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22:振り返るな

 真っ暗な部屋で、即席のベッドの上、ルリカは抱えた膝に顔をうずめていた。

 

 ランとタケトも後片付けを済ませ、廊下の向かいの部屋にいる。今ごろ自分たちの荷物をまとめているはずだ。

 

「ルリカ」

 

 身じろぎしないルリカの向かいに、サカキが静かに腰を下ろした。

 

「……ルリカ」

 

 もう一度その名を呼ばれ、ようやく顔を上げてサカキと目を合わせた。

 

「本当に手はないの?」

 

 ルリカの頬から、涙がこぼれた。

 

「できることは、自分の身を守ることだけだ。タケトたちも同じ。一緒にいても変わらない」

「そんなこと……」

「タケトだって、望んでないはずだ」

「……」

 

 それ以上、ルリカには何も言えなかった。自分にできることはないと、分かっている。自分の身すら守れないルリカが、誰かを守ることなどできるはずもない。

 

 サカキは、そう言っている。


 分かっている。だが、感情がついていかない。簡単に割り切れるものではない。

 

 サカキも歯がゆいはずだと、分かっている。だからこそ、何とかしたい。

 

「もう寝ろ」

 

 ルリカの心を汲み取ったのか、サカキは広げたシュラフをルリカにかけながら、やんわりと言った。

 

「奴らは来ないかもしれない」

 

 無理やり目を閉じた。それが気休めだと分かっていても、願わずにはいられなかった。


 

 

 そうして、戦慄の足音を引きずるように、雨は静かに降り注ぎはじめた。

 

 雨。それは恵みの

 H2O。水。それは奇跡の

 歓喜。歓喜。

 エネルギー。光合成。栄養分。

 歓喜。歓喜。

 雨。水。H2O。

 生命活動。養分。エネルギー合成。

 歓喜。歓喜。

 たんぱく質吸収。養分摂取。

 エネルギー補給。――光合成。

 H2O。雨。それは奇跡の

 水。

 

 

 

「ルリカ、起きろ」

 

 サカキのささやく声に、ルリカは重いまぶたを開けた。

 

「雨だ」

 

 その声に緊張がこもっている。ぼんやりしていると、ガラス戸をたたく雨音が聞こえてきた。時折、突風が吹きつけている。

 

「シュラフをたため」

 

 ルリカの手元にリュックを投げてサカキは言った。

 

「タケトとランは?」

「分からない」

 

 サカキが答えるより先に、ランが血相を変えて飛び込んできた。

 

「雨だ!」

 その表情は暗がりでも分かるほど、緊迫している。

 

「タケトは?」

「一階に降りた」

「俺達も行くぞ」

 

 ルリカはリュックを背負い、サカキを見上げた。

 

 サカキは拳銃をズボンの腰に差し込み、太もものホルダーにコンバットナイフを差し込んだ。

 

「足元暗いから気をつけて」

 

 先を行くランが、懐中電灯でルリカの足元を照らしながら言った。

 

 この暗さでは、奴らはほとんど動けないはずだった。だが、万が一のこともある。それだけ奴らの環境適応力は、目を見張るものだった。

 

 繁殖力、知能、そして恐るべき食欲。奴らに対して希望的観測は通用しなかった。

 

 一階に降りると、タケトが外の様子を伺っていた。傷口を抑えながら、だるそうに壁にもたれかかっている。

 

「タケト」

 

 ランが小さく声を掛けると、タケトはちらっと目を向けてにやりとした。

 

「外の様子は?」

 

 ランとルリカを部屋の奥に残し、サカキはタケトと入口を挟んだ壁に身を押しつけた。

 

「まだ何ともいえない」

 

 タケトは低く答えて空を見上げ、それからサカキに視線を移した。

 

「雨はしばらく続くんだろ?」

「おそらく、今日一日は」

 

 重くたちこめた雨雲を見上げたまま、サカキが答えた。

 

 奴らが来るのか来ないのか。この雨が降り続いている間は、息を潜めてじっとしているしかない。

 

「サカキ……」

 

 硬い声でタケトがサカキを呼んだ。いつもの調子のいい表情ではない。確固たる意志を持って、サカキを真っ直ぐと見つめている。

 

「南に二キロ行くと大きなビルがある。地下五階まであるらしい。ここがやばくなったらそこへ行け。お前たちなら、何とかなる」

 

 サカキは、苦痛に顔をしかめるタケトを見上げた。

 

 ルリカはグッと唇を噛み締めた。今すぐに行こうとは言えなかった。すでに避難してきた人たちであふれ、パニックになっているはずだ。手負いのタケトにとって、安全とは言い切れない場所だ。その建物がすでに崩壊している可能性もある。

 

「……二人は?」

 

 ルリカの震える声に、タケトは笑った。

 

「オレたちのことは気にするな。生き残ることだけを考えろ」

「……」

 

 夜明けが迫り、視界がはっきりしてきていた。サカキがナイフを抜いて両手に構えた。息を凝らし、外に神経を集中させている。


 

 ――その時


「うたが……」

 

 ルリカの耳が拾った、耳障りな音――

 

「うたがきこえる」

 

 その気配は、まさに「うた」だった。

 

 喜びのうた。

 

 猛り狂う歓喜のうた。

 

 この雨を、この天の恵みを、心から喜んでいる至福の気配。

 

「――ヤツらだ」

 

 押し殺した声で呟いて、サカキがナイフを握り直した。

 

 足元に、かすかに伝わってくる震動。

 

 奴らの足音。

 

 崩壊するビルと砕かれる道路の音が、遠くに聞こえていた。

 

「行け、サカキ!」

 

 タケトの声に、サカキがルリカを振り返った。ルリカはランの手をギュッと握ってサカキを見つめた。

 

「行くぞ、ルリカ」

「でも……」

 

 ルリカはタケトと青白い顔をしたランを交互に見上げた。張り詰めた緊張を解くように、ランが微かに息を吐いた。

 

「行きなさい。人数が多いほうが奴らに狙われやすい」

「ラン――」

「早く!」

 

 握りしめた手が離れ、背中が押された。ランは腰のホルダーから拳銃を二丁抜き、サカキの隣で拳銃を構えた。

 

「行くぞ、ルリカ」

 

 そう言って、サカキはルリカに手を差し出した。ルリカの手が触れると、サカキは雨の中を飛び出した。

 

 奴らの気配が、すぐそこまで迫っていた。このままむやみに走っても、捕まってしまうだけだ。日中の雨が、最も奴らの凶暴性を掻き立てる。とりあえず、近くの地下道に逃げ込むほうが安全だった。

 

「――お前たちは生き延びろ。お前たちなら―――」

 タケトの叫び声を、二人は最後まで聞くことはできなかった。


 ドガッ

 

 コンクリートの崩壊する音が、二人の背後に響き渡った。

 

「タケト、ラン!」

「振り返るな」

 

 悲鳴を上げたルリカの腕を強引に引っ張り、サカキが声を上げた。視界の隅に入ってきたのは、ほんのさっきまで自分たちがいた、ビルの赤い瓦礫。その破片が砂塵となり、波のように押し寄せてきた。細長い建物は基盤ごと崩れ、原形を留めていない。

 

 ――そして、勝ち誇ったようにうねる幾本もの蔓と、地面から突き上げる根。

 

「走り続けろ」

 

 ルリカの手をさらに強く握りしめた。

 

 あの建物を出た瞬間から、タケトとランの運命は分かっていた。自分たちを犠牲にしてまで、タケトが自分たちに託したものも、分かっていた――

 

 だからこそ、逃げ切らなければならない。

 

 生き続けなければならない。


 

 ルリカは息を切らしながら、サカキの後に続いて懸命に走り続けた。

 

 ――歓喜。歓喜。

 

 背後から感じる、勝ち誇った高笑い。

 

 新たなエネルギーを蓄えた奴らの気配が、猛り狂いながら――どこまでもまとわりついて離れなかった。

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