第4話「焚き火を挟んで」
前回のあらすじ
東の森林地帯の異変を調べるため、前日の現場を辿るリントとヴェルナ。
残された痕跡からゴブリンとウルフが争った可能性を見出した二人は、さらに調査を進めるが、二匹のウルフと遭遇してしまう。
戦闘を避けて撤退するものの、追跡を受けたリントは逃走中に大きな傷を負う。ヴェルナの援護でなんとか森の奥まで逃れた二人は、その日の調査を断念し、安全な場所で野営することに。
夜。
リントの治療を終え、焚き火を挟んで向かい合う二人。
ヴェルナは昼間から胸の内に抱えていたものを、静かに口にしようとしていた。
「……今日のことなんですが」
薪が爆ぜ、火の粉が夜の闇へ舞い上がる。揺れる炎の向こうで、ヴェルナの青い瞳はリントの脇腹――治療を終えたばかりの傷のあたりに向けられていた。
「出発する前、もう一人同行していただくという話がありましたよね。あのときは、私も二人で問題ないと思っていました。リントさんはこの森に慣れていますし、私も自分の身くらいは守れるつもりでしたから」
「もう一人いたからといって、今日のことを防げたかは分かりません。それでも……どうしても今、思ってしまうんです」
炎に照らされた指先が、服の裾をつまむ。布地にしわが寄っても、その手は離れなかった。
「もし私が、もう一人お願いしていたら……リントさんが、こんな怪我をすることもなかったんじゃないかって」
「ヴェルナ様、それは――」
「二人で行くと決めたのは、私でもあります」
リントの言葉に重ねるように、ヴェルナは続ける。
「リントさんが大丈夫だと言ってくれたとしても……最後にそれでいいと決めたのは、私です」
「……そうですね。もう一人いたら、違ってたかもしれません」
「でも、二人で大丈夫だって言ったのは俺です。もう一人なんていらないって、わがまま言ったのも俺ですから」
息を吸った途端、脇腹の奥に鈍い痛みが走った。途中で息を止め、浅い呼吸を繰り返すリントを見て、ヴェルナの眉がわずかに寄る。
「それに……ヴェルナ様がいなかったら、俺、たぶん今こうして話してませんよ」
「だから……今日のことをヴェルナ様だけの責任みたいに言うのは、違うと思います」
ヴェルナの唇がわずかに開く。けれど声になる前に閉じられ、代わりに夜の森を渡る風が頭上の枝葉を揺らした。
「でも……どうして、そんなに一人にこだわるんですか?」
「うーん……」
風に煽られた炎が傾き、火のそばに置かれた二人分の荷物へ枝葉の影が揺れる。
「一人の方が、気負わなくていいんですよ。誰かに合わせる必要もないですし」
「……お一人でいる方が、お好きなんですか?」
「……いや、一人でいるのが好きなわけじゃないです」
薪がぱちりと爆ぜた。
ヴェルナの青い瞳が、リントを捉えたまま揺れる。けれど、その唇から次の問いが出ることはなかった。
「……誰かと一緒にいると、いろいろ考えるじゃないですか。自分のことだけってわけには、いかなくなるし」
リントは浅く息を継ぐ。
「一人なら、自分のことだけ考えてればいいですから。その方が……楽なんですよ」
「……楽、ですか」
「それなら……少しだけ、分かる気がします」
「ヴェルナ様も?」
「同じではないと思います。でも、やらなければならないことも、考えなければならないこともたくさんありますから……」
ヴェルナの言葉がそこで途切れた。
先ほど握っていた服の裾には、まだしわが残っている。
指先でその一つを伸ばしながら、ヴェルナはぽつりと続けた。
「私も、自分のことだけを考えていられたらって、思ってしまうことはあります」
「ヴェルナ様でも、そんなこと思うんですね」
「思いますよ。私だって、何も考えたくない日はあります」
言ってから、ヴェルナはしばらく黙っていた。
焚き火の向こうで、薪が崩れて小さく火の粉が上がる。
「……なんだか、ずいぶん勝手なことを言っていますね、私」
「そうですか?」
「そうです。自分から調査をお願いしておいて、今度は何も考えたくないだなんて……」
最後の言葉は、夜の静けさに紛れそうなほど小さかった。
「……なんか、そういうところ、ちょっと――」
ヴェルナが顔を上げる。
「……いや。意外だなって」
「意外、ですか?」
「もっと何でもきっちりしてる人なのかと思ってたんで。そういうところもあるんだなって」
「……私だって、いつもきちんとしているわけではありません」
「みたいですね」
リントが思わず笑うと、脇腹の奥がずきりと疼いた。
「っ……」
「リントさん?」
「大丈夫です。ちょっと笑ったら響いただけで……」
「……でしたら、今は笑わないでください」
「はい……」
焚き火の薪が、小さく爆ぜた。
しばらくして、リントは木の幹に身体を預けたまま、重くなっていく瞼を何度か持ち上げた。傷の痛みはまだ残っている。それでも、身体の奥に溜まっていた疲れが一気に押し寄せてきている。
炎の向こうでは、ヴェルナが火を見つめていた。
整った言葉遣いも、背筋を伸ばして座る姿も、初めて会ったときと変わらない。
それなのに、昨日までとは違って見える。
何も考えたくない日もあると言って、そんな自分を勝手だと言った。
「笑わないでください」と言ったときの顔を思い出し、リントはまた口元が緩みそうになる。
脇腹が痛む前に、それを堪えた。
ぼやけていく視界の中で、ヴェルナの銀髪が焚き火の明かりを受けて揺れていた。
まだ起きていようと思ったはずなのに、いつの間にか瞼が落ちていく。
「――トさん」
遠くで、声がした。
「――リントさん」
リントはゆっくりと目を開けた。まだ頭が重い。
何度か瞬きをしているうちに、最初に見えたのは焚き火だった。その向こうに、ヴェルナが立っている。
背を向けたまま、レイピアを構えていた。
「……ヴェルナ様?」
リントの眠気が、一気に消えた。
ヴェルナのさらに向こう。木々の間に、黒い影がある。
身を伏せた巨体。
闇の中に浮かぶ赤い目は――一つだけだった。
「……あいつ」
片目を失ったその姿で、こちらを睨んでいる。低い唸り声が、夜の森を這う。
「リントさんは、そこにいてください」
「でも――」
「もし離れられそうなら、そのときは……」
「一緒に逃げましょう」
ヴェルナの横顔が、ほんのわずかにこちらを向く。
「……はい」
再びウルフへ向けられたレイピア。その切っ先が、夜気の中でかすかに揺れている。
ヴェルナは両手で柄を握り直した。揺れは消えなかったが、剣先だけはウルフから外れない。
そのまま足を横へ滑らせるように、ゆっくりと位置を変えていく。ウルフも正面を保つように向きを変え、低く伏せたままヴェルナを追った。
気づけば、リントとの間が少しずつ開いていた。
「あまり離れすぎないでください」
「……分かっています」
それでもヴェルナは止まらなかった。
リントは傍らに置いていた剣を引き寄せた。鞘を払い、地面に手をついてゆっくりと腰を浮かせる。
「っ……」
脇腹の奥から突き上げる痛みに、動きが止まった。
一度呼吸を整え、それでも剣を支えに立ち上がろうとする。傷口の周りが強く引き攣り、浅い息さえ途中で詰まる。
「……くそ」
奥歯を噛み、木の幹へ背中を預け直す。
低く構えたウルフが、わずかに間合いを詰めた。
ヴェルナの空いた手が前へ伸びる。
周囲の空気が流れを変え、指先へ風が集まり始めた。
その途端、ウルフが足を止めた。
低い唸りを漏らしながら身を沈め、左右へ小さく位置を変える。その赤い目は、ヴェルナの手元から離れない。
ヴェルナのレイピアが、その動きを追う。
指先へ集まる風が強くなった。
その瞬間、ウルフが深く身を沈めた。
「っ!」
ヴェルナが咄嗟にレイピアを引き戻す。
集まりかけていた風が、指先からほどけていく。
――来ない。
ヴェルナはレイピアを戻したものの、すぐには次の動きへ移れなかった。揺れる切っ先を正面へ向けたまま、ウルフの出方を見ている。
再び、互いの動きが止まる。
先に仕掛けたのはウルフだった。
巨体が地面を蹴る。正面から来ると思った次の瞬間には大きく横へ振れ、ヴェルナのレイピアが遅れてその姿を追った。
「っ……!」
ウルフはそのまま間合いの外を駆け抜け、背後へ回り込む。ヴェルナが身体ごと向き直ろうとしたところで、鋭く切り返した。
「ヴェルナ様!」
真っ直ぐに巨体が迫る。
ヴェルナは咄嗟にレイピアを突き出した。切っ先が鼻先へ迫る寸前、ウルフが首を捻る。刃が頬の毛を掠め、そのまま牙が肩口へ迫った。
身を引く。
間に合わない。
ヴェルナの服を牙が裂き、その下の肩を抉った。
「っ……!」
ヴェルナはよろめきながら後ろへ下がり、レイピアを正面へ戻した。
さっきまで微かだった切っ先の揺れが、もう隠せないほど大きくなっている。
「っ……は……」
震えた息が漏れ、裂けた服の下から細い血の筋が腕を伝っていく。
「……大丈夫です」
かすれた声でそう呟き、ヴェルナはレイピアを握り直した。
ウルフが外へ回れば、ヴェルナも正面を保とうと足を運ぶ。
ヴェルナの背後に見えていた焚き火が、いつの間にか随分と遠い。
「ヴェルナ様、もうそれ以上は――」
ウルフが大きく外へ回った。わずかに距離が開く。
その隙を逃さず、ヴェルナは空いた手を前へ出した。
空気の流れが変わると、ウルフはすぐに身を低くして間合いをずらす。
さっきと同じだ。
「ヴェルナ様、待って」
「え?」
集まりかけていた風が、指先からほどけていく。
ウルフの足が止まった。
「……そいつ、魔法を警戒してる」
ヴェルナは前へ出していた手を引き、レイピアを構え直す。
ほんの一瞬、その目が自分の手元へ落ちた。
地面を蹴る音が響く。
「――っ!」
反応が遅れた。
ヴェルナの足がもつれるように下がり、遅れてレイピアを突き出す。迫ってくる牙に切っ先を合わせようとするが、腕に余計な力が入り、狙いが定まらない。
ウルフは首を振って刃をかわし、そのままヴェルナの脇を抜けた。
すれ違いざま、ヴェルナが手首を返す。
レイピアの刃がウルフの肩を走った。
その手応えに、青い瞳がわずかに見開かれる。
直後、振り向いたウルフの前脚が横薙ぎに飛んできた。
ヴェルナは反射的に身を背け、レイピアを握った腕を身体の前へ引き上げる。
鈍い衝撃が、その腕ごと身体を捉えた。
「きゃっ……!」
身体が弾き飛ばされ、肩から地面へ叩きつけられた。そのまま土の上を転がり、ようやく止まったところで、ヴェルナは咳き込むように空気を吸った。
レイピアを握り直そうと指を曲げる。痺れた手の中で柄がわずかに滑り、ヴェルナはもう一度、強く握り込んだ。
ウルフはすぐには飛びかからない。
低く構えたまま距離を保ち、倒れたヴェルナと、その空いた手を見ている。
「っ……は……っ……」
ヴェルナは震える腕で身体を起こし、レイピアを前へ向けた。大きく揺れる切っ先をどうにか正面へ戻そうとするが、肩で息をするたびにまたぶれる。
「ヴェルナ様!」
リントは木に手をつき、剣を握ったまま腰を上げる。
脇腹が軋む。
構わず片脚を前へ出したところで、傷の奥を抉るような痛みが走り、視界が一瞬白くなった。
「ぐっ……!」
木の幹を掴み、どうにか倒れるのだけは堪える。
顔を向ければ、焚き火の向こうにいるヴェルナが、さっきよりずっと遠い。
「ヴェルナ様、戻って!」
「っ……は……っ、は……」
ヴェルナの肩が大きく上下していた。青い瞳はウルフを捉えたまま、リントの方へ動かない。
ウルフが間合いをずらすと、ヴェルナも反射するように足を運んだ。
戻る方向とは逆へ。
「ヴェルナ様!」
もう一度呼ぶ。
荒い呼吸の合間に何かを飲み込むように喉が動き、レイピアを握り直す。肩から流れた血が腕を伝い、指先から一滴、土へ落ちた。
「――おい!!」
森に声が響いた。
ヴェルナの肩がびくりと揺れる。
「こっちだ!」
剣を地面へ突き立て、身体を支えながら声を張る。
「俺を見ろ!」
ウルフの片耳が、リントの声へ向いた。
それだけだった。
視線はヴェルナから離れない。
「……っ、こっちだって言ってんだろ!」
リントは剣を引き抜くと、近くの木の幹へ叩きつけた。
甲高い金属音が、夜の森に響き渡る。
ウルフの耳がもう一度こちらを向く。
それでも、ヴェルナへ向けた構えは崩さない。
「来いよ」
リントは剣を握り直した。
「リント……さん……」
ようやくヴェルナがこちらを見た。
ほんの一瞬、その表情から強張りが抜ける。
だが、ウルフは動かない。
赤い目は、まだヴェルナを捉えたままだった。
リントは奥歯を噛む。
声だけじゃ駄目だ。
「ヴェルナ様……もう一度、魔法を撃ってください」
「……え?」
「お願いします」
ヴェルナはウルフへ向き直った。
震える息を吐き、空いた手を前へ出す。
周囲の空気が流れを変えた。
ウルフはすぐに腰を落とし、いつでも左右へ跳べるように後ろ脚をたわませる。
「そのままです」
ヴェルナの唇がきゅっと結ばれる。
指先へ風が凝縮していく。
「――エアロランス!」
風の槍が放たれる。
ほとんど同時に、ウルフが地面を蹴った。巨体が横へ跳び、エアロランスがそのすぐ脇を駆け抜ける。
「っ……!」
ヴェルナの息が詰まる。
その瞬間を、リントは待っていた。
ウルフが横へ跳んだ先へ、左手を向ける。
バチッ――!
小さな雷光が夜の森を走る。
着地したウルフが身を翻すより早く、その脇腹を打った。
「ガァッ――!」
巨体が大きくよろめく。踏みしめた後ろ脚が土を削り、どうにか踏みとどまる。
「……え?」
ウルフが向き直る。
その赤い目がリントを捉えた途端、牙の奥から漏れる唸りが低く沈んだ。
「……やっと見たな」
リントは剣を握り直す。
ウルフがゆっくりと向きを変えた。
「……リントさん」
大声を上げても、剣を木へ叩きつけても、自分から離れなかったあの目が――今はリントだけを見ている。
「まさか……」
ヴェルナの顔から血の気が引いた。
「リントさん、駄目です!」
声が夜の森に響く。
脇腹を打たれた怒りを押し殺すように牙を剥きながら、じりじりと間合いを詰めてきた。
リントは剣を正面へ構える。
「……これでいい」
「よくありません!」
けれど、ヴェルナを見る余裕はない。
木から背を離した途端、脇腹に焼けるような痛みが走った。膝が折れかけ、剣を地面へ突き立ててどうにか踏みとどまる。
ウルフの足が止まった。
わずかに首を傾けたあと、巨体がじり、と低く沈んでいく。
リントの額を汗が伝った。
さっきまでとは違う。魔法を警戒しているときの動きじゃない。
「リントさん、そこから離れて!」
ヴェルナが駆け出す。
前脚を受けた腕を庇いながら、こちらへ走ってくる。
その足音を拾ったウルフの耳が一度だけ動いたが、意識はリントから逸れない。
後ろ脚に、ゆっくりと力が溜まっていく。
「……来る」
リントは剣を持ち上げた。
脇腹が軋み、呼吸が詰まる。腕はまだ動く。それでも、踏み出そうとした脚には思うように力が入らない。
避けられない。
リントは剣を両手で握り、切っ先だけは巨体へ向けた。
「リントさん!」
ウルフが地面を蹴り、弾けた土を残して一気に間合いを潰す。
リントは迎え撃とうと足を踏み出す。
右脚から力が抜けた。
「っ……!」
身体が傾き、それにつられて剣先も下がる。
ウルフの開かれた顎。剥き出しの牙が、瞬く間に視界を埋めていく。
「――エアロランス!」
夜気が弾けた。
圧縮された風の槍が、リントの脇を駆け抜ける。
ウルフの耳が跳ねた。
だが、もう遅い。
リントへ飛びかかった巨体はすでに地面を離れている。空中で身を捻ったものの、風の槍はその背中を捉えた。
「ギャァッ――!」
衝撃に巨体が大きく傾く。
リントへ届くはずだった牙が目の前を逸れ、ウルフは地面へ激しく叩きつけられた。そのまま土と枯れ葉を巻き上げながら転がり、木の根にぶつかってようやく止まる。
遅れて吹きつけた風に、リントは腕で顔を庇った。
「リントさん!」
ヴェルナが駆け寄ってくる。
肩から血を流し、レイピアを握る腕にもまだ震えが残っている。それでも迷うことなくリントのそばまで来ると、倒れかけた身体を支えた。
「何を考えているんですか……!」
乱れた呼吸の合間から飛んできた声に、リントは思わず口元を緩める。
「いや……助かりま――」
低い唸りが聞こえた。
二人の言葉が止まる。
土埃の向こうで、黒い巨体が動いた。
ウルフは一度崩れかけながらも、爪を土へ食い込ませ、再び立ち上がっていく。
背中から流れた血が黒い毛を濡らしていた。荒い呼吸に合わせて腹が大きく上下し、片脚もわずかに引きずっている。
それでも、赤い目から敵意は消えていない。
ヴェルナがリントを支えていた手を離し、レイピアを上げる。
リントも木へ身体を預け、剣を構え直した。
二人が並ぶ。
ウルフの視線が、リントからヴェルナへ動く。
ヴェルナは肩で息をしながら、空いた手をゆっくりと前へ出した。
ウルフがわずかに距離を詰める。
リントの剣先が上がった。
ヴェルナの指先で、空気が動く。
そこで、ウルフの足が止まった。
誰も動かない。
夜の森に、三つの荒い呼吸だけが重なっていた。
やがて、ウルフの前脚が動く。
一歩。
後ろへ。
リントは剣を下ろさない。ヴェルナも手を前へ向けたまま、その姿を見据えている。
さらに距離が開く。
ウルフは二人から目を離さないまま、ゆっくりと木々の影へ退いていった。
黒い巨体が闇に溶け、残った赤い目もやがて見えなくなる。
姿が消えても、リントもヴェルナも動かなかった。
森の奥から何も聞こえてこない。
どれほどそうしていたのか。
やがて遠くで、葉の擦れる音がした。
それでも戻ってくる気配はない。
リントがゆっくりと息を吐く。
「……行った、みたいですね」
隣へ目を向けると、ヴェルナはまだウルフが消えた森へレイピアを向けていた。
「ヴェルナ様」
「…………はい」
遅れて返事がくる。
その途端、ヴェルナの膝から力が抜ける。
「っ……」
リントが咄嗟に腕を伸ばした。
「危な――っ!」
脇腹に痛みが走り、今度はリントの身体まで傾く。
「リントさん!」
倒れかけたリントを、ヴェルナが反射的に支える。
二人とも、そのまましばらく動けなかった。
「……すみません」
「いえ……」
荒い息が重なる。
リントは自分を支えているヴェルナを見て、小さく息を吐いた。
「……戻りましょうか」
二人でゆっくりと焚き火のそばまで戻る。
リントは木の幹へ背を預けるように腰を下ろし、ヴェルナも少し離れたところへ座った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
その静けさの中で、かすかな音がした。
カチ、カチ、と小さな音が続いていた。
震えるレイピアの切っ先が、足元の小石に触れている。
ヴェルナは柄を握る手に、もう片方の手を重ねた。それでも震えは止まらなかった。
唇を結び、何事もなかったように前を向いている。その横顔とは裏腹に、肩から腕へ伝わる震えだけが、いつまでも残っていた。
リントはその横顔を見ていた。
「……ありがとうございました。今日は何度も助けられちゃいましたね」
リントは木へ背を預けたまま、笑った。
その直後、脇腹が痛んだ。
「いっ……」
「……ですから、今は笑わないでください」
「はい……」
リントも気づいたのか、今度は笑いそうになるのを堪えた。
「ヴェルナ様がいてくれて、よかったです」
ヴェルナは何も言わない。
ただ、指から少しずつ力が抜けていく。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
リントはそれ以上何も言わず、木の幹へ身体を預ける。
やがて、ヴェルナもレイピアを傍らへ置いた。
二人の間に、静かな時間が戻ってくる。
今度は、どちらもその沈黙を埋めようとはしなかった。




