苦しんでいる者を馬鹿にするやつ、許せるか?
深夜二時。都心の高層マンションの一室は、空気清浄機の微かな駆動音と、規則正しいキーボードの打鍵音だけが支配していた。
サカグチ・カオル(二十八歳)は、暗闇の中で青白く光る三枚のモニターを凝視している。画面には複雑なチャートと、彼が独自に構築した「人材再生プログラム」の草案が並んでいた。
彼は世間から見れば『ニート』というラベルを貼られる存在だ。しかし、その銀行口座には、かつて死に物狂いで働いて壊した体と引き換えに得た、わずか百万円の貯金を元手に、株取引で膨れ上がらせた数億円の資産が眠っている。
カオルはふと指を止め、SNSのタイムラインを眺めた。そこには、挫折した者、病んだ者、そして「レール」から外れた者を嘲笑う言葉が溢れている。
「……許せるわけがないだろう」
カオルの唇から、乾いた声が漏れた。
彼は知っている。十八歳の時、希望に満ちて入社した会社で待っていたのは、人格を否定し、肉体の限界を超えてもなお鞭打つ「空気」だった。倒れた彼に投げかけられたのは、心配の声ではなく「根性なし」という罵倒。そして一度ドロップアウトすれば、社会は二度と彼を「人間」として扱おうとはしなかった。
カオルは再び、猛然とタイピングを始めた。彼が今書いているのは、日記ではない。この国の歪んだ「教育」と「人間関係」を根本から作り替えるための、再生学校の設計図だ。
カオルはモニターに文字を刻みつける。
『世の中には、苦しんで仕方なく無職になった者、ニートになった者が大勢いる。彼らは、楽をしたくてその場所を選んだのではない。戦って、傷ついて、後退せざるを得なかった敗残兵なのだ。それを、ただ「レールの上」を歩けているだけの人間が、高い場所から石を投げるように馬鹿にする。この光景こそが、この国の精神的な貧しさを象徴している。』
(「実際は相手にしない」だろう。 なら誰が救いの手を出すのか?普通は家族。友人も心配するかもしれない。宗教が救う場合もある。医療関係者の場合もある。 )
カオルは思う。二十歳になれば大学に行き、就職する。それが「普通」という空気だ。不良であっても、裏社会の厳しさに直面して手を引く。だが、一度ついた「前科」や「空白期間」という傷跡は、表社会での生存を著しく困難にする。
女性が生活のために夜の街に立ち、やがて心身を削りながら極限の仕事まで追い詰められる。薬物で脳を壊し、かつての輝きを失い、知的障害を抱えたような状態で呻吟する。
(馬鹿にならないと辛いことがある。しかし逆に、記憶力の低下などは辛い。老化にも似ている。勉強が苦手になる。知的障害を持つモノが働く現場を見たことがある。自閉症や話すことが困難なモノ、挨拶もできないモノ。そこまでの障害はないのだろうか?)
「彼らは『馬鹿』かもしれない。だが、その苦しみから抜け出したいと願う心まで、誰が否定できるというんだ」
カオルはキーボードを叩く力を強めた。
失敗を繰り返し、いつも苦しむのは確かに効率の悪い「馬鹿」な振る舞いかもしれない。しかし、人間である以上、そこから這い上がりたいと願うのは本能だ。なら、必要なのは嘲笑ではなく、「対策」を練るための知恵と場所ではないのか。
カオルの構想する学校は、既存の職業訓練校とは一線を画す。
『必要なのは、スキルの詰め込みではない。壊れた自尊心の修復と、歪んだ人間関係の再構築術だ。』
カオルはモニターに、具体的なカリキュラムを書き込んでいく。
「空気」に殺されないための論理的思考術
搾取されないための法律と経済の武器化
失敗を「データ」として蓄積するマインドセット
彼は自分が株取引で成功した理由を分析していた。それは、感情を排し、市場という「残酷な現実」を冷静に観察し、対策を練り続けたからだ。
「金はある。次は、この金をどう社会に還元するかだ」
カオルは独り言をいう。彼が手に入れた富は、贅沢のためではない。それは、自分と同じように一度壊れた人間たちが、牙を研ぎ、再び社会に切り込むための「軍資金」にするつもりだった。
この国に必要なのは、一度の失敗で全てを失わせる硬直した教育ではない。何度でも「利口」にアップデートできる仕組みなのだ。
『なぜ人は他人を馬鹿にするのか。それは、自分もまた「普通」という檻の中に閉じ込められ、怯えているからだ。自分より下を見つけることでしか、自分の立ち位置を肯定できない脆弱な精神構造。』
カオルは入力を続ける。
彼が作る学校では、上下関係ではなく「互助的な利害関係」の作り方を教えるつもりだ。感情的な「絆」という曖昧な言葉で縛り合うのではなく、お互いの欠点を補い、強みを活かし合うプロフェッショナルな繋がり。
水商売で擦り切れた女性も、裏社会で居場所を失った男も、薬物で思考を鈍らせた者も。彼らが「馬鹿な過去」を対策し、二度と同じ轍を踏まないための知恵を共有する場。
「家族に迷惑をかけることを恐れ、孤独に死ぬ必要はない。社会という大きな家族が機能していないなら、別の共同体を作ればいい」
外が白み始めていた。モニターの青白い光が、カオルの決意に満ちた表情を照らしている。
彼は最後に、こう記した。
『私は、勝ち組のニートとして生き残った。だが、私一人が勝っても意味はない。馬鹿にされ、石を投げられ、泥水をすすってきた者たちが、胸を張って「次はこう対策する」と言える世の中を作る。それが、私がこの社会に仕掛ける最大の復讐であり、貢献だ。』
カオルは「保存」キーを押し、深く背もたれに体を預けた。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、かつて彼を絶望させた光とは違っていた。
サカグチ・カオル。二十八歳。
彼がその莫大な資産と、練り上げた知略を投じて動き出す時、この国の「空気」は確実に変わり始める。
苦しむ者を馬鹿にする奴らに、彼は言葉で反論しない。
ただ、彼らが馬鹿にしていた者たちを、誰もが無視できない「賢者」へと変えることで、その鼻柱をへし折るつもりだった。
カオルは静かに目を閉じ、次の「対策」を練り始めた。




