第6話「ローズベルグ家への報告」
前回のあらすじ
東の森林地帯で一夜を明かしたリントとヴェルナは、負傷のため調査を中止し、シルヴァハイムへの帰還を決める。
その途中、二人が目にしたのは、鎖を引きずる異形の魔物だった。昨夜二人を苦しめたウルフを一撃で殺し、動かなくなった後も拳を振り下ろす異様な姿。戦うべきではないと判断した二人は、慎重にその場を離れる。
無事に街へ戻ったリントは、ミレイユの治療を受ける中で思わず「ただいまです」と口にする。返ってきたのは、静かな「おかえり」の一言だった。
一方、ヴェルナは異形の存在をギルドへ伝えるものの、ギルド長ホルトは不在。正式な報告は、後日ローズベルグ邸で行われることとなった。
森林地帯から戻って、数日が経った。
馬車の揺れに合わせて、脇腹に残る痛みが時折顔を出す。治療を受けた直後に比べればずいぶん楽になったが、長く座っていると、まだ傷の存在を忘れることはできなかった。
やがて馬車の速度が落ち、窓の外を流れていた景色がゆっくりと止まる。
「着いたぞ」
向かいに座るホルトに言われ、リントは窓の外を覗いた。
そこにあったのは、想像していたものよりずっと小さな屋敷だった。伯爵家と聞いて、もっと大きな建物を思い浮かべていたが、目の前にある二階建ての屋敷には広大な庭もなく、敷地を囲う塀も必要以上に高くない。
それでも古びているわけではない。外壁や窓はきちんと手入れされ、玄関へ続く石畳にも荒れたところはなかった。
リントも馬車を降り、ホルトと並んで玄関へ向かった。
玄関まで来ると、こちらが扉を叩くより先に内側から開いた。姿を現した壮年の男はホルトを見ると、静かに一礼する。
「お待ちしておりました、ホルト様。旦那様もお嬢様も、すでにお待ちです」
男の目が、その隣に立つリントへ移った。
「そちらが、リント・グレイブ様でございますね」
「ああ。今回、ヴェルナと一緒に調査へ行ったリントだ」
ホルトに紹介され、リントも軽く頭を下げる。
「リント・グレイブです」
「ローズベルグ家に仕えております、アルフレッドと申します。どうぞ中へ」
必要な言葉だけを告げ、アルフレッドは二人を屋敷へ招き入れた。
ホルトに続いて玄関をくぐったところで、リントは歩みを緩める。
「……なんか、緊張してきました」
「今さらか?」
「貴族の屋敷なんて初めてなんですよ」
「なら、変なことをするな」
「それ言われると余計に緊張するんですけど」
ホルトは構わず先へ進み、リントもその後を追った。
屋敷の中も、外から受けた印象とよく似ていた。家具や調度品には品があり、長く使われているものも丁寧に手入れされている。ただ、廊下を飾るものは少なく、何人もの使用人が行き交うような様子もなかった。
やがてアルフレッドが一つの扉の前で足を止め、軽く叩く。
「旦那様。ホルト様とリント・グレイブ様がお見えになりました」
中から返事があり、扉が開かれた。
「リントさん」
ヴェルナが席を立つ。
森から戻ったあの日とは違い、身なりもすっかり整っていた。リントは数日ぶりに見る彼女の姿を確かめてから、肩の辺りへ目をやる。
「ヴェルナ様。肩、もう大丈夫なんですか?」
「はい。もう治りました。リントさんは?」
「俺はまだ少し痛みますけど、だいぶ良くなりました」
「そうですか。無理はなさらないでくださいね」
「気をつけます」
短く言葉を交わしている間に、ホルトはすでに部屋の中へ進んでいた。
「そのくらいにしておけ。報告を始めるぞ」
「あ、はい」
リントも後を追おうとして、部屋の奥に座る男と目が合った。
エドワード・ローズベルグ。
派手な衣服を身につけているわけでも、こちらを威圧するような態度を取っているわけでもない。それでも、その前までホルトと話していた調子のまま声を出すことはできなかった。
近くで見ると、頬は少し痩せ、顔色にもまだ血の気が薄い。背筋こそ真っ直ぐ伸びているものの、その身体には、まだ癒えきっていない疲れが残っているように見えた。
「君が、リント・グレイブか」
「はい。リント・グレイブです」
少し硬くなった声が、自分の耳にも届いた。
エドワードは椅子の肘掛けに手を添え、ゆっくりと立ち上がる。すぐそばにいたヴェルナの手がわずかに動いたが、支えを借りることなく姿勢を整えた。
それでも、向けられた眼差しに弱々しさはなかった。
「ヴェルナから話は聞いている。今回の調査では、娘が世話になったそうだな」
「いえ……俺の方も、ヴェルナ様には助けられました。彼女がいなかったら、帰ってこられなかったと思います」
森で何度も背中を預け、そのたびに助けられた。それでもヴェルナの父親を前にすると、もう一つだけ言っておかなければならないことが残っていた。
「それと……ヴェルナ様に怪我をさせてしまって、すみませんでした」
リントが頭を下げる。
「リントさん、それは――」
「ヴェルナ」
エドワードの声に、彼女の言葉が止まった。
「顔を上げてくれ。今回の調査は、ヴェルナ自身が望んだものだ。君一人が責任を負う必要はない」
リントが顔を上げる。
「互いに助け合って戻ってきたとも聞いている。二人とも無事に帰ってきてくれた。それで十分だ」
「……ありがとうございます」
先ほどより、声は出しやすかった。
「座りなさい。詳しい話を聞かせてほしい」
「はい」
ホルトの隣に腰を下ろす。向かいにはヴェルナ、その奥にはエドワード。アルフレッドは全員が席についたのを確かめると、扉のそばへ静かに控えた。
「二人が予定を過ぎても戻らず、捜索隊を出したこと。その後、負傷した状態で帰還したことまでは娘から聞いている」
「私も、森で何があったのか詳しく聞くのは今日が初めてです」
隣でホルトが答えると、エドワードは頷いた。
「そうか。では、二人が森で何を見たのか。順を追って聞かせてくれ」
ヴェルナとリントは一度だけ顔を見合わせる。
「分かりました。では、森へ入ったところからお話しします」
先に答えたのはヴェルナだった。
「リントさんがゴブリンと遭遇した場所から調査を始めました。現場にはまだ痕跡が残っていて、その先で見つかっていたウルフの死体と合わせて確認した結果、二体が争った可能性が高いと判断しました」
リントが最初に提出した報告書にも、手負いのゴブリンとウルフの死体については記されていた。今回の調査で、その二つが初めて一本に繋がったことになる。
その後に遭遇した二体のウルフから離れようとして追跡を受け、逃げる途中でリントが脇腹を負傷したこと。それでも二人でどうにか追撃を振り切ったことまで、順を追って伝えていく。
日も傾き始めていたため、それ以上の移動は危険だと判断し、二人はそのまま森で一夜を明かすことを選んだ。
「――ですが、その夜。同じウルフに襲われました」
負傷したリントがまともに動けない中、最初に迎え撃ったのはヴェルナだった。そこで肩を負傷し、最後は動けるところまで戻ったリントと二人でどうにか撃退したことまでを伝える。
「それで、お前も肩を?」
「はい。ですが、もう治っています」
「……そうか」
翌朝、目的だった痕跡の確認はすでに終えており、二人とも負傷している以上、これ以上森に残る理由はなかった。
問題は、その帰り道だった。
「帰還する途中で、昨夜のウルフともう一度遭遇しました」
今度はリントが話を引き取る。
「でも、様子がおかしかったんです。俺たちを見てはいたんですけど、襲ってこなかった」
「前の晩には、傷を負っても襲ってきた奴がか?」
ホルトの問いに、リントは頷く。
「はい。途中から俺たちじゃなくて、別の方角を気にしてました。それから……鎖みたいな音が聞こえたんです。金属を引きずってるような音でした」
ヴェルナが続ける。
「森の奥から現れたのは、私も見たことのない魔物でした。二メートルを優に超えるほどの巨体で、皮膚は緑色。一見するとゴブリンに似た特徴もありましたが……身体の造りが、明らかに違っていました」
言葉を探す間にも、あの姿は鮮明に浮かぶ。
「左右で形が揃っていませんでした。腕も、脚もです。それに身体の各所には、縫い合わせたような痕がありました」
誰も口を挟まない。
「手足には黒ずんだ金属の枷がついていて、そこから伸びた鎖を引きずっていました。ですが、何かに繋がれていたわけではありません。鎖は途中で切れていました」
「そいつを見て、ウルフが逃げたのか?」
「はい」
今度はリントが答える。
「俺たちには目もくれませんでした」
異形はすぐには追わなかった。逃げていくウルフを、しばらくその場から見ていた。
「でも、急に動いたんです。あの身体からは想像できないくらい速くて……すぐに追いつきました」
リントはそこで一度言葉を切る。
「一発でした。それでウルフは動かなくなったんですけど、あいつは少しして、もう一度殴りました」
ヴェルナはその後、自分たちが異形との戦闘を避けたこと、刺激しないよう警戒しながら距離を取り、十分に離れてから帰還したことまで話した。
そこでようやく、部屋に沈黙が落ちた。
ホルトが腕をほどき、背もたれへ身体を預ける。
「戦わなかったのは正解だな。正体も分からんうえに、そいつはお前たちを襲ったウルフを一撃で殺してる。二人とも怪我までしてたんだ。持ち帰れる情報だけ持って帰ればいい」
「はい」
ヴェルナが答え、その隣でリントも頷いた。
しばらく黙っていたエドワードが、そこで初めて異形について口を開く。
「先ほど話していた、その魔物の身体についてだ。縫い合わせたように見えたと言ったな」
「はい」
「もう少し詳しく聞かせてくれ」
ヴェルナは森で見た異形の姿を思い返す。距離を取っていたうえ、いつ襲ってくるかも分からない相手だった。細部まで観察する余裕などなかったが、それでも記憶に焼きついているものはある。
「確認できただけでも、一か所ではありませんでした。腕や脚、それに胴にも似たような痕がありました。左右で形も揃っていませんでしたし……一部には、毛のようなものも残っていました」
「毛?」
「はい。皮膚もすべて同じには見えませんでした」
エドワードから次の問いが来るまで、間があった。
「枷がついていたと言ったな。その周りはどうだった?」
「周り、ですか?」
「皮膚だ。擦れた痕や、食い込んだような痕はなかったか?」
問われて初めて、ヴェルナの意識が異形そのものではなく、その手足へ向いた。
「……ありました。少なくとも、つけられたばかりのものには見えなかったと思います」
あのときは、継ぎ接ぎのような身体も、引きずられていた鎖も、ただ異様な姿の一部として目に入っていただけだった。だが父に一つずつ尋ねられ、改めて拾い直してみれば、不揃いな身体にはいくつもの縫い痕があり、その手足には長くつけられていたような枷が残っている。
「お父様、あの魔物は――」
ヴェルナが問いかけると、それまで続いていたエドワードの質問が止まった。
わずかな沈黙のあと、返ってきたのは答えではなかった。
「……最後に一つだけいいか」
「はい」
「その枷に、何か刻まれていなかったか? 何か目印になるようなものだ」
そこまでは意識して見ていなかった。ヴェルナの記憶にあるのは、異形が動くたびに鎖が地面を擦る音と、その付け根にあった黒ずんだ金属。それでも、表面まで何もなかったかと問われれば――。
「……模様のようなものが、あったと思います。ただ、何が描かれていたのかまでは分かりません。近づいて確認したわけではありませんから」
「そうか」
森で見た異形の姿が、妙に頭に残った。あの枷を誰がつけ、なぜそこに印まで刻んだのか。あの場では持たなかった疑問が、今になって形を持ち始めている。
「……お父様。何か、心当たりがあるのですか?」
「……いや。心当たりというほどではない」
「でも、先ほどから――」
「昔、似たような魔物の話を聞いたことがあってな」
エドワードはそのまま続ける。
「身体の形が不揃いで、傷だらけの妙な魔物がいたとな。今の話を聞いて、それを思い出しただけだ」
「どこで聞いたのですか?」
「さて……そこまでは覚えていない。冒険者からだったかもしれんな。ホルト、そういう話は珍しくないだろう?」
話を振られたホルトは、考えてから口を開く。
「ええ。真偽の怪しい話であれば、珍しくありません。酒の席で聞いた話が人から人へ伝わるうちに、まるで別物になっていたということもあります」
「私が聞いたものも、その程度の話だったのかもしれん」
「……そうですか」
父の話を聞いても答えは出なかった。それでも、縫い合わされた身体も、黒ずんだ枷も、その表面にあったという印も、一度意識してしまえば、ただ異様な魔物を見たというだけでは済まなくなっていた。
「ホルト。あの魔物について、ギルドはどう動く?」
すぐに討伐隊を組むつもりはない、とホルトは答えた。
まずは東の森林地帯へ向かう冒険者に注意を促し、状況に応じて周辺で受けている依頼にも制限をかける。当面は戻ってきた冒険者から情報を集め、調査のために人を入れるかどうかは、その内容を見て改めて検討するという。
「できることなら、調査も避けてもらいたい」
エドワードの言葉に、ホルトが頷く。
「私も、今すぐ誰かを送り込むつもりはありません。まずは森林地帯での活動そのものに注意を促します」
「それがいい。それと、冒険者への伝え方には気をつけてくれ」
「と、言いますと?」
「あの魔物については、まだ何も分かっていない。姿や特徴まで不用意に広めれば、それだけで余計な憶測を呼ぶ」
縫い合わされたような身体に、手足の枷。そんな話だけが独り歩きすれば、実際に何が森にいるのか分からないまま噂だけが膨らんでいく。
「当面は東の森林地帯での活動に注意を促し、普段と違う様子があれば深入りせず引き返すよう伝える。それで十分だろう」
ホルトも少し考えたあと、異論は挟まなかった。
「分かりました。受付にもそのように周知しておきます」
異形が森林地帯の外へ出た形跡が見つかるなど、状況に変化があれば改めて対応を考える。当面の方針は、それでまとまった。
今回の調査は、もともとローズベルグ家だけで始めたものではない。
シルヴァハイムから北西に領地を持つグランツハイム伯爵家から、東の森林地帯で相次いでいる魔物の目撃について話が持ち込まれ、エドワードが調査を引き受けたのが始まりだった。
だが、そこで見つかったのは、増えている魔物の痕跡だけではない。
「グランツハイム伯爵には、私から報告する」
エドワードの言葉に、ヴェルナも異論はなかった。
「あの異形まで、最初から想定されていた話とは思えん。この先をどう扱うかは、向こうとも相談するつもりだ」
「分かりました」
「それと、ヴェルナ」
「はい」
「今回の件については、ここまでにしなさい」
ヴェルナは一瞬、父の言葉の意味を測りかねた。
「……異形について、これ以上調べるなということですか?」
「ああ。お前たちは十分に役目を果たした。森で起きている異変を確かめ、予定になかったものまで見つけて、こうして情報を持ち帰った。これ以上、お前が追う必要はない」
異形について確かめたいことは残っている。父との話で生まれた疑問も、何一つ解けてはいない。
それでも、だからもう一度森へ行くという考えにはならなかった。二人とも傷を負って帰ってきたばかりで、異形については能力どころか正体すら分からない。
そこまで自分の役目だと言い張るつもりは、ヴェルナにもなかった。
「……分かりました。この件については、ここまでにします」
「それでいい」
エドワードはそう言ったあと、少し間を置いた。
「しばらくは身体を休めなさい。傷が治ったとはいえ、森から戻ってまだ数日だ」
「はい。アルフレッドにも、同じことを言われています」
「なら、言うことを聞いてやってくれ。あいつも随分心配していたからな」
ヴェルナもそれには素直に頷いた。
自分ではもう問題ないと思っていても、負傷して帰ってきた姿を見た者まで同じように考えるとは限らない。これで今回の調査について、話すべきことはすべて話したはずだった。
それなのに、父に問われてから、枷に刻まれていたという印だけが妙に頭に残っている。森では気にも留めなかったはずのものなのに、なぜか、どこかで見たことがあるような気がしてならない。
ヴェルナは記憶を辿った。
けれど、それがどこだったのかまでは思い出せなかった。




