11 : 新聞が読めない?
「新聞が読めない?」
香ばしく焼けたトーストを頬張りながら、莉菜はけげんな声を上げた。朝食はトーストとゆで卵、サラダ、スープ、コーヒー。これが莉菜の朝食の定番だ。
「正確には、漢字が読めない」
訂正するように少年は言い、コーヒーを口にした。この味は知っている。カップの中の黒い液体へ視線を落とした。砂糖もミルクもいらない。記憶がなくともこういうことは体が覚えているのだろう。
「だって、普通に会話できてるじゃない」
「会話は問題ない。だが、ニュースの中で理解できない単語があった」
「たとえば?」
「……“かぶか”とか、“かわせ”とか」
先ほどのニュースを思い出す。
「そういうのって、記憶と一緒に忘れちゃったんじゃないの?」
「特定の単語だけ忘れる?それは考えにくい。記憶と言語は脳の別の領域にあるはずだ」
「――知識は残ってるしね。」
そう言って莉菜は眉をひそめて考え込んだ。
「ということは、学校に行ってなかったのかな?」
「学校……」
「学校に行ってれば、普通は漢字を読めるでしょ」
「つまり、オレは普通じゃない生活を送っていた」
「そう決めつけなくても。何か別の理由があるのかも」
莉菜は明るく笑って言った。あれこれ考えても、分からないものは分からないのだ。変な憶測をするくらいなら、何も考えないほうがいい。
「それはそうと、私、夕方まで学校なんだけど、一人で大丈夫?」
「平気」
そう言って少年は少し思案顔になった。
「外出してもいいか?」
「そうねぇ、IDカードがないからな。……その辺を歩くくらいなら大丈夫だと思う」
常にIDカードの携帯が必要だといっても、施設に入るときや職務質問を受けたとき以外に、いきなりIDカードの提示を求められることはまずない。近辺をうろつくだけなら問題ないだろう。
「あまり遠くへは行かないでね」
「散歩するだけだから」
少年の回復力には目をみはるものがあった。昨日はまだ体を動かす度に少し痛そうだったが、今朝は全く問題ないようだ。これが、体力のある十代の回復力なのかと、ただ驚くばかりだった。
傷の手当をしたときに見た彼の身体は、ぱっと見たときに受ける華奢な印象とは裏腹に、割と筋肉質だったので何か運動をしていたのかもしれない、と莉菜は思った。
朝食をすませた少年は床に腰を下ろし、読めない新聞に悪戦苦闘していた。
感情を表さないその表情の裏で、彼が何を考え何を思っているのか、莉菜には分からない。記憶がないということは、それまでの自分自身を知らないということだ。自分でありながら、他人のようでもある。
“自分”という人格の基盤が全くない状況にありながら、不安な素振りは全く見せない少年の精神力に、莉菜は頭が下がる思いだった。
手早く身仕度を整えてバッグを手にすると、莉菜はいくらかの金をテーブルに置き、新聞に没頭している少年に声をかけた。
「学校行ってくる。何か必要なら、このお金使って」
「わかった」
「あと、オートロックだから、出かけるときは必ずこのカード・キーを持って出てね」
莉菜は鎖がついたスペアのカード・キーを少年に渡した。少年はそれを受け取ると、銀のネックレスの上から首にぶら下げた。
「使い方分かる?」
「問題ない」
「そう。じゃあね」
そういい残して莉菜は出かけた。少年を一人残して出かけることに不安がないわけではなかったが、週一回しかない講義を休むわけにもいかない。ふだんは散歩代わりに歩いて学校へ行っているのだが、今日は車で行くことにした。
莉菜が出ていったあと、一人残された部屋の中で、少年は「自分」を思い出そうと試みた。頭を打ったわけでもないのに、何が原因で記憶を失ったのかまるで見当がつかない。知識などはともかく、記憶がないというのは不思議な気分である。自分という、知らない他人が、もう一人、自分の中にいるような気がした。
少年はそれ以上考えるのを諦めて、外に出てみることにした。
昨日と同じ雲一つない青空が広がっている。初夏から真夏へ向かう日差しがじりじりとして暑い。あちこち擦り切れてるとはいえ、真っ黒な長袖のシャツを着ていることを後悔しつつ、ボタンを全て外して風をうけた。湿気を帯びた風が、傷だらけの体に心地よく触れた。
道路を渡り、ベランダから見下ろしていた川原に降りる。幅二メートルぐらいの小川は、小さな子供でも十分に渡れるぐらい水深が浅い。のぞき込むと底は小さな砂利になっており、その上をザリガニやメダカが泳いでいるのが見えた。
履いていたブーツを脱ぎすて、透明な小川に入ってみる。熱い日差しとはうってかわって、ひんやりとした感触が伝わってくる。ザブザブ歩いてみると、足の裏をくすぐる砂利の感触が心地よい。ゆるやかに流れる小川の、ささやくような音が心を和ませていく。
まるで、悠久の夢の中にいるようだ。
こんな気持ちになったのは、どれぐらいぶりだろう。
そう考えて、少年はふと不安になった。こののどかな現実が、かき消されてしまいそうな不安。自分が立っている場所が、足元から崩れ落ちてしまうような焦燥感。そんな錯覚に陥った。
ここはどこだ。
なぜオレはここにいる。
長いため息をついたとき、不意に足首をつつかれるような気配に気がついて、足もとを見下ろした。足首にまとわりつくように、小さな魚の群れがぐるぐると回っていた。まるで侵入者を取り囲むように、威嚇しているように見えた。
身動きせずにじっと見守っていると、やがて小魚たちは諦めたように下流のほうへ泳いでいった。その後を視線で追うと、その先に中央公園の樹木が風にそよいでいるのが見えた。小川はそこへ一直線に向かっている。
「中央公園、若苗大学……」
少年は低く呟いて、それらを正面から見据えた。無意識のうちに、ネックレスを強く握りしめていた。




