みを浮かべた。
できるものならそうしている。マスターに上がった頃は、本気でできると思っていた。だけど現実はそう個人に甘いものではない。漠然とした研究より、もっと手近で実務的な研究を組織は求めている。大学という組織に属する以上、それに従わなくてはならないのが現状だ。
「莉菜?」
「………そう簡単にはいかないの。色んな兼ね合いがあってね。」
「そういうものなのか?」
「そういうもの」
複雑な表情を見せる莉菜を少年はしばらく見つめていたが、それ以上は何も聞かず、手元のスケッチブックに再び視線を落とした。
木の果実らしき図の後に、走り書きだけのページが続いていた。内容がほとんど理解不能だったため、少年はそれをとばして最後のページを開いた。そのページには莉菜が言うところの「理想の木」の全体図が精密に描かれており、色鉛筆で丁寧に色づけされていた。右下の隅に、筆記体でその木の名が記されていた。
Tree of Rulica ――― ルリカの木 ―――
少年の目が見開かれた。
―――この木は………
―――ドクン。
心臓が大きく鳴り響いた。
「―――っ!」
その瞬間、視界が真っ白になった。
心臓を鷲掴みにされたように、呼吸が、できない。
少年は両腕で頭を抱え込むように倒れこんだ。
――この地を、この星に生きる多くの命を守って。あなたにやって欲しいの――
歯を食いしばりながらこらえる苦痛の意識の奥底で、誰かの声が言う。それはあまりにも愛しくて、あまりにも大切な唯一無二の存在。
誰よりも近く――誰よりも自分を支えつづけてきた。
「ねえ、どうしたの?大丈夫?」
少年の尋常ではない様子に驚いた莉菜が、心配そうに彼の肩を揺すった。
溢れ出す感情。
憎しみと怒り。
――そして、深い絶望。
諦めなんて言葉では、到底語りつくせぬほどの終焉。
どうあがいたところで無駄だと、あの木が、「ルリカの木」が嗤う。
「オレは―――」
そう――すべては、破滅へと向かっていた。




