第7話 「これは『ありがとう』かな」
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初めての「Verse Chat」を強制終了で終えた慎太郎は、美味しそうな匂いで現実に返った。
ちょうど夕飯の時間だ。実家住まいなおかげで休職してからも大きく生活リズムを崩さずに済んでいる。いや、休職当初は一日中寝ていたか……。
むしろゲームを始めてからの方が生活リズムが改善してきたかもしれない。
一階のダイニングに降りると母が夕食を準備していた。
「今夜はシチューよ」母が振り返らずに言う。先週もシチューだったと思うが……もちろん作ってもらえるだけありがたいので文句などあろうはずもなく、「ありがとう」とだけ言ってダイニングテーブルにつく。
ほどなく母が深めの皿によそったクリーム色のシチューを慎太郎の前に置く。それから炊飯器に向かうと茶碗によそったご飯を渡してくれる。
井上家ではシチューにはご飯が定番であった。薄めに切って焼いたバゲットなどというものは実家では久しく見ていない。
妹が慎太郎の隣にかけると、母が慎太郎と同じように妹にもシチューとご飯をよそった。
「お母さん、先週もシチューだったよ?でもありがとう」
どうやら妹は心の声を口に出さずにはいられなかったようだ。
慎太郎は「いただきます」と手を合わせるとスプーンを手に取る。妹も同様に手を合わせてスプーンを持った。
二人は黙々と食事を進める。社会人の兄と思春期真っ只中の妹の間で会話などないのだ。
では兄弟仲が悪いかというと決してそんなこともなく、先日の「第一回 井上家大ゲーム大会」以来、何度か妹や弟とポータブル機で対戦ゲームなどを遊んでいる。
きっと弟妹なりに休職している兄を気遣ってくれているのだろう。
先月までの慎太郎は帰りが遅く、母が取り置いてくれた食事をもっぱら一人で温め直して食べていた。
たまに慎太郎が早く帰れた日は残業した父と帰宅時間が重なる、そんな程度だった。
飛び込みで訪問した客先では追い払われ、帰社してからは「今日もダメでした」と日報を書き、上司のため息で業務を終えるのだ。今思えば食事を味わえるような精神状態ではなかった。
母の料理は手抜きに分類されるとは思うのだが、唐揚げかと思うほど大きい鶏肉も、せいぜい四つにしか割られていないジャガイモも食べ応えがあり美味しかった。
ずっと家にいる日々に引け目はあるが、こうやって家族と出来たての食事をとれる日々には料理の熱だけではない温かさがあった。
「ごちそうさま」
再び手を合わせた慎太郎は食器を流しに置くと席をたった。
先に食事を食べ終わりリビングに移動していた妹は、いつものようにポータブル機で遊んでいた。
慎太郎はそんな妹の様子を眺めながら胃が落ち着くのを待つと、風呂を済ませて自室に戻る。
さっきはようやく「Verse Chat」の世界に降り立ったものの何をすればいいのか、何ができるのかわからず、無理矢理ゲームの世界を出てしまった。
「何すればいいのかわかんなかったから調べてみよう」
ベッドに寝転がりスマートフォンで動画アプリを開く。「Verse Chat」を知った動画は、まだ「あとで観る」リストに残っていた。その同じ動画をもう一度見ながら「関連動画で何か出ないかな」と期待する。
関連として出てきた動画をいくつか観るが、かわいい女の子アバターがしゃべっているか、何かの内輪ネタみたいな話もあった。
「お砂糖?」「お塩?」ゲーム内の用語であろうことは分かるが、なぜ調味料なのかは分からなかった。ゲームキャラがシチューを作ってくれるわけでもないだろう。
続けて再生されるまま動画を見ていると、FPSらしき戦闘シーンや釣りをしている様子、麻雀など様々な動画が出てくる。これらは本当に全部同じ「Verse Chat」なのだろうか。
中には、以前観た女の子が手話で話しかけてくる動画もあった。たしかにVRゲームなら手話もできるのだろう。
「これは『ありがとう』かな」
慎太郎は手話のかろうじて読み取れた部分を読み上げる。
手話表現の「ありがとう」だけは昔、手話で接客してくれるカフェに行った時に覚えたのだ。あのカフェには妹に連れられて行ったのだったか。
妹がある大学のオープンキャンパスに行ってみたいとのことで、平日休みの自分が付き添うことになったのだ。高卒の自分には大学自体がものめずらしく、妹と二人でキョロキョロしていただけだった。
帰りにひと息つこうと提案したところ、妹のたっての希望で駅のカフェに行くことになった。女子はこのカフェチェーンが大好きである。
このカフェ自体は地元にも何店舗かあり、慎太郎ももちろん行ったことがあった。しかしこの店舗はそれとは分かるものの他店とは看板の様子が少し違っていた。
とはいえメニューはどの店舗でも一緒だろう。メニューを真剣に選んでいる妹を横目に慎太郎は「コーヒー」でいいかなと思いレジの方に目を向ける。
レジ前には他店にもあるブラックボードがかかっており、しかしそこには季節の限定メニューと並んで「今日の手話」が書かれていた。
続いてレジを見るとお客さんがスタッフにジェスチャーだけで何かを訴えかけている。
「あ、手話か」慎太郎はそこでようやく店のコンセプトに気づいた。手話の店舗だったのだ。
手話は小学生時代に交流イベントとかでちょっと見たことがある程度だ。注文なんて到底できない、そう思って焦るが、慎太郎等の順番になるとスタッフは「ご注文お決まりですか?」と話しかけてくれた。
どうやら口頭でも注文できるらしい。
注文を済ませ受け取り口に移動した慎太郎は妹がスマートフォンを注視しているので、仕方なしに待ち時間をつぶせるものを目で探す。
するといかにも「待ち時間にどうぞ」と言わんばかりの場所に「基本の手話」と書かれたパネルがあった。
ふむふむ「ありがとう」は……パネルの絵を真似てやってみる。これで合っているのだろうか、正直分からない。
ほどなく慎太郎たちの注文番号が呼ばれたので、受け取り口に向かう。
妹と自分のドリンクを受け取った時、渡してくれたスタッフが「ありがとうございました」と言いながら、手のひらを下にして横にした左手の甲に、立てた右手をチョップのように当てた。
「どうも」と言いながら慎太郎は気づいた。あ、あれが「ありがとう」の手話だ。
あの時以来、慎太郎は手話の「ありがとう」だけは読み取れるようになったのだった。
動画アプリに意識が戻る。探せばあるものでVerse Chatの関連動画は次から次へと出てくる。
手話での会話が成立するほどの自由度の高さはいかにVRゲームとはいえ慎太郎の想像を超えていた。何ができるのか俄然興味が湧いてきた。
それなら、と慎太郎は動画アプリの検索欄に「Verse Chat 初心者」と入力してみる。
「初心者向け動画たくさんあるな、ありがたい」
検索結果の多さに安心しつつ、評価の高い動画をいくつか見てみる。
動画自体でゲームの解説をしてくれているものもあれば、「初心者はここに行け」とおすすめの場所 — ワールドと言うらしい — を紹介してくれている動画もあった。
「チュートリアルワールドっていうところがあるのか。明日はここに行ってみよう」
まずおすすめのワールドに行ってみるのが早そうだ。
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