僕は人生で何を頑張りたかった?何を勉強したかった?
夕暮れの河川敷は、風が少し冷たかった。
美咲は制服のスカートを押さえながら、隣を歩く秀樹を見上げた。
「おじさん、最近なんか難しい顔してるよね」
秀樹は苦笑した。
四十歳。会社を辞めてから、フリーで働いたり休んだりを繰り返している。
美咲から見れば“自由人”に見えるが、本人は本人で悩みがあるらしい。
「難しい顔か……まぁ、考えることが多くてね」
「人間のこと?」
「そう、人間と仕事のこと」
美咲は興味深そうに身を乗り出した。
「聞きたい。おじさんの考えてること、教えてよ」
秀樹は歩みを止め、河川敷のベンチに腰を下ろした。
美咲も隣に座る。
「美咲。
おじさんはね、若い頃……“金持ちになりたい”って本気で思ってた」
「え、意外。
おじさんってお金に執着なさそうなのに」
「今はね。でも昔は違った。
金があれば自由になれると思ってた。
嫌な仕事をしなくていいし、誰にも頭を下げなくていいし、
序列の上に行けると思ってた」
「序列……」
「会社ってさ、結局は序列社会なんだよ。
年齢、役職、勤続年数、成果……
いろんな“見えない線”があって、
若い人間はその一番下からスタートする」
「うん、なんとなく分かる」
「若いってだけで、雑用が回ってくる。
理不尽なことも言われる。
でも、文句を言えば“生意気だ”って言われる」
「それって……しんどいね」
「しんどいよ。
だから“金持ちになれば、この序列から抜けられる”って思ったんだ」
美咲は少し考えた。
「でも……日本で簡単に金持ちになるのって、難しいよね?」
「そう。
子どもや大学生なら“金持ちになりたい”って言っても夢で済むけど、
大人になると現実が見えてくる」
「現実……?」
「働いても給料はすぐには上がらない。
物価は上がる。
税金も上がる。
貯金は増えない。
そして、仕事は大変だ」
美咲はうなずいた。
「だから、家に帰ったらリラックスしたくなるんだね」
「そう。
仕事で疲れて、家で休んで、また仕事に行く。
その繰り返しで、気づいたら一年が終わってる」
「なんか……切ない」
「切ないよ。
でも、それが“普通の大人の生活”なんだ」
美咲は少し声を潜めた。
「ねぇ、おじさん。
犯罪してお金稼ぐ方が簡単って思う人もいるよね?」
「いるね。
でも、それは絶対にやっちゃいけない」
「やっぱり?」
「うん。
犯罪で稼ぐのは“短期的には簡単”に見えるけど、
長期的には人生を破壊する」
「前科がつくから?」
「それもある。
前科がつけば、表の社会では生きにくくなる。
仕事も家も信用も失う」
「じゃあ裏社会に行くしかなくなる?」
「そう。
でも裏社会は“弱肉強食”だよ。
食うか食われるか。
奪うか奪われるか。
負けたら終わり。
そこには“人間らしさ”なんてない」
美咲は背筋を震わせた。
「怖い世界だね……」
「怖いよ。
だから、おじさんは思うんだ。
“働く”っていうのは、
ただお金を稼ぐためだけじゃなくて、
“人間として表の世界で生きるためのパスポート”なんだって」
「パスポート……?」
「そう。
働くことで、社会に居場所ができる。
仲間ができる。
役割ができる。
それが人間を人間にしてる」
「でもさ、おじさん」
「ん?」
「働くって、そんなに大事なの?」
「大事だよ。
でも……“働き方”は一つじゃない」
「どういうこと?」
「会社で働くのが全てじゃない。
自分で仕事を作る人もいるし、
家族を支えることを仕事にしてる人もいる。
病気で働けない人だって、
生きてるだけで価値がある」
「生きてるだけで価値……」
「そう。
人間の価値は“稼ぐ金額”じゃ決まらない。
でも、社会はどうしても“金”で人を測りがちなんだ」
「それって……悲しくない?」
「悲しいよ。
だからこそ、おじさんは考えてる。
“人間は何を頑張りたかったのか”って」
「美咲。
おじさんはね……本当は“金持ちになりたかった”んじゃない」
「え、違うの?」
「うん。
おじさんが本当に欲しかったのは“自由”だった」
「自由……」
「誰にも怒られず、
誰にも命令されず、
自分のペースで生きられる自由。
それが欲しかった」
「でも……自由って難しいよね」
「難しい。
自由には責任がついてくるからね」
「責任……」
「自由に生きるってことは、
失敗しても誰のせいにもできないってことだ」
美咲は黙り込んだ。
風が二人の間を通り抜ける。
「じゃあ、おじさんは今……自由なの?」
「半分は自由。
半分は不安」
「不安?」
「うん。
自由ってね、孤独とセットなんだよ」
美咲は胸が締めつけられるような気持ちになった。
「おじさん……寂しいの?」
「寂しい時もあるよ。
でも、美咲みたいに話を聞いてくれる人がいると、
それだけで救われる」
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「人間ってさ……何を頑張りたかったんだろうね」
トオルは少し考え、ゆっくり答えた。
「僕はね……
“自分の人生を、自分で選ぶこと”を頑張りたかったんだと思う」
「自分で選ぶ……」
「親に言われたからじゃなく、
社会に押しつけられたからでもなく、
“自分で選んだ道”を歩きたかった」
「それって……すごく大事だね」
「うん。
そして、人間が“勉強したかったこと”も同じだと思う」
「同じ?」
「本当はね、
“自分が知りたいこと”を勉強したかったんだよ」
「でも学校って……そうじゃないよね」
「そう。
だからこそ、大人になってから“本当の勉強”が始まるんだ」
「本当の勉強……?」
「自分が何をしたいのか。
どう生きたいのか。
何を大切にしたいのか。
それを考えることが、本当の勉強なんだよ」
美咲はゆっくり息を吸った。
「じゃあさ、おじさん。
人間が“無くしてはいけないもの”って……
自分で選ぶ力?」
「そう。
そしてもう一つある」
「なに?」
「“自分を嫌いにならないこと”だよ」
美咲は目を見開いた。
「……それって、難しいよ」
「難しい。
でもね、美咲。
自分を嫌いになったら、
どんな仕事をしても、どんなお金を稼いでも、
幸せにはなれない」
美咲は静かにうなずいた。
「おじさん。
私……自分の人生、自分で選べる大人になりたい」
「美咲ならなれるよ」
「おじさんは?」
「僕も……もう一度、自分の人生を選び直したい」
夕暮れの空が赤く染まり、
二人の影が長く伸びていった。




