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10 : 結構早起きなのね

 街のすぐそばまで迫る山から昇った朝日が、停滞していた街をゆっくりと照らし始める。静寂に閉じ込められていた夜の空気がほどけるように、淡い光を受けた街並みが新しい色を取り戻していく。


 そして、その中央には朝日を浴びる若苗大学が毅然と構えている。



 地球環境全般の修復および改善を主な目的として造られたこの大学では、先進的な技術や理論が、研究と無数の実験によって生み出されていた。


 だが、たとえすべての研究者がそれを百パーセント人畜無害だと口をそろえても、長い時間軸で見れば、危険因子をはらまないとは言い切れない。


 目前に迫った破壊に脅え、自らの研究の栄華を信じて疑わない彼らの中に、それを理解していた者は一人もいなかった。





 いつものように、朝六時にジョギングをしようと莉菜が寝室から出たときには、もう少年はベッド代わりのソファから起き出して、ベランダから外を眺めていた。

 

「おはよう、結構早起きなのね」

 

 手すりにもたれ、風に吹かれているその後ろ姿に、莉菜は声をかけた。彼女が貸した寝間着はきれいにたたまれ、ソファの上に置かれている。少年は夜のうちに洗濯して乾かしておいた自分の服に着替えていた。

 

「あなたも早起きだな」


 風に髪を乱されながら、少年は部屋の中に入ってきた。

 

「私は大体いつもこの時間。四十分ほどジョギングするの」

「それで、その格好か」

 

 莉菜が着ているシルバーのトレーニングウェアを見て、少年は呟いた。

 

「七時前には戻ってくるから、テレビでも見ていて」

 

 テレビをつけて新聞を少年に渡すと、莉菜はテーブルの上に置いてあった時計を腕にはめて部屋を出た。

 



 少年は小さな吐息を漏らし、ソファに腰かけて新聞をひろげた。もしかしたら何か載っているかもしれない。


 しかしすぐに彼はそれを折りたたみ、テーブルの上に置いた。


 ――読めない。ほとんど理解できない。

 

「……日本語、だよな」

 

 平仮名はともかく、漢字がほとんど読めない。だが、会話は問題がない。ただ、テレビから流れてくるニュースの中で、理解できない単語や言い回しがある。

 

 記憶とともに、言語能力も失われてしまったのだろうか。


 少年は眉を顰めた。考えても答えは出ない。自分が何者でどこから来たのか、見当をつけるものが何もないのだ。


 莉菜の言葉をかりれば、まるで突然、湧き出たかのようだ。


 少年は再びベランダに出た。


 昨日と同じように、雲一つない青空がどこまでも続いている。手すり越しに下を見下ろすと、道路の向こうに小川が流れている。七階のここからでも、水が澄んでいるのが分かる。街の創設にあたって設計された人工のもので、魚や小生物が放流され、今では自然と変わらない姿になっている。昨晩、莉菜がこの街の成り立ちとともに話してくれた。

 

 真南を向いているベランダからは、中央公園を取り巻くように右に弧を描いていく街並みがよく見える。計画的に造られた都市らしくきれいに区画整備されており、至る所に緑が配置されている。基本的に研究機関の関係者しか居住していないためか、商業ビルなどは建っておらず、街全体が閑静な住宅街といった印象を受ける。

 

 右手には中央公園の鬱蒼とした緑と、朝日を浴びて若苗に映える若苗大学のキャンパスが見え隠れしていた。キャンパスを包むように広がる林は、風に揺れて枝葉をしならせている。どこにでもある、よく整えられた緑――



 だが、わずかな違和感が胸の奥に引っかかった。風に揺れる枝葉も、聞こえてくるざわめきも、どこを見てもごくありふれた光景のはずだ。


 それなのに――どうにも落ち着かない。


 まるで、何かに見られているような感覚だけが、理屈なく残る。

 

 ワカナエシティのシンボルでもあるこの鬱蒼とした森の茂みに、少年は何か嫌悪感にも似た気持ちを抱かずにはいられなかった。


 理性を越えた本能に最も近い心の奥底で、畏怖を通り越した憎悪だけが、じわりとこみ上げてくる。この感情がいったい何から来るものなのか、そしてそれをどう言い表していいのか少年には分からない。

 

 それでも、アレから目を逸らせない。

 逸らすべきだと、分かっているのに。

 あの緑を見ていると、チリッとした痛みが走る。



 風に吹かれながら考え込んでいると、ドアの開く音がして莉菜がジョギングから戻ってきた。額の汗をタオルで拭きながら、上着を脱いで椅子に掛ける。

 

「シャワー浴びたら朝ご飯つくるから待ってて」

 

 そう言うと、莉菜はジーパンと黒いTシャツを肩に掛けてバスルームに入っていった。


 少年は部屋の中に入ってソファに腰を下ろした。さすがにもう日の光が強く、直接浴びていると汗がにじんでくる。テレビを観ると、先ほどまでやっていたニュースは終わり、別の番組が映っていた。

 

「……くだらない」

 

 作る側も、それを見て笑う側も、目先のことしか見ていない。自分を取り巻く狭い世界のことだけで、先のことやどこかで苦しんでいる見知らぬ他人のことなど、二の次なのだ。


 そう思って、少年は少し驚いた。なぜ、自分はそう言い切れるのか。根拠はない。なのに、確信だけがある。

 

 ――知っているはずのないことを。

 

 少年は無言でチャンネルを切り替えた。

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