第5話「鎖を引きずる魔物」
前回のあらすじ
東の森林地帯での調査中に負傷し、森で一夜を過ごすことになったリントとヴェルナ。
焚き火を囲んで言葉を交わす中、リントは一人で行動する理由を語り、二人は互いのこれまで知らなかった一面に触れていく。
その夜、二人の前に現れたのは、昼間の戦闘で片目を失ったウルフだった。
ヴェルナは負傷したリントを守ろうと一人で立ち向かい、リントもまた彼女を守るため、重傷を押してウルフの注意を自分へ向ける。
互いに守り、守られながら、どうにかウルフを退けた二人。
戦いを終えても震えの止まらないヴェルナに、リントは静かに告げた。
「ヴェルナ様がいてくれて、よかったです」
朝の光が、木々の隙間から差し込んでいた。
目を開けたリントは、しばらくそのまま動かなかった。身体の節々が重く、左脇腹には昨夜より鈍くなった痛みが居座っている。
消えかけた焚き火の向こうでは、ヴェルナが荷物をまとめていた。銀髪には土や枯れ葉が残り、服もところどころ泥で汚れている。昨夜ウルフに裂かれた肩には応急処置の布が巻かれ、傍らに置かれたレイピアにも戦いの跡が残っていた。
「おはようございます、リントさん」
こちらに気づいたヴェルナが手を止める。
「……おはようございます」
地面に手をつき、身体を起こそうとする。脇腹に力が入った途端、鋭い痛みが走った。
「っ……」
ヴェルナの手を借りて立ち上がる。脇腹を庇いながら姿勢を整えると、ヴェルナも支えていた手を離した。
二人は荷物をまとめ、焚き火の跡を処理すると、来た道をシルヴァハイムへ向かって歩き始めた。
昨夜の騒ぎなど知らないように、森にはいつもの朝が戻っていた。
枝から落ちた朝露が葉を叩き、頭上では鳥の声が木々の間を渡っている。足場を確かめながら進んでいたリントだったが、何度目かに脇腹の痛みが強まり、歩調が落ちた。
「大丈夫ですか?」
先を歩いていたヴェルナが振り返っている。
「ええ。このくらいなら」
「……そうですか」
ヴェルナはそう答えたものの、再び歩き出した足取りは先ほどより遅い。
リントはその背中を見てから、何も言わず後を追った。
しばらく進んだところで、リントの足が止まる。
二、三歩先を歩いていたヴェルナも気づき、振り返った。
「リントさん?」
返事をせず、リントは周囲へ目を向けた。木々も茂みも、朝露に濡れた下草も、見たところ先ほどまでと変わらない。
それでも何かが違う。
ヴェルナも気づいたのか、続けようとした言葉を止めた。頭上を行き交っていた鳥の声が消え、風に擦れる葉音ばかりが耳につく。
リントが剣の柄に手を置いた、そのときだった。
進行方向の右手で茂みが揺れる。
二人が身構える前で葉が大きく押し分けられた。
「……あいつ」
片方だけになった目。身体に残された傷。
昨夜、二人を襲ったウルフだった。
ウルフも二人の存在には気づいている。残された片目がリントたちを捉えたものの、すぐに顔を動かし、自分が出てきた茂みのさらに奥へ視線を戻した。
耳を伏せ、身体を低くする。後脚が地面を擦りながら一歩下がるのを見て、リントは剣を抜かずに様子をうかがった。
隣のヴェルナも、レイピアを抜かない。今は明らかに別の何かを警戒している。
――ガチャ……。
森の奥から、金属の擦れる音がした。
ウルフの耳がさらに伏せられる。リントとヴェルナも、反射的に音のした方へ身体を向けた。
――ジャリ……。
音は、ウルフが出てきた茂みのさらに奥――木々が重なって薄暗くなった場所から近づいてくる。
ウルフがもう一歩、後ろへ下がった。
やがて奥の枝葉が揺れ、その隙間から太い腕が伸びてきた。
緑色の皮膚。人間のものとは比べものにならないほど太い腕。
だが、異様なのはそれだけではなかった。
手首には、黒ずんだ金属の枷が嵌められている。
そこから垂れた鎖が地面へ落ち――
ガチャリ。
また、あの音。
木々の隙間から、今度は太い脚が踏み出した。
一見すれば、ゴブリンに似ていた。だが、見れば見るほど違和感が増していく。肩から背中へ続く毛皮は皮膚と不自然に繋がり、胸元には縫い合わせたような痕が走っている。左右の腕さえ、長さが揃っていない。
先ほど見えた左腕だけが、膝近くまで垂れ下がっている。
足首にも手首と同じ枷が嵌められ、引きちぎられた鎖が歩くたびに地面を這っていた。
「……」
隣にいるヴェルナから、言葉が出てこない。
リントも目の前のものから視線を外せなかった。
異形の濁った瞳が、ウルフへ向く。
ウルフは低く唸りながら後退した。残された片目は異形から離れず、前脚が地面を掻く。
次の瞬間、ウルフは異形に背を向けた。
横手の木々へ向かって、一気に駆け出す。
異形は、逃げていくウルフへ顔を向けたまま、その場に立っている。
一歩、二歩と距離が開く。
その直後だった。
巨体が沈んだ。
地面を蹴った足元から土が弾け、引きずられていた鎖が激しく跳ね上がる。
「――っ!」
ヴェルナが息を呑む。
あれほど大きな身体が、一気に間合いを詰めていた。
ウルフが木々の間へ逃げ込むより早く、異様に長い左腕が横薙ぎに振るわれる。
鈍い音が森に響いた。
ウルフの身体が横から弾き飛ばされ、地面へ叩きつけられる。そのまま土の上を転がり、木の幹にぶつかって止まった。
動かない。
異形もまた、動きを止めていた。
濁った瞳で、倒れたウルフを見ている。
数秒の沈黙。
やがて鎖を引きずりながら歩み寄ると、異形は死体の前で立ち止まった。
何をするでもなく、見下ろしている。
そして――
太い腕が持ち上がった。
振り下ろされた拳が、動かないウルフを地面ごと叩いた。
「……っ」
ヴェルナの肩が強張る。
異形はもう一度殴ることも、死体に食らいつくこともしなかった。
ただ、その場に立っている。
リントは異形から目を離さないまま、隣のヴェルナへ声を落とした。
「ヴェルナ様」
「……はい」
「離れましょう。音に気をつけて」
ヴェルナが静かに頷く。
二人は異形へ身体の正面を向けたまま、踏みしめる場所を確かめる。
枯れ枝を避けながら来た道へ一歩ずつ足を引いた。
異形は追ってこない。こちらを見てもいない。
それでも二人は、異形の動きをうかがいながら慎重に距離を広げていく。
鎖の音が聞こえなくなってからも、二人はしばらく無言で歩き続けた。
振り返っても、木々の間にあの巨体は見えない。
それでもリントは何度も後方を警戒しながら、来た道を進んでいく。
やがて頭上から、一羽の鳥の声が聞こえた。
離れた場所から別の鳴き声が返り、風に揺れる葉音だけだった森に、**少しずつ**いつもの音が戻ってくる。
「……ここまで来れば」
ヴェルナが足を止め、後ろを振り返った。
「ええ。たぶん大丈夫です」
リントもようやく剣から手を離し、詰めていた息を吐く。途端に脇腹の痛みが戻り、その場で身体をわずかに屈めた。すぐにヴェルナが隣まで戻ってくる。
「平気です。ちょっと気が抜けただけで」
心配そうに顔を覗き込まれ、リントは苦笑した。
「少し休みますか?」
「いや……できれば、このまま森を出たいです」
ヴェルナも後方の木々へ目を向けると、すぐに頷いた。
「……そうですね。私もその方がいいです」
二人は再び歩き始めた。
先ほどより少しだけ速く、それでも互いの傷に響かない程度の歩調でシルヴァハイムを目指す。その後、森を抜けるまで鎖の音が聞こえてくることはなかった。
***
東の森林地帯を抜けた頃には、日はすでに高く昇っていた。
見慣れた街道へ出てからも歩き続け、やがてその先にシルヴァハイムを囲む外壁が見えてくる。
門へ近づくにつれて行き交う人の姿も増え、荷車が地面を鳴らす音や人々の話し声が聞こえてくる。
その中で門を守っていた衛兵の一人が二人の姿に気づき、慌てて駆け寄ってきた。
「おい、大丈夫か!?」
衛兵の視線が、肩に布を巻いたヴェルナから脇腹を庇うリントへ移る。
そのまま首元に下がった黄色のタグを確認した。
「名前は?」
「私はヴェルナ・ローズベルグ。こちらはリント・グレイブ」
衛兵の表情が変わった。
「――昨日から戻っていない二人か」
すぐに門の内側へ振り返る。
「ギルドに知らせてくれ! 二人とも戻った! 負傷してる!」
声を受けた衛兵が、門の内側へ走っていった。
「歩けるか?」
「はい。ギルドまでなら」
「無理するな。肩を貸す」
断ろうとしたものの、脇腹に手を添えたままでは説得力もない。リントは一度息を吐くと、差し出された肩を借りた。
「……お願いします」
そのまま門をくぐると、石畳を行き交う人々の声や店先からの呼び込みが耳に飛び込んでくる。
森の中ではあれほど遠く感じていた日常が、何事もなかったように目の前に広がっていた。
***
ギルドへ着く頃には、先ほどの衛兵から知らせが届いていたらしく、入口には数人の職員が待っていた。
扉をくぐった二人を見つけ、受付からミレイユが出てくる。
「リントくん――」
リントの顔を確かめたミレイユの表情が、泥と血で汚れた服、脇腹に巻かれた布を見たところで変わった。
「傷は?」
「脇腹と、あとは――」
「すぐに医務室に運んで」
返事を待たず、ミレイユは傍にいた職員へ指示を出す。そのままヴェルナへ目を向けると、肩に巻かれた布にもすぐ気づいた。
「ヴェルナ様もこちらへ。傷を診てもらいましょう」
「ありがとうございます。それと……アルフレッドは」
ヴェルナの問いに、もう一人の職員がすぐに頷いた。
「昨夜、ヴェルナ様がお戻りにならなかったため、執事の方から捜索のご依頼をいただいております。今朝には捜索隊も出発しました。執事の方は現在、滞在先で連絡をお待ちです」
「……捜索隊?」
ヴェルナの表情が変わった。
「はい。東の森林地帯へ向けて、今朝出発しています」
「すぐに止めてください」
職員が目を瞬く。
「今朝、森で見たことのない魔物と遭遇しました。二メートルを大きく超える大型です。昨夜私たちを襲ったウルフを、一撃で殺しました。何も知らずに森へ入るのは危険です」
一瞬、職員の表情が固まる。
「承知しました。すぐに伝令を出します」
ミレイユはすぐに、周囲で待機していた職員へ声をかけた。
「ヴェルナ様に先生を付けて。こっちはあたしが診るわ」
「分かりました」
それぞれが動き出す中、ミレイユはリントのそばへ寄り、身体を支えるように腕を取った。
「ほら、行くわよ」
「……お願いします」
そのまま二人は、ギルド奥の医務室へ向かった。
寝台に横になったリントの傍らへ椅子を寄せ、脇腹に巻かれた布をゆっくりと剥がしていく。乾いた血が張りついているところでは痛みが走ったが、ミレイユは急かすことなく、傷の状態を確かめながら少しずつ布を外していった。
「……痛む?」
「……まだ、結構」
「そう」
それ以上は何も言わず、脇腹へそっと指を添える。やがて掌から淡い光が広がり始めると、脇腹を刺していた痛みが、染み込んでくる温かさに押されるように少しずつ和らいでいった。
治療を受けながら、リントは傍らにいるミレイユへ目を向けた。
いつもなら、怪我をして帰れば一言や二言では済まない。呆れられるか、叱られるか。それでも最後には、からかわれる。
今日は、それがなかった。
ミレイユはリントの脇腹からほとんど目を離さず、必要なこと以外は口にしない。
最初は治療に集中しているだけだと思っていた。けれど、入口で自分を見た瞬間に止まった声も、傷を確かめてからずっと続いている沈黙も、普段の彼女を知っているからこそ気にかかった。
淡い光が弱まると、ミレイユは治療した箇所を指先で確かめた。
「ほんと……」
何かを言いかけたはずなのに、その先は続かなかった。
リントはそんなミレイユを見て、昨夜から今までのことをぼんやりと思い返した。
昨夜から今朝まで、何度も危ない場面はあった。森を出られるかさえ分からなかったのに、今は見慣れた医務室で、いつもの人が自分の傷を診ている。
ただ、その人が今日は少しだけ違って見えた。
何を言えばいいのか考えているうちに、謝罪より先に別の言葉が浮かんだ。
「……ただいまです」
ミレイユが顔を上げた。
ほんのわずかな間を置いて、その表情が柔らかくほどける。
「……おかえり」
それだけ言うと、ミレイユは残った傷を覆うための布を取り、慣れた手つきで包帯を巻き始めた。
「それにしても……どうしたら一晩でこんなことになるのよ」
「俺も、ここまでになるとは思ってなかったんですけど……」
「普通はそうよ」
ようやく聞こえてきた普段の調子に、リントも苦笑する。
「それで、森なんですけど――」
昨夜のウルフから話すべきか、それとも今朝遭遇したあの異形から話すべきか。
リントが頭の中で順序を組み立てていると、ミレイユが口を挟んだ。
「待って」
傷へ新しい布を当てながら、困ったように眉を下げる。
「気になるけど……今は治療に専念しなさい」
「でも、結構まずいかもしれなくて」
「だったらなおさら、ちゃんとした状態で話してもらわないと困るでしょ?」
「……分かりました」
「よろしい」
包帯が脇腹を覆う頃には、身体を動かすたびに走っていた鋭い痛みも随分と和らいでいた。リントは残りの処置を続けるミレイユを眺めながら、ふと思ったことを口にする。
「……いつもすみません」
ミレイユは呆れたような顔をした。
「そう思うなら、もう少し怪我を減らしてくれると助かるんだけど?」
「それは……気をつけます」
「ほんとに?」
「……できるだけ」
「もう」
今度は呆れながらも笑っていて、リントもようやく肩の力が抜けた。
何気なく治療の様子を眺めているうちに、今まで深く考えたことのなかった疑問が浮かんだ。
「そういえば、ミレイユさんって治療魔法使えるじゃないですか」
「使えるけど?」
「なんでギルドの受付やってるんですか?」
包帯を整えていた指が、そこで一度止まった。
「……受付のお姉さんじゃ不満?」
「いや、そういう意味じゃないですけど」
思わず身体を起こしかけたリントに、ミレイユが吹き出す。
「ふふっ、冗談よ」
そのまま処置を続けながら、今度は考えるように間を置いた。
「そうね……。ここが、あたしには合ってたのよ」
「そうなんですか?」
「そういうことにしておいて」
柔らかな口調のまま、それ以上は答えなかった。
何かを隠しているのかどうか、それを判断できるほどリントは彼女のことを知らない。ただ、「そういうことにしておいて」と言われた以上、これ以上聞くことでもない気がした。
「はい。これでおしまい」
包帯を留め終えたミレイユが、満足そうに仕上がりを確かめる。
「ありがとうございます」
リントが礼を言うと、ミレイユは柔らかな笑みを返した。
***
ヴェルナの治療が終わる頃には、帰還の知らせを受けたアルフレッドもギルドへ到着していた。
別室を出たヴェルナが廊下へ足を踏み出すと、向こうから見慣れた姿が歩いてくる。いつもと変わらない落ち着いた足取りだったが、肩に巻かれた包帯を認めた途端、その歩調がわずかに速くなった。
「ヴェルナ様」
「アルフレッド……」
「お帰りなさいませ」
いつもと変わらない声だった。
「……ただいま戻りました。すみません、心配をかけました」
「お怪我は」
挨拶より先に尋ねられ、ヴェルナは自分の肩へ目を落とした。
「先生に診ていただきました。腕にも少し痛みは残っていますが、大丈夫です」
「……左様でございますか」
それ以上は何も言わなかったものの、アルフレッドは包帯だけでなく、泥や血の跡が残る服まで静かに確かめていた。その様子に気づいたヴェルナは、困ったように微笑む。
「本当に大丈夫ですよ」
「ヴェルナ様の『大丈夫』については、屋敷へ戻ってから改めて確認させていただきます」
「もう……」
そのやり取りに、ヴェルナの表情にもようやく柔らかさが戻った。
そこへ、先ほどとは別のギルド職員が二人のもとへやってくる。
「ヴェルナ様。申し訳ございません。ギルド長のホルトですが、現在ギルドを離れておりまして、本日中に戻るかどうかも分かっておりません」
ヴェルナの表情から、先ほどまでの柔らかさが消える。
「そうですか……。今回の調査について、直接お伝えしたいことがあるのですが」
「お急ぎの内容でしょうか?」
森で見たものが脳裏に浮かぶ。
枷の嵌められた手足。地面を引きずる鎖。そして、まるで別々のものを無理に繋ぎ合わせたような身体。
「はい。東の森林地帯で、見たことのない魔物と遭遇しました」
職員の顔つきが変わった。
「魔物、ですか?」
「二メートルを大きく超える大型です。詳しいことはホルト様にも直接お話ししたいのですが……少なくとも、何も知らない冒険者を近づけてよい相手ではありません」
ヴェルナはそこで言葉を切り、職員をまっすぐ見つめる。
「詳細が分かるまでは、東の森林地帯へ向かう依頼について注意していただけますか?」
「承知しました。すぐに確認いたします」
職員が頷くのを見届けても、ヴェルナはその場を離れようとはしなかった。
「ホルト様がお戻りになる時間が分からないのであれば、少し待たせていただいて――」
「ヴェルナ様」
アルフレッドの静かな声が、その先を止めた。
「必要な第一報は、すでにお伝えになられました。詳しいご報告は、ホルト様がお戻りになられた後、改めてお屋敷へお越しいただくことにいたしましょう」
「ですが――」
「本日はお戻りください」
ヴェルナは何か言おうとして、口を閉じた。
森で一夜を過ごし、肩と腕にはまだ痛みが残っている。
このまま何時間待つことになるかも分からない。
それでも決めきれずにいると、アルフレッドが続けた。
「ホルト様へのご連絡はこちらでお願いしておきます。ヴェルナ様は屋敷へ戻り、お身体をお休めください」
「……分かりました」
アルフレッドは小さく頭を下げた。
「では、そのようにホルト様へお伝えいただけますか」
「承知しました」
職員が答えるのを見届け、アルフレッドは帰りの馬車を回してくると告げた。
ヴェルナもそのままギルドを出ようとして――ふと足を止める。
「アルフレッド」
「はい」
「その前に、少しだけ待っていてもらえますか?」
ヴェルナはギルドの奥へ続く廊下へ目を向けた。
「リントさんの様子を見てきます」
そう告げるヴェルナを、アルフレッドはわずかな間だけ見つめた。
「承知いたしました。では、馬車の準備をしてお待ちしております」
「ありがとうございます」
ヴェルナはアルフレッドと別れ、リントのいる医務室へ向かった。
***
医務室の扉を軽く叩くと、中からミレイユの声が返ってきた。
「どうぞ」
リントは寝台の上で身体を起こしており、傍らではミレイユが治療に使った道具を片づけていた。
「リントさん」
「ヴェルナ様」
リントがこちらへ顔を向ける。
「傷はもう大丈夫なんですか?」
「はい。先生に診ていただきました。リントさんも……先ほどより顔色がよくなりましたね」
「ミレイユさんに治してもらいましたから」
名前を出されたミレイユが、ヴェルナへ向き直る。
「治療は終わっています。ですが、傷がすべて治ったわけではありませんので、しばらくは安静にしていただかないと」
「そうですか……」
ヴェルナは小さく頷いた。
「これから屋敷へ戻ります。その前に、リントさんの様子を見ておこうと思って」
「わざわざありがとうございます」
治療を終えたリントが、いつもの調子で話している。それを改めて確かめると、ヴェルナの表情がようやく緩んだ。
「……本当に、無事でよかったです」
それから小さく笑った
「ヴェルナ様も」
「はい」
ヴェルナは今度はミレイユへ向き直る。
「ミレイユさんも、ありがとうございました」
「いえ。ヴェルナ様もゆっくりお休みになってください」
「はい。そうします」
「無理はなさらないでくださいね」
柔らかく念を押され、ヴェルナも素直に頷いた。
「では、リントさん。また」
「はい。また」
ヴェルナは小さく微笑むと、医務室を後にした。
扉が閉じたあとも、リントはしばらくそちらを見ていた。
「……無事でよかった」
ぽつりと漏れた声に、ミレイユが振り返る。
「ん?」
「あ、いや。ヴェルナ様も無事でよかったなって」
「そうね」
それだけだった。
「……?」
「なによ」
「いや、なんでもないです」
「変なリントくん」
くすっと笑う。
その声を聞いているうちに、張りつめていたものが抜けたのか、急に身体が重くなった。
昨夜は傷の痛みでほとんど眠れていない。
森を出てからここまで歩き続けた疲れも、今になって一気に押し寄せてきたようだった。
「ミレイユさん」
「なに?」
「……ちょっと疲れました」
リントは寝台へ身体を預け、枕に頭を沈める。
「少し、休んでいってもいいですか?」
ミレイユは一瞬きょとんとして、それからおかしそうに笑った。
「ここ、医務室なんだけど?」
「あ……そうでした」
「ふふっ。好きなだけ休んでいきなさい」
「ありがとうございます」
目を閉じたリントに、ミレイユがふと声をかける。
「リントくん」
「はい?」
「……次は、もう少し綺麗に帰ってきてね」
閉じていた目を薄く開ける。
「それは俺も、そうしたいです」
「あはは。なら、そうして」
いつもの声だった。
リントも小さく笑って、もう一度目を閉じる。
しばらくすると、寝台から聞こえていた衣擦れの音もなくなった。
ミレイユはしばらく待ってから、リントの様子を確かめた。
痛みに強張っていた顔からは力が抜け、呼吸もゆっくりと落ち着いている。
椅子を静かに戻し、起こさないよう足音を抑えて扉へ向かう。
取っ手に手をかけたところで、一度だけ振り返った。
眠っている。
ちゃんと、ここにいる。
ミレイユは何も言わず、静かに扉を閉めた。




