25:地下にこんな木が生えてるなんて
「もう帰ろうか」
少年の耳に、莉菜の不安げな声が小さく届いた。ぼんやり視線を上げると、自分を覗き込む莉菜の顔があった。
なつかしい顔だった。ひどくはかなげで、それでいてどこか力強い
――いつも自分を励まし続けていた。
「――いや、大丈夫。もう少し案内してくれるか?」
莉菜は少し迷う表情を見せたが、少年はそのまま歩き出した。
何かを思い出しかけても、いつも途中で途切れてしまう。明確な映像が浮かんできても、断片的でつながらない。時間も状況も曖昧な断片では、自分が誰なのかさえ思い出せない。
もどかしさとともに、どうしようもない焦りと不安があった。
「何を思い出したの?」
見上げた少年の横顔は、何の表情も浮かべていなかった。その無表情が、どこか暗い影を帯びているように見えた。
「私にできることがあるなら、何でも言って?」
親切心や同情などではなく、ただ彼の力になりたかった。記憶のない現実をあるがままに受け止め、悲観することも自暴自棄になることもない、この少年にいつの間にか惹かれていた。
彼が何者で、どんな風に生きてきたのか、知りたいと思った。
「――さっきの温室……」
莉菜を見下ろして、少年は呟いた。
「温室?」
「さっき通ってきた温室。行ってみたい」
「ああ、案内するって言ったね。行こう」
中庭は一面の芝生で、木陰には木製のベンチが置いてあった。少年は鮮やかな緑色の芝を踏みしめながら、辺りを見回した。休日で人影はないが、中央公園のように憩いの場なのかもしれない。
その芝生の向こうに、構内を一周している道路、その外側に中央公園の湖と鬱蒼とした木々が見えた。
キャンパスは少し小高くなっていたが、中央公園の木々に遮られ、ここからではワカナエシティの街並みを見ることはできない。その代わり、遠くの山の斜面が色濃くくっきりと見えていた。
「こっちよ」
中央公園を見つめていた少年が振り向くと、莉菜は倉庫のような小さな建物の前に立っていた。高さ三メートルほどの全面ガラス張りのそれは、かなり頑丈に造られているのが見て取れた。
「ここが入り口なの」
莉菜はそう言いながら、首にかけていたカード・キーのチェーンをはずした。その中から緑色のキーを取り出し、脇のカードリーダーに通した。点滅していた赤いランプが黄色に変わると、今度は自分のIDカードを通して暗証ナンバーを入力した。小さく電子音が鳴ってランプが青に変わると、入り口のドアが開いた。
「入って」
ドアが閉まると、莉菜は内側のカードリーダーにキーを通してロックをかけた。それから奥のドアの脇にあるリーダーに再び緑色のキーを通した。
「三重構造になっているの。厳重でしょ?」
軽く笑いながら莉菜は言った。同時にドアが開く。今度は小さな部屋になっていた。
二人が中に入ってドアが閉まると同時に、天井と側面から勢いよく風が吹きつけてきた。
「直接目に入らないように、ドアの方を向いていてね」
「これは?」
「ここは消毒室。外から菌を持ち込まないために、ここで消毒するの」
莉菜は腕を広げて二、三回まわって見せた。
「帰りもここで消毒ね」
莉菜が奥のスキャナーにキーを通すと、風が止まって最後のドアが開いた。すぐ目の前はガラス張りになっており、野菜畑が見えた。奥には、赤い実をつけたものがちらほら見える。
「すごいでしょ。この畑で採れた野菜、すごくおいしいの」
「研究用じゃないのか?」
「別の研究室の畑なんだけど、時々おすそ分けしてもらってる」
悪戯っぽく笑って莉菜はエレベーターに乗り込んだ。下階に着くと、そこも一面のガラス張りだった。ただ、そこに広がっているのは、幹を連ねて続く林だった。枝葉は天井近くまで広がっていた。
「ここは熱帯ゾーン。熱帯雨林の木が植えてあって、蒸し暑い」
「光は?」
地下なのに外と同じくらい明るい。上階は畑なのに、天井から光が差し込んできていた。太陽光そのものだ。
「光ファイバーよ。中庭に六角柱のガラスがいくつも立っていたでしょ。あれで地下に光を送る仕組み。日照や光量だけじゃなく、温度や湿度もゾーンごとに24時間管理されてるの。」
「さっきの三重ドアといい、徹底管理してるな」
濃い緑の葉を茂らせた樹木を少年は興味深く見上げた。
「国を挙げての研究がなされているからね」
先を歩きながら莉菜は笑った。
強化ガラスの向こうに見える様々な種類の木々を眺めながら、二人は通路を歩き続けた。左にカーブして少し歩いたところで、ガラスに厚さ十センチほどの仕切りがあらわれ、その先から温室内の植物ががらりと変化した。
「ここから温帯ゾーン。中に入るよ」
莉菜が開けたドアから入ると、涼しかった廊下とはうって変わって、外と同じ熱気が充満していた。これでセミの声が聞こえれば、外にいるのと何ら変わりない。ここが地下施設だとは信じられなかった。光の量も強さも外の環境と同じだった。
「地下にこんな木が生えているなんて、なんか不思議だ」
「異なった環境を一つの施設内におさめるには、地上よりも地下のほうが管理しやすいのよ。外部からの侵入や台風などの自然災害も防げるし」
いくつかの木の根元を通り過ぎ、莉菜は更に奥へと進んだ。驚いたことに、風まで温室内に吹いていた。
「あそこに見えるのが石榴と無花果の交配種。2年前に成功して今年実をつけたの。その隣がキメラ。一本の木に5種類の異なった実がつくの」
「……へえ……」
「まだ研究途中だけどね。で、あの大きな木。私の一番好きな木なの」
莉菜の指差す方向に目を向けると、一番奥まったところにひときわ高い木が見えていた。幹はそれほど太くないが、真っ直ぐと伸びて大きく枝を広げ、濃い緑の葉が幾重にも茂っていた。その凛とした姿は、長いときを見据えた老人のように厳格でありながらも、どこか懐かしくもあった。
「この木は、この温室内で一番の古株なの」
そう言って莉菜はその木の根元に腰をおろした。少年も黙って莉菜の隣りに座って、ごつごつとした幹にもたれかかった。
締め切った温室には、空調のわずかな音以外に何も聞こえない。どこまでも静かだが、沈黙という重苦しい雰囲気ではなかった。どこからか木々の呼吸が感じられる、不思議な空間だった。




