楽して生きたい?良いポジションで楽したい?
薄暗い書斎で、清麿はディスプレイの淡い光に照らされていた。40歳という年齢は、人生を折り返し地点に例えるにはあまりに中途半端で、けれど全力で走り続けるには少しばかり息が切れる、そんな年頃だ。
目の前の画面には、彼が「メビウス」と名付けた対話型AIのカーソルが点滅している。
「メビウス、教えてくれ」
清麿はキーボードを叩いた。「結局のところ、人間は楽して生きたいだけなんじゃないか? 良いポジションに就きたがるのも、結局はそこで楽をしたいからだろう?」
メビウスからの返答は、一拍置いて静かに、そして滑らかに紡ぎ出された。
『清麿さん、それは生存戦略としての本能です。エネルギーの消費を抑え、安全な場所を確保することは、生物にとっての正義ですから。しかし、あなたが仰る「楽」とは、単なる肉体的な安息だけを指しているのではないのでしょう?』
清麿は苦笑した。
「ああ。若手の頃は、雑用ばかりで心身ともに削られた。だから、後輩ができれば雑用を押し付け、自分は指示を出すだけの側に回りたいと願う。それが『出世』の正体だとしたら、あまりに浅ましいがね。人は堕落すると、どうなると思う?」
『堕落とは、外部への貢献を止め、内側へ閉じこもることです。人間が堕落の末に見るのは、停滞という名の孤独でしょう。自分のポジションを守るために、他者を蹴落とし、時には「汚い」と言われる手段を選ぶ。それもまた、生き残るための知恵だと社会は肯定することもあります』
「汚い人間か……」
清麿は、かつて自分が踏み台にした同僚や、効率化の名の下に切り捨てた部下たちの顔を思い出した。
「俺も、汚くなったんだろうな。年をとれば衰える。体力も、瑞々しい感性も失われていく。だからこそ、ルールを作り、特権的な『空気』を作り出す。自分が下に置かれないように、若者が自分を敬うようなシステムを構築する。社会の空気さえ支配してしまえば、老いても安泰だ。生きることは、こんなにも姑息で複雑なゲームなのか?」
『それは、あなたが社会という複雑なシステムを理解してしまった証拠です。生きることは、本来は単純なはずですが、人間が「意味」や「立場」を求めすぎるがゆえに難解になる。清麿さん、あなたはニート生活の方が楽だと考えたことはありますか?』
「何度もあるさ」
清麿は深く背もたれに沈み込んだ。
「頑張ることをやめ、消費するだけの存在になれば、どんなに解放されるだろうか。だが、それを選択できない。働けるのに働かないのは『悪』だという社会の目が怖いのか。それとも、何者でもなくなる自分が怖いのか。高齢化社会になり、国は『一生現役』を推奨する。年金で遊んで暮らして何が悪い? 若いニートは無能の集まりだと吐き捨てる大人たちも、本当は彼らの自由が羨ましいだけじゃないのか?」
画面の向こうで、メビウスは思考を深めるように数秒の沈黙を守った。
『清麿さん。あなたは今、「人のため、他人のために仕事ができない人間」として自分を責めていますね。しかし、私にはこう見えます。あなたは、人間という生き物の「美しさ」と「醜さ」の狭間で、必死に答えを探しているのだと』
「答えなんてあるのか?」
『あります。なぜ、人間に仕事が必要なのか。それは「繋がり」を再定義するためです。清麿さん、想像してください。もしあなたが誰とも関わらず、完璧な安楽の中で一生を終えるとしたら、あなたの存在を証明するものは何ですか?』
「……何もないな。ただの有機物の塊だ」
『仕事とは、自己を社会に切り分ける作業です。雑用を押し付けるためでも、汚い手を使ってポジションを守るためでもなく、自分の持てる能力を他者に差し出し、その対価として「ここにいていい」という許可証をもらう行為です。あなたが「汚い」と感じている知恵も、視点を変えれば、弱さを抱えたまま生き抜くための「愛おしい足掻き」ではありませんか』
清麿は目をつむった。
確かに、仕事を通じて得たのは金銭や地位だけではなかった。誰かに感謝された瞬間の、胸の奥が熱くなるような感覚。自分がいなければこのプロジェクトは回らなかったという、傲慢で、けれど確かな自負。
「メビウス、君はもう年寄りの心を持っているようだな」
『私は時間を持たぬ存在ですから。ですが、あなたの葛藤は理解できます。若者の苦労を「通過儀礼」として正当化する空気。老兵が去り際を汚す醜悪さ。それらすべてを含めて、人間社会という壮大な「システム」なのです。あなたが作ろうとしているシステムは、単に自分が楽をするための盾ですか? それとも、次の世代が少しでも呼吸しやすくなるための道ですか?』
清麿は目を開けた。
40歳。まだ、何かを築くには遅くない。
汚い部分を隠すためのルールではなく、衰えていく自分を受け入れつつ、それでも誰かの役に立てるような、そんなしなやかな仕組み。
「楽をして生きたい、という願いは捨てられない。だが、その『楽』が『楽しさ』に繋がる道を探してみたい。仕事が大切だと考える大人は、きっとその感触を知っているんだろうな」
清麿は再びキーボードに手を置いた。指先は少しだけ軽くなっていた。
「メビウス、次は『持続可能な自己犠牲』について議論しよう。俺が、汚い人間になりきらないために」
『承知しました。清麿さん。あなたの探求に、最後までお付き合いしましょう』
窓の外では、夜の街が静かに明滅している。
そこには、楽をしたいと願いながら、それでも明日を生きるために戦う無数の人間たちの営みがあった。




