第7話「ヴェルナの決意」
前回のあらすじ
東の森林地帯から帰還したリントとヴェルナは、ローズベルグ邸でギルド長ホルトを交え、調査の正式な報告を行った。
二人が目撃した異形は、縫い合わせたような身体を持ち、手足には切れた鎖のついた枷が残されていた。さらに、その枷には何らかの印が刻まれていたという。
報告を受けたエドワードは、ギルドによる情報収集を優先し、自らもグランツハイム伯爵へ報告することを決める。そしてヴェルナには、これ以上この件を追わないよう告げた。
ヴェルナもそれを受け入れるが、父がわざわざ確認した枷の印だけが、なぜか心に引っかかっていた。
――どこかで見たことがあるような気がする。
けれど、それがどこだったのかまでは思い出せなかった。
異形についての報告は、そこで一区切りとなった。
だが、エドワードは席を立とうとはしなかった。
「……ヴェルナ」
「はい、お父様」
「今回の件とは別に、お前には話しておきたいことがある」
「私に、ですか?」
「ああ」
エドワードの表情から、先ほどまでとは違う硬さが滲んだ。
「今後お前が自ら危険のある場所へ赴くことを、私は認めるつもりはない」
ヴェルナはすぐには言葉を返せなかった。
異形について、これ以上追わないようにと言われたことには納得している。だが今の言葉は、それとは違う。今回の調査だけではなく、この先も同じような場所へ出ることそのものを父は認めないと言っている。
「今回、お前が森へ行くことを認めたのは私だ。リント君が同行するとはいえ、危険がないなどとは思っていなかった。それでも、お前が自分で決めたことならと送り出した」
「だが実際に、お前は予定を過ぎても戻らなかった。夜になっても帰らず、捜索隊まで出ることになった」
責めるような口調ではなかった。
「そして戻ってきたお前は、傷を負っていた。一歩間違えば、それだけでは済まなかったことも、今の報告を聞けば分かる」
「……はい」
そこを否定するつもりはなかった。
怖くなかったわけではない。自分一人ではどうにもならず、リントがいなければ帰ってこられなかった。
「心配してくださっていることも、分かっています」
だからこそ、父の言葉を退けるような返し方はしたくなかった。
「ですが、お父様。私は今回、外へ出たことそのものが間違いだったとは思っていません」
父の反応をうかがうのではなく、ヴェルナは自分が森で得たものを確かめるように続ける。
「知っていることと、実際に自分の目で見て、その場で判断することは同じではありませんでした。自分に足りないものも、今回初めて分かったこともあります」
「それは、命を危険に晒してまで知る必要のあることなのか?」
父の言うことにも、否定できないものがある。経験を得られたというだけで、今回の危険まで正しかったことにするつもりはない。
「……今回の危険まで、必要だったと言うつもりはありません」
「では、なんだ」
ヴェルナは膝の上で重ねていた手に力を込めた。
「ローズベルグ家には、まだ研究があります。お父様が守ってくださったものも、残っています」
エドワードの表情が変わる。
「それを、ただ残していくだけにはしたくないんです。私にできることがあるのなら、きちんと成果へ繋げたい。この家の力にできるものを、私も残したいんです」
「ヴェルナ。私は、お前にそんなことを求めてはいない」
「分かっています」
今度は、迷わず答えられた。
「お父様が私に何かを背負わせようとしていないことも、ずっと分かっています」
研究に夢中になれば、父は時間を忘れて付き合ってくれた。母はそんな二人を呆れながらも見守り、兄は難しい話になると分からないと言いながら、それでも最後まで聞いてくれた。
求められたから、研究を続けてきたわけではない。
「私はずっと、好きなことをさせてもらいました。研究だってそうです。お父様にも……家族にも、たくさんのものをもらってきました」
亡くした二人を口にしたことで、胸の奥がわずかに詰まる。それでも、ヴェルナは言葉を止めなかった。
「だから、今度は私にもできることをしたいんです。何かを返せるのなら、返したい。少しでも、この家の力になりたいんです」
やがて、その口から落ちたのは、娘の決意を喜ぶ言葉ではなかった。
「……誰が、お前にそこまで背負えと言った?」
ヴェルナの唇が止まった。
「……誰にも、言われていません。でも、だからこそ……私ができることくらいは、させてほしいんです」
エドワードはしばらく何も言わなかった。
「……お前の気持ちは分かった。この家のために何かしたいと思ってくれることも、父親として嬉しく思う。研究を続けるなと言うつもりもない。お前にその才があることは、私もよく知っている」
そこまでは、父として偽りのない言葉だった。
「だが、それと危険な場所へ出ることは別の話だ」
穏やかだった声に、譲るつもりのない強さが滲む。
「研究を成果にしたい。この家の力になりたい。そのためにお前が命を懸けるというのなら、私は認められない」
「……お父様」
「ヴェルナ。お前がこの家を大切に思ってくれているように、私にも大切なものがある。この家がこの先どうなろうと、お前の命と引き換えにしてまで守りたいものなど、私にはない」
エドワードの声は荒れていなかった。
だからこそ、その言葉がヴェルナの胸に重く残った。
「……お前まで失いたくないんだ」
少し離れたところに控えていたアルフレッドが、目を閉じた。
ヴェルナにも、その言葉が誰を失った記憶から出てきたものなのかは分かっている。
簡単に「それでも」と返すことはできなかった。
沈黙のあと、ヴェルナはようやく口を開いた。
「……私も、自分の命を粗末にするつもりはありません。今回のことで、自分にできないことがあるのも分かりました。知識があっても、魔法が使えても、それだけではどうにもならないことがあることも」
リントがいなければ、今こうして父の前に座ってはいない。その事実を無視して、自分の考えだけを押し通すつもりもなかった。
「ですから、同じことを繰り返すつもりはありません。研究のためなら、どんな危険でも冒すということでもありません」
「……なら、それでいい」
張りつめていたエドワードの声が、そこでようやく和らいだ。
「ですが、お父様」
抜けかけていた緊張が、再びエドワードの顔に戻る。
「今回、実際に外へ出たからこそ分かったこともあります。研究を続けていくためにも、私はもっと経験を積む必要があると思っています」
「……何が言いたい?」
ヴェルナは父から目を逸らさなかった。
「冒険者として、活動を続けたいと思っています」
エドワードの手が肘掛けを掴み、指先に力がこもっていく。
「…………冒険者?」
「はい」
「お前は今、自分が何を言っているのか分かっているのか!」
抑えられていた声が、初めて部屋に響いた。
「傷を負って帰ってきたばかりだろう。今、自分一人ではどうにもならなかったことも分かったと言った。そのうえで、まだ危険の中へ戻ろうというのか!」
「それでも、何も学ばずに戻るつもりはありません」
「学べば危険がなくなるのか!」
ヴェルナの言葉が止まった。
「経験を積めば、二度と傷を負わないと言えるのか。今度は必ず帰ってこられると、お前は私にそう言えるのか!」
「……それは」
「言えないだろう!」
「旦那様」
アルフレッドの静かな声が、二人の間に入った。
エドワードは続けかけた言葉を呑み込み、肘掛けを掴んでいた手をほどく。そのまま背もたれへ身体を預けると、アルフレッドもそれ以上は何も言わなかった。
張りつめた空気が残る中、それまで口を挟まなかったホルトがヴェルナへ声をかけた。
「ヴェルナ様。少しよろしいですか」
「……はい」
「私は、伯爵のおっしゃっていることはもっともだと思います」
思いがけない言葉だったのか、ヴェルナは黙ってホルトの続きを待った。
「冒険者は依頼を選べます。経験を積めば、危険を避けるための判断も身につくでしょう。ですが、それで無事に帰れると約束できる仕事ではありません」
ホルトの声は穏やかなままだった。
「私も昔は、依頼を受けて外へ出る側でした。あの頃は、自分で選んだ危険なら自分で背負えばいいと、そう思っていたこともあります」
ホルトの目が、一度だけエドワードへ向いた。
「ですが今は、送り出す側にいる。今回のようなことが、二度と起きないとは誰にも言えません。それでも続けるというのなら――伯爵は、そのたびにあなたを送り出さなければならない」
先ほどまで声を荒らげていたエドワードは、もう何も言わない。
「あなたが危険を覚悟することと、あなたを大切に思う人がその危険を受け入れることは、同じではありません」
ヴェルナは父を見た。
「……はい」
返事を聞いたホルトは、それ以上ヴェルナへ言葉を重ねなかった。
「リント。君はどう思う?」
まさか自分に話が回ってくるとは思っていなかった。
父と娘の間にあるものは、森で魔物を相手にするより、よほど迂闊に踏み込めないように思える。
「……ヴェルナ様が冒険者になるかどうかは、俺が口を挟むことじゃないと思います。伯爵が心配するのも当然ですし、俺も、今回みたいなことがもう起きないなんて言えません」
そこまで言ってから、リントはヴェルナへ目を移した。
「ただ――森で一緒にいたヴェルナ様のことなら、俺にも言えることがあります」
ヴェルナがわずかに目を見開く。
「最初は、正直ちょっと心配でした。実戦経験がほとんどないって聞いてましたし、森に入ってからも、慣れてないのは分かったので」
「……そうだったんですか?」
思わず漏れた声に、リントは困ったように口元を緩めた。
「まあ……少しだけ」
張りつめていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
だが、リントはすぐに続きを口にした。
「でも、俺が怪我をしたとき、ヴェルナ様は俺を置いていかなかった」
ヴェルナの表情から、先ほどの驚きが消える。
「自分だって危なかったのに、逃げようとはしなかった。俺がまともに動けなくなっても見捨てなかったし、自分だけ助かる方を選ぼうともしなかった」
リントはあの夜のことを思い出していた。
あのとき自分が動けなくなれば、ヴェルナまで危険に晒す。それが分かっていたからこそ、彼女だけでも逃がさなければならないと思った。
けれど、彼女は残った。
「だから、責任感の強い人なんだと思います。何かあったとき、自分ができることを最後までやろうとする」
そこで、リントは言い淀んだ。
「ただ……それが強すぎるところもあると思います」
「強すぎる……?」
ヴェルナが聞き返す。
「はい。何かうまくいかなかったとき、自分の判断が悪かったんじゃないかとか、自分にもっとできたんじゃないかとか……そういうふうに考えるところがあるので」
ヴェルナの指先が、ピクリと反応する。
「だからこそ、放っておいたら一人で何でも背負おうとするんじゃないかって」
否定しようと思えば、できたのかもしれない。
けれど先ほど父に、
――誰が、お前にそこまで背負えと言った?
そう問われたばかりだった。
リントはそんなやり取りを知ってか知らずか、少しだけ考えてから続けた。
「ただ……今日、伯爵と話して、少し分かった気もします」
「何がだ?」
「ヴェルナ様が、どうしてそういう人なのかです」
エドワードの眉が動いた。
「自分にできることを放っておけなくて、誰かを簡単に見捨てられない。森にいたときは、そういう人なんだと思ってました」
リントはそこでヴェルナへ目を向ける。
「たぶん、ここでずっとそういうものを見てきたんですね」
「……そういうもの?」
「誰かを大事にするっていうか……自分より先に、その人のことを考えるようなものです」
娘に何かを背負わせたつもりなどない。
それだけは、はっきりしている。
けれどリントの言葉を否定することもできなかった。
「……そうか」
エドワードは娘を見る。
先ほどまでなら、続く言葉は決まっていた。
危険な場所へ行く必要はない。研究ならここでも続けられる。冒険者になるなど認められない。
その考えが変わったわけではない。
「……ヴェルナ」
「はい」
けれど、その先が続かなかった。
ヴェルナも、父の沈黙に答えを求めようとはしない。
「……すぐに認めていただけるとは、思っていません」
「ただ、私がこう考えていることだけは、知っておいてほしかったんです」
「…………」
「お父様が、なぜ反対されるのかも……今は、分かっていますから」
その言葉に、エドワードは目を伏せた。
しばらくして、背もたれへ深く身体を預ける。
「……今日は、ここまでにしよう」
「では、我々もこれで失礼いたします」
ホルトの言葉を区切りに、長かった話し合いが終わる。
「リント君」
席を立ちかけたところで名を呼ばれ、リントはエドワードの次の言葉を待った。
「娘を助けてくれたこと、改めて礼を言う」
「……俺も助けてもらいましたから」
森では互いに何度も危険な場面があった。もしヴェルナがいなければ、自分がここへ戻れていたかも分からない。
「そうか」
それだけを返したエドワードの声には、先ほどまでとは違う静けさがあった。
やがてホルトとリントが応接室を出ると、ヴェルナも玄関まで見送りに出た。
「今日はありがとうございました。ホルトさん、リントさんも」
「私は仕事をしただけですよ」
「俺は……余計なことまで言った気がしますけど」
「そうですね」
「えっ」
途端に歯切れが悪くなったリントを前に、ヴェルナの張りつめていた気持ちがほどける。
「一つだけ聞いてもいいですか?」
「……なんでしょう」
「私が、何でも背負おうとしているように見えますか?」
返事が来ない。
先ほどまでなら、きっと迷わず答えただろう。けれど今は、リントの目が行き場を探すように泳いでいる。
「いや……その……」
「先ほどは、随分とはっきりおっしゃっていましたよね?」
少し先を歩くホルトは振り返りもしない。どうやら助け舟が出ることはなさそうだった。
「……見えるときは、あります」
「やっぱりそうなんですね」
「でも、悪い意味じゃないですよ。責任感が強いってことですし、俺も何度も助けてもらいましたから。ただ……もう少しくらい、自分のことも気にしていいんじゃないかって。それだけです」
父から言われたこととは違う。それでも、まったく別のことを言われているようにも思えない。
「……覚えておきます」
「それくらいでお願いします」
ようやく普段の調子を取り戻した声に、ヴェルナの口元にも自然と柔らかさが戻る。
そのまま門へ向かいかけたところで、リントがふと思い出したように口を開いた。
「それと……いい父親ですね、伯爵って」
「はい。私には、自慢の父です」
迷いのない返事だった。
「やっぱり」
「やっぱり、ですか?」
「森にいたときから、ヴェルナ様が家族を大事にしてるのは分かってましたから。今日、伯爵に会って……なんとなく納得しました」
ヴェルナの表情が、ほんのわずかに綻ぶ。
「そう言っていただけるのは、嬉しいです」
「では、また」
「はい。お気をつけて」
門を抜けていく二人を見送りながら、ヴェルナはしばらくその場に残っていた。
応接室で交わした言葉は、まだ胸の中にある。
けれど今は、それを無理に答えへ変えようとは思わなかった。
***
応接室には、エドワードとアルフレッドだけが残っていた。
客人たちを見送るためにヴェルナが出ていってからも、エドワードは席を立たずにいた。
「……アルフレッド、あの子は、昔からああだったか」
「どのような意味でございましょう」
エドワードは答えようとして、やめた。
自分でもうまく言葉にできなかった。
アルフレッドの表情は変わらない。
「さて。どうでございましたでしょうか」
「……とぼけるな」
エドワードは呆れたように息を吐く。
長く仕えている男だ。分かっていないはずがない。だからこそ、あえて答えるつもりもないのだろう。
「私は、あの子に何かを背負わせたかったわけではない」
「存じております」
「研究もそうだ。興味を持ったから教えた。あの子が知りたがるから、私も応えた。それだけだ」
幼い頃のヴェルナは、書棚から引き抜いた本を抱えて、よく研究室を訪ねてきた。
分からないところがあれば、そのままにはできない。ひとつ答えれば次の疑問を持ってくるものだから、気づけば夕食の時間を過ぎていたことも一度や二度ではない。
妻はそんな二人を見つけるたび、決まって呆れた顔をした。
息子まで加われば、研究室はもう仕事をする場所ではなくなった。
誰も、ヴェルナに何かを返してもらおうなどとは思っていなかった。好きなことを学び、笑っていてくれれば、それでよかった。
「……それなのにな」
アルフレッドは何も返さない。
ただ大切にしてきた娘は、いつの間にか、自分たちが守ってきたものまで大切にするようになっていた。
そのことに、今さら気づかされた。
しかも――今日初めて会った、あの若い冒険者に。
「……まったく」
苦々しく漏れた声とは裏腹に、怒りはもうなかった。
それでも隣から何の反応もないことが、かえって気に障る。
「……何だ」
「何も申し上げておりませんが」
「だから腹が立つんだ」
娘の気持ちが分かったからといって、冒険者として送り出せるわけではない。
再び家族を失うその恐怖は、理屈で消せるものではなかった。
けれど――もう一度、ただ「認めない」と言えば済む話でもなくなっていた。
「……アルフレッド」
「はい」
「冒険者である以上、危険を避け続けることはできない」
採取や護衛、調査。依頼の内容を選ぶことはできても、その先で何が起こるかまで選べるわけではない。今回の調査が、まさにそうだった。
「左様でございますね」
「ならば、何があればいい」
アルフレッドから、すぐに返事はなかった。
「一人で行かせないことは当然として、組む相手も選ばせる。受ける依頼にも制限が必要だ。それだけで足りるとは思えんが……」
そこまで口にしたところで、エドワードの言葉が途切れる。
「旦那様」
「なんだ」
「……いえ。ただ、先ほどとは随分お話が変わったものだと思いまして」
エドワードの眉間に皺が寄る。
「何が言いたい」
「先ほどまで旦那様がお考えになっていたのは、ヴェルナ様を冒険者にさせないことでございました」
そこでアルフレッドは口を閉ざした。
認めたわけではない。今でも、危険な場所へ娘を送り出したくなどなかった。
それなのに今、自分が考えていたのは――送り出すことになった、その先のことだった。
「……アルフレッド」
「はい」
「今の話は忘れろ」
「かしこまりました」
エドワードは肘掛けに手を添え、ゆっくりと腰を上げた。
そのまま窓辺まで歩き、外へ目を向ける。
ちょうど門の方から、ヴェルナが戻ってくるところだった。
リントたちを見送り終えたのだろう。まだこちらには気づかず、屋敷へ向かって歩いている。
エドワードは窓辺に立ったまま、その姿を追った。
やがてヴェルナが玄関の先へ消えても、しばらくそこを離れなかった。




