23:――そのネックレス
雨に湿った匂いと、初夏の新緑の香りが辺りに満ちている。静かな雨音が街をやさしく覆い、遠くではセミが鳴いていた。
――それらがやがて、途切れ途切れの断末魔となって耳元に響いた。
反射的に身を起こし、息を殺して部屋の中を見回した。何かにうなされていた感触、やりきれない不安がまだ残っている。汗だくになったTシャツの胸元をつかみ、少年は浅く息を吐いた。
「――雨」
無意識にそう呟き、テラスのドアを開けた。肌寒い空気の中に、むせ返るような湿気が漂っている。
少年は素足のままテラスに出ると、眼下に広がる中央公園の燃えるような緑を見つめた。懸命に葉を広げて雨を受け止める、その生命の力強さ。無垢で、どこか傲慢な生命の営み。
息苦しかった。
ここがどこなのか分からない。なぜ、自分はここにいるのだろう。何のために、この場所に存在しているのだろう。
少年は顔をしかめながら、目前に広がるワカナエシティの街並みをぐるっと見渡した。澄んだ小川、群れる小魚たち、並び立つ建物、至る所で人々の生活の一部となっている植物たち。
なぜ、こんなにも違和感を覚えるのだろうか。
答えの見つからない問いが、頭の中で巡る。
「風邪、ひくよ?」
振り返ると、いつのまにか莉菜が窓辺に立っていた。黒いスポーツウェアの首にタオルを下げた彼女は、不安げな表情で少年を見つめていた。
幼さを残す白い頬、涼しげな目元、意志の強そうな眼差し。
その顔を見た瞬間に、少年は思わず息を呑んだ。
「どうしたの?」
莉菜の不安そうな声が聞こえる。その声から目をそらし、額に手を当ててぎゅっと目を閉じた。
「もしかして、何か思い出した?」
恐る恐る問いかけてきた莉菜の言葉に、少年は莉菜の顔をじっと見入った。
「……なに?」
か細い莉菜の声に、少年は彼女から目を離し、ゆっくり息を吐いた。
「……一瞬だけど、あなたの顔に、別の誰かが重なって見えた」
少年はそこで言葉を詰まらせた。
「だけど、思い出せないのね?」
再び莉菜に視線を戻し、小さく頷いた。
「無理に思い出そうとしなくてもいいと思うよ。十何年ていう時間の記憶だから、ゆっくりと思い出していけば」
「十数年分の記憶……」
少年は莉菜に背を向け、空を振り仰いだ。細い糸のように柔らかい小雨が、冷たくその顔を濡らす。その感触は懐かしくもあり、同時にひどく心をかき乱すものでもあった。
「今からジョギングに行ってくるけど……」
「大丈夫」
そう答えると、莉菜は少しホッとした表情になった。
小雨の中を走りながら、莉菜は感傷的な気持ちになっていた。雨に濡れながら街並みを見下ろす少年の背中は、今にも消えてなくなりそうだった。つい、声を掛けるのを躊躇ってしまった。
大人びた表情、近寄りがたい後ろ姿、凛とした横顔。少年の持つ雰囲気そのものが、莉菜にとって異質なものだった。
今まで、あんな瞳に出会ったことはなかった。怒りに満ちていたかと思えば、静寂な光をたたえる。本人の意思とは関係なく、表情豊かに揺らめく漆黒の瞳。
触れてみたいとすら思うその瞳で、彼は何を見てきたのか。何を考え、生きてきたのか。
もしかしたら、彼自身よりも莉菜の方が、それを知りたいと願っているのかもしれない。
何もできないでいる自分に、莉菜は歯がゆさを覚えていた。
玄関のドアが閉まる音を背に、少年は首だけ動かして若苗大学のキャンパスに目を細めた。強くなってきた雨足の先、鬱蒼とした緑の中に、若苗に映える建物が見える。
――嫌悪感。
少年は顔をゆがめた。
まただ。昨日も感じたこの感情。中央公園のあの緑を見ていると、気持ちが落ち着かない。何かざらついたものが、感情を波立たせている気がする。
植物にも感情があるという、莉菜の言葉が頭をよぎった。なぜ、こんなにも気持ちがざわつくのか。とてつもなく大切な何かを忘れているような気がする。そんな喪失感を覚えていた。
のんびり記憶を取り戻している時間はないのだと、その時ふと確信した。同時に焦燥感が生まれる。
「いったい何が……」
何が自分を駆り立てているのか。何に心を乱されているのか。記憶を取り戻したとき、自分はどうなってしまうだろう。不安が、静かに広がっていった。
目を閉じると、柔らかな雨がまぶたに降りかかってきた。その冷たさを受け止め、ざわつく心を押さえつけるようにシャツの胸元を握りしめた。
「大学は休みだけど、行ってみない?」
朝食のトーストを少年に渡しながら、莉菜は言った。唐突に切り出され、少年は手を止めて莉菜の顔を見た。
「大学に?」
「うん。部屋にこもったままより、外に出たほうがいいと思って」
「入れるのか?」
「いろいろ考えたんだけど……」
渋い声を漏らして莉菜は考え込んだ。大学に入るにはIDカードがいる。莉菜が持っていても、彼が持っていなければ意味がない。
莉菜は少年の顔を見た。彼は無表情なまま、じっと莉菜を見つめていた。何か思い出せるとは思ってはいないが、外に出た方がいい気分転換にもなる。それに、年齢的に学校の方がきっかけがあるような気がする。
「なんとかなるでしょ」
「なんとかって……」
「大丈夫」
にっこり笑って莉菜は答えた。構内に入るのは難しいが、中に入ってしまえば、休日で人が少ない分、見咎められる可能性は低い。少年はそれ以上何も言う気がないのか、そのまま黙ってトーストを食べ始めた。
莉菜が買ってきた真新しい白いシャツを着込み、正面で朝食を頬ばっている彼を見ていると、日常の光景のように思えてしまう。中央公園で彼を見つけて、二日しか経っていないのが不思議なくらいだ。
「――そのネックレス」
少年のシャツの隙間に見える、古びた銀のネックレスを指さして莉菜は呟いた。
「コレ?」
少年はフォークを片手に、もう一方の人差し指でネックレスを引っ張って見せた。
「そう、それ」
その鈍い銀の輝きに、莉菜は考え込んだ。長さは彼の首周りにちょうどいいのだが、華奢なデザインが女性ものに見える。彼がこれを自分用に買ったとは考えにくい。
「それ、お風呂に入るときも寝るときもつけたままだけど、誰かにもらったの?」
「……覚えていない」
短く答えて、少年は視線を落とした。
莉菜は小さくため息をついた。自分の名前すら分からないのに、ネックレスのことなど覚えているはずもない。
「だけど……」
視線を上げて少年は自信なさげに呟いた。
「覚えてはいないんだが、すごく大切なものだ、という気はしている」
「大切なもの……。そうか、記憶としては残っていなくても、感情が覚えているのか」
大切な相手からもらった大切なもの。脳としての記憶は失っても、心という感情がその気持ちを覚えている……。
使い込んである感じがするので、母親の形見――そんな可能性もある。
「ちょっと見せてもらってもいい?留め金の部分に何か刻まれているかも」
莉菜がそう言うと、少年は不器用にネックレスをはずして彼女に渡した。
細い銀のネックレスは、ごくありふれたシンプルなつくりをしていた。今までよく持ちこたえていたと驚くほど古いものだった。よく見ると、留め金の部分に小さな文字が刻まれていた。莉菜は眉をひそめながら、その文字を読み取った。
「R.I.――て、イニシャルかな」
「オレの?」
「たぶん違うと思う」
「なぜ?」
「だってコレ、女性ものよ」
少年にネックレスを返しながら莉菜は言った。
「じゃあ、手掛かりにはならないか」
「あまり難しく考えなくていいよ。とりあえず、大学に行く準備をしよう」
そう言って莉菜は手早くテーブルの上を片付け始めた。




