24:森が鳴いている?
早めの梅雨明けのせいか、今年はセミが鳴き出すのが早かった。初夏のさわやかな時期のはずなのに、もう真夏が来たかのようだった。
朝の雨もすっかり上がり、日差しは強く明るかった。何もかもがくっきりと眩しく、景色は強い色彩を放っていた。
ワカナエシティの中心にある中央公園も、朝夕はひんやりと静けさに包まれているのに、日中はセミの鳴き声がこだまして暑苦しかった。
「森が鳴いているみたいだ」
莉菜が後部シートを整理している横で、少年がふと呟いた。
「森が鳴いている?」
「森という、一つの巨大な生物の鳴き声」
荷物を移すのを手伝いながら、少年はかすかに笑った。その表情の複雑さに気が付いたものの、莉菜はあえて何も言わなかった。そういう表情をするとき、彼は妙に大人びて見えた。それどころか、この世のあらゆるものを見てきたかのような、老成した雰囲気すらあった。
漢字が苦手なことといい、物腰や雰囲気を見ていると、少年がごく一般の家庭に生まれ育ったとは、どうしても想像できなかった。
「よし、準備完了」
後部シートの一部を空けて荷物を積み重ねると、外からは荷物しか乗せてないように見える。
「さあ、どうぞ」
「……ここに?」
「外からは、荷物がぎっしり詰まってるようにしか見えないから大丈夫。上からシートを被せれば、絶対に分からないはず」
「――無謀すぎないか?」
「大丈夫。さあ、早く乗って」
それでも不服そうな少年を無理やり狭い空間に押し込み、氷水が入ったペットボトルを渡した。
「十五分ぐらいで着くから」
「……分かった。莉菜にまかせる」
狭い空間に押し込められた少年は、ため息混じりに言った。
「じゃあ、行こう」
バックドアを閉めると、莉菜は急いで運転席に乗り込んだ。ゲートまで六分、そこで身分証明して駐車場まで更に五分。余裕を見て十五分弱というところか。
少年は折り曲げた身体にペットボトルを抱き、じっと目を閉じた。荷物に挟まれ、上から厚手のシートを被ると、かなり暗い。むしろ何も見えないほうが、かえって圧迫感は少ない。狭い場所に包まれるような、わずかな安心感。
――この闇に守られているんだね
そう言ったのは誰だったのか。
思い出そうとして、少年は顔をしかめた。そこにあるはずなのに、掴むことができない、まるで霞のようにぼんやりとした記憶。だけど、感情は確かに覚えていた。だからこそこんなにも懐かしく、胸がきしむのだ。
息を殺し、硬く目を閉じて微かな記憶の断片をたどっていると、ゴトゴト揺れていた車が不意に停車した。同時にかすかに人の話し声が聞こえた。
――ゲートか
幾分緊張しながら息をひそめていたが、すぐに車は走り出した。どうやら難なくゲートを通過できたらしい。車はゆっくりと長いカーブを走りつづけ、右折してから停車した。バタンと車のドアが閉まる音がして、少ししてからバックドアが開いた。
「大丈夫だった?」
莉菜の不安そうな顔がのぞきこんできた。
「問題ない」
外のまぶしさに目を細め、少年は小さく笑った。大学構内に入るのに、ここまでするのも何だか仰々しい気もする。
「誰もいないから早く出て」
後部シートから出て靴を履くと、少年は外の空気を吸い込んだ。汗ばんだ身体に初夏の風は心地よい。身体を伸ばして莉菜を見下ろすと、彼女はいたずらっぽい笑みを見せた。
「心臓、飛び出すかと思った。結構スリルだね」
「帰りもあるけどな」
「一回やれば、もう平気」
そう言って莉菜は助手席からバックを取り出して、車にロックをかけた。
「こっち」
莉菜の後ろからついて行くと、駐車場から階段を上がった先に、若苗色をしたタイルの建物が見えてきた。正面から朝日が当たるその建物は、中央公園の若葉よりも薄い黄緑色の光を鈍く反射していた。五階建ての建物を、少年は立ち止まってしばらく見上げた。
「私が所属している自然科学群の研究棟よ」
階段の一番下で莉菜が振り向きながらそう言った。
「自然科学群?」
「自然界に関することを研究する、各学科をまとめた総称。私は植物に関することを専門に研究しているの。」
莉菜は研究棟を横切り、中央棟に向かって歩きながら説明した。中庭に並ぶ木々の合間に、六角柱の建物の上階が見えていた。
「植物……」
莉菜の隣りで少年が小さく呟いた。
自然科学群ⅠとⅡの建物の間にある中庭の地下には、大規模な地下温室がある。大量の光ファイバーで太陽光を取り込むため、天窓がいたるところに点在していた。
高さ約一メートルの、六角柱の強化ガラスが等間隔に並んでおり、何かの墓標を思わせる光景をつくり出していた。
「この下にはこの大学が誇る地下温室があるの。後で案内してあげる。」
不思議そうにこの光景を眺める少年に、莉菜は笑いながら言った。初めて見る者には、気味の悪い光景に映るのかもしれない。
「私たちの研究チームは、別の種を交配して、環境に適した植物を作ろうとしているの」
子供のように希望に満ちた表情で話す莉菜の目は、まだ来ぬ未来の姿を遠くに夢描いているようだ。
しかし、そんな彼女の声を横で聞きながら、少年は何か嫌な感情が広がってくるのを感じていた。
何故なのか、分からない。
不安か――少年は眉をひそめた。
いや、違う。
もっと粘りつくような、心の奥底から湧き上がってくる嫌な感情だ。
――憎しみと怒り
血を飲むほど味わってきた現実の感情。
いったい何が、自分を憎悪へと駆り立てているのだろう。
「見て」
莉菜に腕をつかまれて、少年は我に返った。いつの間にか中庭を通り過ぎ、中央のループ道路まで出てきていた。そのすぐ向こうに先ほどの六角柱の建物が見える。
莉菜の指差す方向を視線で追ってゆっくりと顔を上げた。そこには朝日を反射して若苗に光る、三つの建物が、少年を誘うように優美な姿を見せてそびえ建っていた。
――ドクンッ。
その建物を見た瞬間、体中の血が逆流するような錯覚に陥った。
なんだ、コレは――全身の毛が逆立った。
「ここがこの大学の中心、つまり、ワカナエシティの中心にあたる中央棟よ」
かたわらで説明する莉菜の声が遠くなっていく。
ナニ―――?
今、少年の目に見えているのは、若苗色に反射する輝かしい建物ではなかった。巨大な木の幹にのみ込まれ、無残にも崩れかけた灰色の棟だった。
巨木は五階建ての中央棟よりも更に高く、方々にはり出した枝は、ループ道路を覆って向かいの建物にまで届きそうだ。その葉先がゆっくりと小刻みに揺れていた。
「――聞いてる?」
呆けたように突っ立っていた少年は、莉菜の声にはっとして息を吐いた。
「……すまない、聞いてなかった。」
「朝から変だよ。何か思い出した?」
莉菜が少年の顔を覗き込んだ。その瞳には、心なしか不安げな色が映っている。
「いや……」
少年は莉菜から目をそらして一呼吸つくと、目の前にせり出す若苗の建物をもう一度見上げた。何も変わらない、普段通りの姿だった。
少年は目を細めた。さっきのあの木の像は、いったい何だったのだろうか。不意に言い知れぬ不安が頭をもたげる。頭のどこかで危険を訴える信号。
もう終わりだと、自分たちに残されたものはもう何もありはしないのだと、何かが叫んでいた。
嗤っていた。
そう、確かにあの木は、自分をあざ嗤っていたのだ。




