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『月の迷宮』  (第1巻) 「禁断の塔の戦いへの叙事詩より」  作者: nico


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21 第五章 『リデンの森』 その1



 ダシュンは、その河を取り囲む景色のあまりの美しさに息を呑んでいた。

 

 ミタンにも美しい渓谷は多いが、それでもこんなに素晴らしいところはないだろう。

 雄大にして繊細。七色の虹のような色とりどりの木々の葉のアーチが、まるで永遠に続くかと思われるように、どこまでも続いている・・。

 それをまた見事に引き立たせる、美しいエメラルド色の流れ。たゆとう小舟に身を任せているだけで、現の夢の中を行くようだ・・。


「そんなに素晴らしいのか・・」


 歓声を上げるダシュンに、カンが訊いた。

 ダシュンは、カンがその夢の情景を見ることが出来ないことさえ忘れていた。


「ああ・・だが、この風の匂い・・俺にも・・見えるような気がする・・」



「お~い!」


 午後の日差しが傾き始めた頃、片側の岩場から誰かの呼ぶ声がした。

 一人の若者が火を起こしてお茶を飲んでいる。

 舟を近づけると、鼻をくすぐるような焼き菓子の匂いが伝わって来た。


「お茶飲んでいかねえかァ・・」


 その誘いに大喜びで舟を降りた二人は、礼を言って座った。

 その人好きのする顔立ちの若者は、さっそくお茶を入れてくれた。

 菓子に練り込んだ木の実の美味しそうな匂いを嗅ぎながら・・一口飲んだところで、二人は急激な眠気に襲われ・・意識を失った・・。

 

 

 『精霊の森』の女王リデンは、山岳地帯の深い神聖な森をその居としている。

 森の精霊達が気に入った若い男と契り、生まれた子供を森の中で育てる。その中から、精霊としての一番の資質を認められた少女をリデンとして女王に据える。


 リデンはその深い森の生み出す清浄な空気と水に育まれ、通常の人間の何倍もの長い年月を生きる。

 その間、その若さと美しさは少しも変わることはない。が、人間達の前にその姿を現すことは稀だった。

 その広大な『精霊の森』の一角、女王の住まいである『リデンの森』は、普通の人々にとっては半分お伽の国のような存在だった。


 昔から、迷い込んだ者は二度と帰って来ることはない・・何故なら、彼らは皆、『リデンの森』の民として幸せに暮らしているからと謂われていた。

 そのため、行方知れずになった者や戦に出たまま戻らない兵達の家族は、悲しみを和らげるためにか・・しばしばそう云った伝説に思いを馳せ、その深い心の傷を癒していた・・。



「リデン様、連れて参りました」

 

 リデンの元に両手を括られた男が二人、連れて来られた。


「この二人が昨日、渓谷を密かに上っておりました者達です」


 リデンは静かに二人の男を見つめた。

 若い男の方は驚嘆の表情で、美しい精霊の女王を見ていた。


「・・どこから来たのです」

「シュメリアから・・いえ、元はミタンからだそうです」

 配下の者がそう答えると、リデンは二人の縄を解かせた。


「ミタンから・・?何ゆえ、この渓谷に・・」

「シュメリアのシャラとか云う者の行方を追っているうちに、この渓谷に足を踏み入れたそうです」

「シュメリア・・」

 リデンは座ると二人にも椅子を勧め、名前を尋ねた。


「カン・・?・・『レ二の谷』のカン、ですか」


 伝説の『森の精霊』の問いに、カンは吃驚した。

 レ二の名はミタンでは誰一人として知らない者はないが・・まさか精霊の森の女王にまでその名が届いているとは、思ってもみなかった。

 そんな女王の問いに応えて、カンはこれまでの経緯を語った。


「・・そのシャラとやらも昨日、この渓谷を渡ったのですか」

「いえ、多分それより前だと思います。もし舟でここを通ったとすれば・・」

「では数日前に、渓谷を密かに渡ったのは、そのシャラなのですね・・」

 

 その時、川の監視に当たっていた男がやって来て言った。

「リデン様、舟が見当たりません・・」

 渓谷の岩場に、頑丈な鎖でしっかりと止めておいたはずの二人が乗って来た舟が、いつの間にか消えてしまったと言う。


 その不思議な舟について説明する二人の前に、昨日、味わい損ねた美味しいお茶と焼き菓子が運ばれて来た。早速手を伸ばそうとしたダシュンだったが、その前に運んで来た給仕を振り返って見た。


「安心して召し上がれ。パリ、何かひどい仕打ちでもしたの・・」

 給仕をしていた昨日の若者は、ちょっと悪戯を咎められた子供のような表情を見せた。


 それからリデンは、小さな王女の救出のためここまでやって来た二人に気づかいの言葉を掛けると、拘束したわけを話し出した・・。



 数日前の昼過ぎの頃からだった・・美しい『リデンの峡谷』に、不吉な予兆が渦巻いていた。

 徐々に上空が暗雲に覆われ、森の木々からは鳥の群れが一斉に羽音をバタバタとさせて、逃げるように姿を消した。代わりに鴉の大群が何処からともなく飛来し、上空を覆っては不吉な声で鳴き叫んだ。


 どうしたことかと不安に駆られた男達は森で警戒に当たり、女達は子供や老人を守って家にひっそりと身を潜めた。


 リデンはその数日の間、森の『精霊の拝殿』に籠り、不吉なものの侵入から森を守るために、結界のバリアを張って祈った。

 ・・そして鴉の鳴き声さえも止んだ真夜中に、何かが粛々と通過して行った。闇そのもののような闇が・・。しかしリデンには、その中に微かに光のようなものが見えた。


 やがて、夜明けを迎えた頃には・・上空を覆っていた暗雲はいつの間にか消え去り、鴉の大群もどこかに姿を消して、森のそこここで、いつの間に戻ったのか、何事もなかったかのように小鳥達の朝の囀りが聞こえて来た・・。


 しかし、その日以来、万が一を警戒して、森の要所要所に見張りを置くようになった。その見張りから、見たことのない舟が一漕川を上って来ると云う報告が入ったのが、昨日の午後のことだった。


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