就職氷河期を生き抜き、50代を迎えたトオルの視点で描く短編小説
窓の外には、五月の湿った風が吹いている。
オフィスビルの十五階、自分のデスクから見える空は、二十代の頃に見た空よりもどこか低く、重たく感じられた。
僕――トオルは、今年で五十二歳になった。
いわゆる「就職氷河期世代」のど真ん中だ。最近ではテレビやネットで「失われた世代」だの「孤独な中年層」だのと、勝手なレッテルを貼られることにも慣れてしまった。だが、ふとした瞬間に、あの頃の冷たい空気の感触が指先に蘇ることがある。
今の二十代、僕たちの部下にあたる世代から見れば、僕らは「中堅からベテラン」の域に達した、安定した存在に見えるらしい。
「トオルさんはいいですよね、バブルの名残みたいな終身雇用で守られてて」
後輩の若手社員が、自嘲気味にそう言ったことがあった。僕は苦笑いするしかなかった。彼は知らないのだ。僕たちの世代が、どれほど必死に、泥水を啜るような思いでこの「安定」という名の椅子を奪い合ってきたかを。
三十年前、大学の卒業を控えた僕たちを待っていたのは、出口のないトンネルだった。
バブルが弾け、日本全体が急激に冷え込んでいた。昨日まで羽振りの良かった企業が次々と倒産し、求人票はゴミ同然になった。
僕の同級生の中には、大学を出たにもかかわらず、あえて高卒枠の正社員試験を受けた者もいた。大卒の求人がゼロでも、現場仕事ならわずかに空きがあったからだ。プライドを捨てて食い扶持を探す。それが当時の正解だった。
「正社員にさえなれば、あとは会社が守ってくれる。だから、どんな形でもいいから潜り込め」
それが親や教師たちの口癖だった。当時の日本社会には、まだ「一度雇用したら簡単にはクビにできない」という旧来の倫理観が残っていた。終身雇用は当たり前の権利で、転職してキャリアアップするなんて、一部の選ばれし者か、あるいはよっぽどの「はみ出し者」がやることだと思われていた。
僕は運良く、中堅の商社に滑り込むことができた。しかし、周囲を見渡せば、フリーターや派遣社員、契約社員という言葉が爆発的に増えていた時期だった。企業は「人件費削減」という大義名分の下、同世代の若者たちを使い捨てのパーツとして扱い始めた。
あの時、社会の歯車からこぼれ落ちた友人たちの顔を、今でも思い出す。
居酒屋で安い酒を飲みながら、「来月の契約更新があるか分からない」と震える声で笑っていた彼ら。その隣で、正社員という切符を手にした僕は、安堵と、言葉にできない罪悪感の狭間にいた。
三十代になり、世の中が少しずつ動き出しても、僕たちの世代には重い空気がこびり付いていた。
結婚、出産、マイホーム。
かつては「人生の標準装備」だと思われていたものが、僕たちの世代にとっては「高価な贅沢品」へと変わっていった。
僕自身、長く付き合っていた彼女がいた。
だが、結婚の話が出るたびに、僕の心には冷たい計算機が浮かんだ。
「今の給料で、子供を大学まで行かせられるか?」
「もし会社が潰れたら、家族をどう守る?」
「非正規の友人たちがまだ苦しんでいる中で、自分だけが浮かれていいのか?」
人間には本能がある。愛する人と共にいたい、自分の血を分けた子供が欲しいという切実な願い。だが、それ以上に僕たちの世代を支配していたのは、鋭利な「理性」だった。
不安定な雇用、上がらない賃金、将来への不安。それらが冷酷なフィルターとなり、本能を押し殺していった。
「子供は、もう少し余裕ができてからにしよう」
その「もう少し」を待っている間に、時間は残酷に過ぎ去った。
社会全体が作り出した「失敗してはいけない」「自己責任だ」という冷たい空気が、少子化という目に見える結果となって現れ始めたのは、必然だったと思う。
誰が悪いわけじゃない。僕たちみんなで、この息苦しい空気を作り上げてしまったのだ。
五十歳を超え、僕は会社でそれなりのポジションに就いた。
部下を指導し、プロジェクトを回す。だが、心の底ではいつも、自分の中に空いた空白を感じている。
二十代の頃、あんなに渇望した「安定」を手に入れたはずなのに、それが何を守ってくれたのかが分からない。
バブル世代のように、イケイケの時代を謳歌した記憶もない。
今のZ世代のように、軽やかにSNSを使いこなし、会社に縛られず自由に生きる器用さもない。
僕たちは、ただひたすらに、崩れゆく日本型システムの最後尾にしがみつき、必死に耐え忍んできただけの世代なのではないか。
昨日、久しぶりに大学時代の友人と飲んだ。
彼は結局、正社員の道を選ばず、ずっとフリーランスのカメラマンとして生きてきた男だ。白髪の混じった頭をかきながら、彼は言った。
「トオル、俺たちの世代ってさ、損な役回りだったよな。でもさ、最近思うんだ。社会の空気のせいにして、自分の人生を諦めるのはもう終わりにしないかって」
その言葉が、僕の胸を突いた。
そうだ。世代ごとに抱える問題は違う。それは事実だ。
戦争を経験した世代、高度経済成長を支えた世代、バブルを謳歌した世代。
そして、氷河期という荒野に放り出された僕たちの世代。
時代という濁流に流されるのは、もう十分だ。
デスクに戻り、僕はPCの画面を見つめる。
そこには、来期に向けた新規事業の企画書が並んでいる。
これまでの僕は、「いかに失敗しないか」「いかに現状を維持するか」ばかりを考えてきた。それが氷河期を生き抜くための生存戦略だったからだ。
だが、五十二歳の今、僕は思う。
会社が自分を守ってくれる時代は、とっくに終わっている。
そして、社会が作り出す空気に怯えて、自分の本心を殺して生きる時間は、もう残り少ないのだ。
僕たちは、考えなければならない。
このまま「失われた世代」として、静かにフェードアウトしていくのか。
それとも、このベテランという立場を利用して、新しい空気を作り出す側に回るのか。
少子化、経済の停滞、閉塞感。
僕たちがかつて理性に抑え込まれ、諦めたこと。
それを、次の世代には繰り返させないために、何ができるか。
そして、何より自分自身の人生を、誰かのせいや社会のせいにせず、自分の手で変えていくために、何ができるか。
僕はキーボードを叩き始めた。
企画書のタイトルを消し、全く新しい言葉を打ち込む。
それは、かつて二十歳の僕が、冷たい就職戦線の中で本当は叫びたかった、情熱的な言葉だ。
外の風は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から、鋭い陽光が差し込んでいる。
僕たちの世代は、まだ終わっていない。
氷河期を耐え抜いた強靭な精神は、これから始まる「自分の人生」を切り拓くための、最強の武器になるはずだ。
トオルは、深く息を吸い込んだ。
五十二歳の、新しい春が始まろうとしていた。




