第十四話
眠る女性を見たことがないわけではないが、これまで見てきた中で一番驚くべきものが皐月の寝姿だ、とエリオットは思う。
エリオットははっきり言って育ちがいい。恵まれた家系に生まれ、それなりに愛されて育った。が、男児だったのでそこまでの寵愛は受けなかった。それに母の身分がそう高くなかった。だから疎まれはしなかったが必要とはされなかった。
それ自体はままあること。だからこそエリオットは己の力で身を立てようと神官となったのだが、物心つくまでは豪奢な家具や素晴らしい食事を与えられていた。淑女たる女性も近くにいたことはいた。皆肉親な上に随分と年上であったけれど。
エリオットが知る淑女とは、淑やかで、麗しく、心優しく、大らかで温かな大人の女性である。つまり皐月とは正反対な女性だけなのだが、それらは母と同世代でもあった。
そんな淑女がこうして輿の中で眠るところも、こうして丸まる姿も、ましてやクッションを抱きしめるところも見たことはない。しかも幸せそうな緩んだ笑みを浮かべる姿も。あの小屋の中で皐月が丸まって眠る姿を見てはいたが、あの時は成人前の子供だと思っていた。それにベッドの中で、掛布に包まっていたからはっきりと直に見たわけでもない。
けれど今、皐月は何かに隠れることなく眠っている。クッションを抱き、ふにゃふにゃと丸まりながら笑顔で。
女性、それも小柄な女性がこうした姿をすると、それはもう可愛らしいのだな、と思ってしまったのはエリオットが正常だからなのか。エリオット自身もよくわからない。が、とりあえず皐月は可愛いと思う。見ていて飽きない、という意味も含めて。
だが起こさないままでいるわけにもいかない。エリオットは意を決して皐月に目覚めを促そうとした。が、どこに触れてよくて、どこに触れてはいけないのかわからなかった。手を宙に浮かせたまま暫しの逡巡。浮かばない答えを求めるため、さっさと食事を始めた彼を振り仰いだ。
「──アルバロ、どう起こせばいい、のか……わかるか?」
行儀悪く椅子に片膝を立て座り、堅パンを頬張って顔の形を変えている姿は上品とは言い難い。が、その表情から美味いと感じているのだとはよく伝わる。アルバロは本当に食事が好きなのだろうとも。随分と年上だが、微笑ましい子供を見ているような心地になる。
が、今はその姿に癒されている場合ではない。視線で答えを促せば、口の中のものをスープで流し込む。やはり上品ではないが、音を立てない配慮はあるようなのでさほど気にはならなかった。
「別に叩いて起こしゃいいんじゃね? そんな繊細なやつなわけじゃねえだろうし」
「いや、しかし……サツキは女性だろう? その、女性に手を上げるなど男としても、近衛としても許容できるものでは……」
「つってもこいつはなんか言っても起きやしねえと思うが。今だってこんだけ普通に話してても寝てられんだぜ? そんな配慮が必要なもんじゃねえだろ」
確かに声を潜めてはいない。それで目覚めそうな兆しもない。が、起こさないままでいることもできない。今食事を摂らなくては神殿に着くまで何も口にできないことになるのではないか、とエリオットは思うのだ。
この後も休憩の予定は一応あるが、食事のために煮炊きする余裕が取れるかわからない。そうなれば出せるのは精々堅パンと干し肉のみ。それを女性に出すのも心苦しいからこそ、まだ温かいスープを食べて欲しいと思う。それがジョルジェットの料理の腕を知っているからなのか、自分が美味いと思うものを食べさせ、喜ばせたいのか。わからないが、ジョルジェットが作るスープを食べ逃すのは勿体無いことなのだから、起こすべきはず。と、エリオットはよくわからない理由で再び決意した。
そろりと手を伸ばし、どこに触れるか一瞬の逡巡。
頭──は落ちものとしても、女性としても高貴なる存在であると認識するが故に触れることは罪。では肩か、と言えば許可なくその体に触れるなど言語道断であると浮かぶ。ではどこに、と考えやはりどこにも触れられなくなる。エリオットは伸ばした手を握りしめ、皐月を呼ぶことにした。触れられないのなら声をかければいいのだから。
「サ、サツキ、食事ができているんだが……」
語尾がしりすぼまりになるのは皐月が寝返りを打ったから、ではないと思いたい。横顔でなく、正面から寝顔を見たからではない。その細い喉を目にしたからでも、服の襟元が開いているのに気がついたからでもない。ただ、気持ちよさそうに眠るから起こすのが忍びないだけなのだ。エリオットは必死に言い募ってみた。
子供のようで幼くも見えるのに、やはり皐月は婚姻可能な成熟した女性なのだ。なんてことを考え固まっているのであろうエリオットと、その目の前で寝こける皐月とをアルバロは白けた目でみていた。多分きっと、という形ではあったが、アルバロはエリオットが考えているだろうことをかなり正確に理解していた。頭の固い彼の思考回路は単純と言って差し支えないからかもしれない。
垣間見える赤く染まった顔も、握りしめられた拳が揺れているのも、照れと羞恥と、葛藤の所為なのだろうとも浮かぶ。傍で見ている分には面白いが、そろそろ声をかけた方がいいのか。アルバロは窓の外に視線を流し、放置することにして、食事を続けた。まあ、頑張れよ、と適当な声援を心の中で送りながら。
逡巡するエリオットと無心に食事するアルバロと眠りこける皐月。輿の中は混沌としている。が、アルバロはそれでいいと思っている。自分の渡した古書を手に話し始めている三人を見たが故の選択だが、間違いではない。きっとエリオットが、皐月が始まりの存在かもしれず、終わりの存在かもしれないと知れば今以上に皐月を神聖視するだろうことは難くない。それでは困るのだ。
皐月は王都に着いたら見習い侍従の振りをすることに決まっている。古文書館にいた下働きをレオが侍従として雇い入れる形で、零番隊の付きとするわけだ。古文書館内ではそれなりに地位のあるアルバロの推薦状をつけて。
突貫で考えた拙い工作だが、多少の目くらましにはなる。なにせ古文書館の館員は、昼日中どころか日が暮れても館から出ることがない。というか軽く一月館からでない猛者すらいる。つまり顔を広く知られていることもない。というか、全体の人数すら把握されているかも疑問だ。いつの間にか増えているのが現状なので、アルバロですら正確な人員配置も人数も把握していないくらいだ。あれ、古文書館で匿っときゃいいんじゃね? とは浮かんだが、そうなれば自分が面倒を見ることになるのでなかったことにした。旨い飯はアリだが、皐月という異性をそばに置くのは色々な意味で面倒臭い、と思ってしまうアルバロだ。
そんな目くらましをするのは皐月が落ちものであるから。それも託宣の存在であると知られないようするためなのだ。そこに付加価値がつくのだとエリオットが知れば、彼の性格から余計に皐月を神聖視するだろう。ただでさえ別の意味での価値があると思われそうな外見をしているのだ。これ以上の興味は引かないようにしておかなければならないだろう。
隊付きの見習い侍従を、一隊員が神聖視──など傍から見れば不審を抱かせること請け合い。そうでなくとも男ばかりの神殿内ではそれなりに男色の毛がある輩もいる。エリオットと皐月にそんな疑いがかかったら、きっとフォルナートが面白いことになるが、そこに巻き込まれるのは面倒で堪らない。ただでさえ目をつけられているような気がするアルバロなのだ、これ以上の攻防は体力が持たなくなる──ではなく、皐月を目立たせてはいけないのだからそれでいいはず。
危険の目は少しでも摘んでおきたい。だから今、エリオットに助けを出さないのは面倒だからではない。面白いからでもない。ちょっとばかり長くこの輿の中にいて欲しいだけなのだ、と普段以上に味わいながら食事を済ませ、果物に手を伸ばす。皐月に、と言ってエリオットが用意したものだが、それにしたって量が多すぎる。一つ二つ減らしたところで問題はない。というかメロはアルバロの好物なのだ。食べない選択などなかった。
歯応えがあり、瑞々しい果肉。口いっぱいに広がる甘みと、それを引き立てる僅かな酸味。幾つでも食べられる。つーか起きねえんなら全部食べても平気じゃね、とは思ったが大人なのできちんと皐月の分は残した。八割食べたが皐月は多分少食だろうから問題ないはずだ。
自分の取り分と決めたメロを食べ切り、冷えた茶を一杯ゆっくりと飲み干す。この間四半刻以上に経っているが、エリオットは未だ皐月の前に立ち尽くして──否、膝をついて項垂れていた。多分自分の不甲斐なさに心が挫けたのだろう。仕方ない、とアルバロは声をかけてやることにした。丁度よく外の話も終わったようだから。
「エリオット、ちょっとどいとけ」
手に馴染む丸い石を握ったまま席を立ち告げる。多分巻き込めばフォルナートが煩くなるだろうから、それは回避したい。彼の小言はアルバロを苛つかせるのだ。食事が不味くなるようなことは避けるのが吉。全ての判断基準が食に関わることであるのは否定しないくらいには、食べることが好きなアルバロである。
「っア、アルバロ? 何をするつもりだ?」
「何ってサツキを起こすんだろ? スープはだいぶ冷めちまったが、まあ旨いから問題ねえし。というわけでそこどけ?」
経年劣化をしないで、荷を大量に収めることができる──という本を痛ませない素晴らしい術式を込めたこの石は、アルバロの荷袋の代わりでもある。目くらましとして一応の袋は背負っているが、それも中身はごく少量。殆どはこの中に入っている。それをエリオットも知っているからこそ、動揺しているのだろう。アルバロが何を出すのかわからないから。
無詠唱で石から出したものは革袋に飲み口をつけた水袋。丁度よく神殿で冷えた水を入れてきている。手に触れる温度からもそれは今なお冷えたままなのだと伝わる。さて、どんな風に皐月は起きるのか、とニヤつきながらアルバロは口を開けた水袋を傾ける。
「アルバロ、何を……」
一滴、二滴。頬に、額にと雫が落ちるが眉を顰めるだけで皐月は目覚めない。調子に乗って少しばかり傾きを強くすれば、雫どころではない量が流れた。が、まあ多少濡れたところで問題はないはずだ、と幾度かの瞬きと共に開く目を見ながら楽観する。
「……アルバロ、コレなんてイタズラ?」
「目覚めのための儀式?」
「………ああ、そう。そうなんだ、儀式なんだ」
非常にゆっくりとその背を起こす皐月を見つめながら、神妙に言ってみる。もちろんそんな儀式は存在しない。詭弁である。誤魔化し、と言った方が正しいかもしれないが。
「サ、サツキ……大丈夫か?」
「あー…大丈夫か大丈夫でないかで言えば大丈夫じゃないよね。顔どころか上着全部濡れてるんだから。ね、これで大丈夫って言える?」
「そんなんすぐ乾かせんだから大丈夫に決まってんじゃねえか。大体これは目覚めの儀式なんだから、お前が起きたことで成功してんだぜ? 感謝されるならわかるが、非難される謂れなねえぞ」
それはもういい笑顔で言い切る皐月の姿に失敗だったかとは浮かんだが、押し切る選択をした。間違いでしたごめんなさいと謝るのは簡単だが、なんとなく皐月に素直に謝るのは癪だった。別に苦労して実用化した術を話しただけ、それも無詠唱で成功されたのが悔しかったわけではない。アルバロの心はストレット湖という王都にある観光名所より少し狭いくらいなのだから。
「ほら、起きたんだったら飯食えよ。お前が食べ終わりゃ出発すんだから四の五の言わずに食え」
ずいっと皐月の目の前に堅パンを差し出す。ニッコリと、それはもう貼り付けたような笑みを見せる皐月を見ながら、とりあえずこれで大人しくなるだろうと考えるアルバロは、王都一の頭脳の名をを返上した方がいいだろう。
その行動も、それよりも前の行動も、皐月の機微を読み取れないところも、どれも大人とも、頭脳派とも言えないのだから。
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噛み応えのあるパンを齧りながら、皐月は輿の中で膨れている。ちなみに目の前の通路のようなそこにはアルバロとエリオットの二人がいる。椅子ではなく、床に。それも正座で。
眠っていたところを食事だから、と起こすまでは普通の行動だ。エリオットがしたという声を掛けるというのもその範疇だろう。が、アルバロがしたのはそれとはかけ離れた行動だと、悪戯だとしか皐月には思えなかった。
起きないからと言って水をかけていいことにはならない、と思ってしまうのは普通の反応だと皐月は思う。子供の悪戯なら未だしも、いい大人──それも二十代後半の人間がやるべき行動ではないと思う。
という経緯から皐月は二人を叱り、罰を与えた。ちなみにその際の皐月も大人気なかったかもしれないが、被害者であるので不問になるはずと思ってもいる。
「その……サツキ、本当に済まなかった。まさかアルバロがあそこまでの量を掛けるとは思わなかったのだ……」
「……そうですか」
「んだよ、仕返ししてんだからお前だけ怒るのはおかしいだろ。俺だって被害者だぞ」
神妙に告げ、項垂れるエリオットはまだ反省の色が見える。が、アルバロは微塵もそれを感じさせない。それどころか太々しささえ感じる顔をしている。許すまじ、と思ってしまうのも仕方ないだろう。
そう、例えシャツをずぶ濡れにされ、同じように濡れてしまえばいいのにとちらりと思ってしまったから彼らが皐月と同等──どころかもっと濡れたのだとしても、それは自業自得でしかないはずなのだから。
「濡らしたのは乾かしたもん。私のもアルバロとエリオットさんのも今はすっかり乾いてるでしょ」
「そうだな。元よりも柔らかく乾いているくらいだ。サツキはすごいな」
「か、乾いてりゃいいってもんじゃねえだろ! 溺れるかと思ったんだぞ!」
「それ、私も思ったんですけど。しかもアルバロと違って、私の場合寝てる時ですからね。どっちのが危険だと思います?」
「っぐ……」
一概にどちらが危険かは言えない。というか多分全身を水に包まれたアルバロたちの方が危険度は高かったような気もするが、眠っている時にかけられるのも心臓が弱ければ死んでいたかもしれないだろう。尤も皐月の心臓はそんな危険など全く気にせずに済むくらいに健康なのだが。
とりあえず気が収まらないので暫くの間彼らを正座させることは決定事項。むしろ暫くどころか次に止まるまではこのままでもいいかもしれない。ふと浮かんだ思いつき。皐月はエリオットに問うてみた。
「エリオットさん、この後って止まる予定はあるの?」
「ある。が、まだ暫く走る予定だ」
「ふうん……暫くってどのくらい? 一刻とか二刻とかじゃないくらい?」
皐月はレオと交渉して、レオの代わりにエリオットを輿に乗せてもらうことにしたのだ。というわけで今は走行中である。相変わらず揺れ一つないので、本当に走っているのか不安になるくらいだ。
「──お前……まさか次に止まるまでこのままでいさせるつもりなのか?」
「そのつもりだけど? まあ、三刻以上になるなら考えるかな」
一刻は一時間半である。アルバロから聞いたそれを皐月は覚えていた。二刻で三時間丁度なら、罰正座としては妥当だと思う。かくいう皐月は罰として五時間ほど正座したことがある。後にも先にもそれだけだが、途中に休憩すら入れてもらえなかったから、大変だった。まさか罰を与えた側が、それを忘れているなんて思いもしない。非常に大変な目にあった出来事だ。
エリオットも、アルバロもきっと正座したその後を知らないだろう。皐月的には正座だけが罰ではないのだと、後で思い知るといい。そんなことを思いながら、スープの最後の一口を飲み込む。
「うう……美味しかった」
「そうか。そう言って貰えればジェットも喜ぶだろう」
「え、これジェットさんが作ったんですか! うわー…すご……」
「ああ、ジェットは料理が上手いんだ。何を作っても美味い。それに手先が器用で、そこのメロもジェットから預かって……む?」
「メロってこのお皿のですか? うわー…ウサギリンゴに飾り切りまである! すっごい! ジェットさんすごい!」
テンションが高くなってしまうのはウサギにカットされたものの他に、見たこともない形ではあるが花を象ったものまであったから。メロは林檎のように赤い皮に黄色味がかった果肉をした果実で、甘い匂いも林檎そのまま。皐月はウキウキしながら手を伸ばした。
「メロは加工がしやすいことで有名なんだ。加熱してもよし、生でもよし、程よい硬さもあるのでこうして飾り切りすれば見栄えもいい。ジェットがサツキが好むだろうとこうして──」
「って、おい! そんなん後ででいいだろ! 今はコレをいつまで続けるのかって話だろうが!」
「ああ、そうでしたね。というわけで、後どれくらい走ったら止まります?」
「正味三刻、といったところか? 次の予定地は王都に近い村のそばになる予定なのだ」
「最悪だ……。あそこじゃ止まんねえ確率が高えじゃねえか……」
「えーと……そこで止まると何か問題があるんですか?」
「ないと言えばないが、あると言えばある。レオの考え次第になるな」
言葉を濁すエリオットに、頭を抱えるアルバロ。面白いけれど流石に三刻は可哀想か、と罰の短縮を考える。
眠っていた自分を起こしにきたこと、食事を持ってきてくれたことはいいことだろう。そして起こすために声を掛けたことも普通のことで、どこに触れたらいいのかわからなかったと言われると可愛いとしか思えないので、エリオットの罰は軽くてもいいかもしれないと思う。それにエリオットは色々と丁寧に答えてくれるのだから、やっぱりそれでいいだろう。こくり、と頷き皐月は言った。
「エリオットさんはもうそれやめていいです。うん、よく考えたら巻き添えにしちゃっただけみたいだし……ごめんなさい」
「い、いや! 起こせなかった俺も悪いのだ。その、サツキが謝る必要ないぞ!」
「そうですか? そんなことないと思いますけど……」
「おい待て! なんでエリオットだけ! 俺だってお前を起こしてやったろ!」
「却下です。アルバロはあと一刻はそのまま。それができないなら、もうこれから先お菓子わけてあげないもん!」
死活問題にもならないだろうことを引き合いに出したが、アルバロの顔は衝撃を受けた、と伝えている。本当に、本当にアルバロは操作がしやすい。本当にこんな子供のようで、且つ操りやすいのに王都一の頭脳を名乗っていていいのだろうか。不安になるくらい、アルバロは反省を見せた。が、一刻経つまで許す気はない皐月だった。




