簡単に一線を越える馬鹿がいる。
「一線を越える」ということの本当の恐怖を知っているのは、その境界線の上でダンスを踊り続けてきた人間だけだ。
サカグチ・カオルは、今日もタワーマンションの28階、遮光カーテンを閉め切った部屋で、マルチモニタの淡い光に照らされていた。28歳。若い時、会社をわずか2年で心身を壊してドロップアウトした。あの時の彼は、ルールという名の「搾取」にただ押し潰されるだけの無力な駒だった。
しかし、死に体でベッドに横たわりながら覚えた株取引が、彼の運命を変えた。手元の100万円は、数年で彼が生涯遊んで暮らせるだけのお金を手に入れた。
カオルはキーボードを叩く。彼が今書いているのは、日記ではない。彼が構想する『人材再生学校』の設立趣意書だ。
「……世の中には、不可視の境界線がある」
カオルは独り言をこぼしながら、思考をテキストに落とし込んでいく。
「法をなめ、国家をなめ、ルールを軽視する者が、最も早く地獄へ落ちる。だが、真の地獄は、ルールを守っている者が、無知ゆえにルールを知り尽くした悪意に食い物にされることだ」
カオルの脳裏には、かつての自分や、今もSNSのタイムラインに流れてくる「一線を軽々と越えていく馬鹿たち」の姿が浮かんでいた。
数日前、カオルは古い友人から連絡を受けた。かつて同じ会社で働いていた男だ。
「カオル、いい儲け話があるんだ。アプリのバグを利用して、ポイントを無限に現金化できる。お前、頭いいだろ? やり方教えてやるよ」
カオルはその誘いを一蹴した。友人は「警察なんて来やしないよ」と笑っていたが、カオルには見えていた。その友人が、国家という巨大なシステムが引いた「レッドライン」を、泥靴で踏みにじっている姿が。
「警察を恐れないのは、勇気があるからじゃない。単に、国家という暴力装置の底力を知らないだけだ」
カオルはモニターに向き直る。
彼が作りたい学校は、単なるスキルの再教育の場ではない。この社会で「死なないための知恵」を授ける場所だ。
カオルは画面に一つの図を書き込んだ。
ピラミッドの頂点には、ルールを作る者。中層には、ルールを理解し活用する者。そして底辺には、ルールに縛られる者と、ルールを無視して自滅する者がいる。
「ルールがなければ、世界は無法地帯になる。それは自由ではなく、暴力が全てを支配する地獄だ。警察が機能し、治安が保たれているからこそ、僕らのような持たざる者が、数字という武器だけで戦える場所が残されている」
カオルは、自分が手にした大金を、私欲のために使うことに飽きていた。高級車も美食も、心の空白を埋めはしない。彼が今、切実に求めているのは「国の再建」に近い何かだった。
今の日本には、教育が足りない。計算や漢字の読み書きではない。「人間関係の構築術」と「トラブルの回避術」、そして「負けた時の立ち上がり方」だ。
「失敗しないように知恵をつける。それが大人の条件だ。だが、今の社会は失敗した人間を二度と表舞台に戻さない。だから、絶望した奴らが『一線』を越えて、地獄へと突き進む」
カオルは、自分の資産を投じて、社会からドロップアウトした人間を「再生」させるためのシステムを構築しようとしていた。それは、かつて自分が救われたように、知恵という盾を彼らに与えることだ。
夜が更け、窓の外には街の灯りが広がっている。あの光の一つ一つの下に、ルールを守って必死に生きる人々がいる。
「僕が持っているこの金は、社会から預かっているチップのようなものだ」
カオルは、特定の政治団体や既存のNPOには頼らないつもりだった。それらもまた、特有の「一線」の中で利権を貪る組織に成り下がっていることがあるからだ。
「僕が作るのは、徹底的に実利に基づいた学校だ。法律を学び、契約の恐ろしさを知り、警察という存在の重みを知る。そして、他人を『利用する』のではなく、他人のリソースと自分のリソースを『交換する』術を教える」
彼が目指すのは、聖人君子の育成ではない。「賢い生存者」の育成だ。
搾取されない知恵。そして、自分が加害者にならないための自制心。それが備わって初めて、人間は対等な関係を築けるのだとカオルは確信していた。
突然、スマートフォンの通知が鳴った。
例の友人からだった。短いメッセージ。
『カオル、助けてくれ。家に来た。本当に来た』
カオルは溜息をつき、返信せずに画面を伏せた。
一線を越えた者に、外側から差し伸べられる手はない。一度境界を越えて地獄に足を踏み入れれば、そこからは法の裁きという儀式を経て、浄化されるのを待つしかないのだ。
「知恵がないと、いいように利用され、潰される。彼はそのアプリを作った誰かの身代わりにされたんだろう」
カオルは再びキーボードを叩き始めた。
学校のカリキュラムに一項目追加する。
『:甘い言葉の裏にある、法的責任の所在について』
カオルが構想する『人材再生学校』。その第一号店は、かつて自分が壊れた土地の近くに建てようと決めている。
「国に今必要なのは、配り物の金じゃない。一線を越えずに、かつ一線のギリギリまで攻めて、自分の人生を勝ち取るための『武器としての知恵』だ」
28歳のニート。社会的にはまだ何も成し遂げていない男。
しかし、彼のPCの中には、一部崩壊しつつある日本のルールと教育を、裏側から支えるための緻密な設計図が出来上がりつつあった。
カオルは、最後の行を打ち込んだ。
『地獄へ行くのは、馬鹿の特権だ。僕は、賢者が笑って暮らせる地上を作りたい。』
カーテンの隙間から、朝日が差し込んできた。
サカグチ・カオルは、一度も眠ることなく、新しい世界のルールを書き換え続けていた。彼が手にした大金は、今、明確な意志を持って社会へと還流する準備を整えた。
「さて……まずは、このプランを形にするための、信頼できる『ルールを知り尽くした弁護士』を仲間にするところから始めようか」
彼は不敵な笑みを浮かべ、ブラウザを閉じた。
一線を越えるのではなく、一線そのものを引き直す戦いが、ここから始まる。




