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ソフィアレコード ―傷跡の先に、世界は眠る―  作者: 長月あい
第一章 帰りを待つ人

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第3話「森の異変」

前回のあらすじ


東の森林地帯で増えている魔物の目撃情報を調べるため、ローズベルグ家の令嬢ヴェルナは、現場を知るリントへ案内を依頼する。

安全のために冒険者をもう一人加えることも提案されたが、一人での行動に慣れているリントの希望もあり、二人で向かうことに。

翌朝、東の森林地帯へ向かう道中で言葉を交わし、互いのことを少しずつ知っていく二人。

一人で入っていた森に、今度はヴェルナとともに足を踏み入れた。

木々の間へ足を踏み入れると、街道を歩いていた時とは空気が変わった。

頭上では枝葉が幾重(いくえ)にも重なり、朝の光を細かく遮(さえぎ)っている。湿った土と草の匂い。足元には張り出した根や落ち葉が重なり、踏み込むたびに柔らかな感触が靴底へ返ってきた。

街道では隣を歩いていたヴェルナも、森へ入ると自然にリントの一歩後ろについた。


「歩きにくくないですか?」


「大丈夫です。これでも、森に入るのは初めてではありませんから」


ヴェルナはそう答えながら、足元を横切る太い根を避けてこちらへ続いてくる。森そのものに慣れていないわけではないらしい。


「それに、先ほど気をつけるよう言われましたから。ちゃんと見ていますよ」


「……それなら安心しました」


リントは前へ向き直った。

昨日通った道筋を辿(たど)りながら、木々の隙間や足元へ意識を戻す。折れた枝や獣の足跡があれば一度確かめ、聞こえてくる音にも耳を澄(す)ませる。


その後ろから続く足音は、遅れすぎることもなく一定だった。


「ここです」


ヴェルナもその横まで来ると、さっきまで歩いてきた森ではなく、その先に残された痕跡(こんせき)へ目を向けた。

下草が広く踏み荒らされ、地面の一部が剥(む)き出しになっている。近くには折れた枝が散らばり、太い木の幹(みき)には深く抉(えぐ)れた傷が残っていた。


ゴブリンと戦った場所だ。ヴェルナはすぐには近づかなかった。

その場から周囲を見渡し、それから足元を確かめながら、ゆっくりと戦跡(せんせき)へ入っていく。


「ゴブリンがいたのは、どの辺りですか?」


「最初は……あそこです」


リントは、茂(しげ)みの脇に立つ一本の木を示した。


「俺はこっちにいて、あいつがそこから出てきました。そのあと、最初の一撃を盾で受けて――」


昨日の動きを思い返しながら、自分が下がった場所、ゴブリンが木の幹(みき)を振り回した辺りを順に示していく。

ヴェルナはすぐには近づかず、リントが示した範囲を見渡していた。

やがて、戦った場所から少し外れたところで足を止める。


「リントさん。この辺りでは、攻撃しましたか?」


「そこではしてないです」


足元には、落ち葉の下から黒ずんだ染みが覗(のぞ)いていた。

乾いて色は変わっている。それでも、血だと分かる程度には残っている。

リントも近づき、位置を確かめた。

昨日、自分がゴブリンへ剣を当てたのはもっと奥だ。


「じゃあ、これ……俺と戦う前の血ですね」


「おそらく」


ヴェルナは血痕(けっこん)そのものではなく、その先へ続く草の倒れ方を見ていた。

踏み潰された下草が、途切れながら森の奥へ続いている。


「こちらから来たのでしょうか」


二人はその跡を数歩だけ辿(たど)った。

途中で、リントが一本の木の前にしゃがみ込む。

太い幹(みき)の低い位置に、何本かの細長い傷が残っていた。

昨日はゴブリンだけを見ていて、気づかなかったものだ。


「これ……あいつじゃないですね」


ヴェルナも隣から傷を確かめる。

何本かの傷が、ほぼ同じ間隔で並んでいる。表面を浅く擦(こす)ったものではなく、樹皮(じゅひ)の内側まで食い込んでいた。


「爪でしょうか」


「たぶん。ゴブリンの手じゃ、こうはならないと思います」


リントは昨日見た太い指を思い出す。

そのすぐ下では、土が深く抉(えぐ)れ、落ち葉が一方向へ押し退(の)けられていた。

何かがここで踏ん張ったか、勢いよく地面を蹴(け)った跡にも見える。

リントは先ほどの血痕(けっこん)へ振り返った。

そこから踏み荒らされた草が続き、この木まで繋(つな)がっている。


「……俺と会う前に、ここで何かとやり合ってたんですかね」


「その可能性は高いと思います」


ヴェルナはそう答えたが、木に残された傷から先へは断定しなかった。


「ただ、これだけでは相手までは分かりません」


リントも頷(うなず)く。

昨日見たもう一つの死体が、頭に浮かんでいた。


「その先に、ウルフの死体があるはずです」


青い瞳が、森の奥へ向けられた。


「確認してみましょう」


リントは周囲にもう一度目を配ってから、ウルフの死体を見つけた方角へ歩き出した。

この前と同じ道を辿(たど)り、二人はさらに森の奥へ進んでいく。

戦跡(せんせき)を離れてから、リントの口数は自然と減っていた。前を歩きながら、ときおり足を止めては周囲を確認する。

ヴェルナも話しかけることはなく、その後ろをついてきていた。

しばらく進んだところで、リントは歩みを止める。


「この先です」


木々の向こうに、黒い毛並みが覗(のぞ)いていた。

リントは足を止めたまま周囲を探る。枝葉が風に揺れているだけで、近くに動くものは見えない。少し待ってから先へ進むと、ヴェルナもその後ろへ続いた。


地面に横たわったウルフは、昨日と同じ場所に残されていた。

黒い毛は血と土で汚れ、腹部や背にはいくつもの傷が刻まれている。すでに息がないと分かっていても、その大きさを前にすると自然と歩みが慎重になる。


「昨日は、どこまで確認しましたか?」


「生きてないことを確かめて、討伐証を取ったくらいです。ゴブリンとやり合った直後でしたし、ほかに何がいるか分からなかったんで、傷まではちゃんと見てません」


「そうですか」


ヴェルナはそう答えると、死体のそばへ膝(ひざ)をついた。

すぐに手を触れることはせず、頭部から胴、四肢(しし)へと順に状態を確かめていく。やがて脇腹(わきばら)のあたりで動きが止まった。


「リントさん。ここを見てください」


呼ばれて反対側から覗(のぞ)き込む。

血で固まった毛の下に、ほかとは形の違う傷が残っていた。傷口そのものより、その周囲が広く潰れている。


「爪や牙(きば)でできた傷ではなさそうです。切り裂かれたというより、強いものを叩きつけられたように見えます」


リントの頭に、昨日振り下ろされた太い木の幹(みき)が浮かんだ。


「……あのゴブリンが持ってたやつなら、これくらいにはなりそうですね」


「私も、その可能性はあると思います。ただ、これだけなら似た傷を残すものはほかにも考えられます」


ヴェルナはそこで結論を急がず、今度は前脚から首元へ残る傷を確かめた。


「昨日のゴブリンには、リントさんがつけたもの以外にどんな傷がありましたか?」


「腕と肩に、引っ掻(か)かれたみたいな傷が何本かありました。あとは……噛(か)まれたようなのもあったと思います」


口にしながら、リントは先ほど見つけた木の傷を思い出す。

ほぼ同じ間隔で並んだ、細長い爪痕(つめあと)。

足元に横たわるウルフの前脚へ目を向けると、ヴェルナも同じことを考えたらしい。


「先ほどの木に残っていた痕跡(こんせき)とも、矛盾はしませんね」


それから死体の周囲へ目を移す。

踏み荒らされた落ち葉の間には、黒ずんだ血が点々と残っていた。その跡は森の奥ではなく、二人が来た方角へ途切れながら続いている。


その先にあるのは、ゴブリンと戦った場所だった。

リントは死体と、来た道を見比べた。


「……やっぱり、あのゴブリンとこいつがやり合ったってことですか?」


「今残っている痕跡(こんせき)を見る限りでは、その可能性が一番高いと思います」


ヴェルナはそこで一度、ウルフへ目を落とした。


「ただ……それなら、今度は別の疑問が残ります」


「どうして戦ったのか、ですか?」


「はい。ゴブリンとウルフは生息域が重なることもありますが、普段から積極的に争うわけではありません。餌(えさ)や縄張(なわば)りが絡めば衝突することはあります。でも――」


ヴェルナの言葉がそこで止まる。

リントも、改めて死体を見る。

片方は死に、もう片方も深い傷を負ったまま、それでも自分へ襲いかかってきた。


「……ここまでやり合う理由があった」


「そう考えると、その理由が見えないんです」


何かを奪い合ったのか。それとも、別の理由があったのか。

少なくとも、残された傷から分かるのは、二体が偶然すれ違っただけではなさそうだということだった。


「もう少し、周りを見てみましょう」


ヴェルナが立ち上がりかけた、その時だった。落ち葉を踏む、ごく小さな音がした。

リントは顔を上げ、木々の間へ意識を向ける。


「ヴェルナ様。そのままで」


声を落とし、自分も動きを止めた。風に揺れる枝葉の向こうで、黒いものが動いている。

成獣(せいじゅう)のウルフだった。

まだ距離はある。こちらへ向かっているわけではなく、木々の間を横切るように歩いている。その後ろから、もう一つ小さな身体が現れた。


「……二匹います。あの太い木の右です」


ヴェルナもそちらを確かめる。


「……小さいですね」


成獣(せいじゅう)とはひと回り以上違う。黒い毛の下から肋骨(ろっこつ)の形が分かるほど痩(や)せ、歩みも遅かった。

数歩進んだところで小さい個体が遅れると、成獣(せいじゅう)は足を止めて後ろを振り返った。追いつくのを待つようにその場へ留まり、小さい個体がそばまで来ると、再び森の奥へ歩き出す。

ヴェルナは足元に横たわる死体を見てから、遠ざかっていく二匹へ顔を向けた。


何も言わなかった。

リントにも、今ここで確かめる必要はないと思えた。


「戻りましょう」


「はい」


二人は急に背を向けず、来た道へゆっくりと下がり始めた。足元の枝を踏まないよう地面を選びながら進み、ヴェルナも余計な言葉を挟まず同じ速さでついてくる。


こちらに気づいていないなら、それでいい。

十歩ほど離れたところで、成獣(せいじゅう)の姿が木の陰へ消えた。それでもリントは足を止めず、そのまま距離を取っていく。


もう少し離れれば――。

後方で、落ち葉を踏む音が止まった。

リントは振り返らずに耳を澄(す)ませる。しばらくして、低い唸(うな)り声が木々の間から聞こえた。


ゆっくり後ろを確かめる。

先ほどの小さい個体が立ち止まり、鼻先を上げていた。その数歩前で成獣(せいじゅう)も足を止めている。

小さい個体がこちらを向く。それを追うように成獣(せいじゅう)も振り返り、赤い瞳が木々の間から真っ直ぐ二人を捉(とら)えた。


成獣(せいじゅう)の身体が低く沈む。


「……走ります」


声を落としたまま告げ、リントは踵(きびす)を返した。ヴェルナも遅れずに続く。

背後で低い唸(うな)り声が響いた。落ち葉を蹴(け)り、二人は木々の間を駆け抜ける。

街道へ一直線には向かわない。リントは前方の地形を見て進路を変えていく。


枝を避け、張り出した根を跨(また)ぐ。それでも背後から迫る足音は消えず、むしろ少しずつ距離を詰めてくる。


「追ってきてます!」


「分かってます! そのままついてきてください!」


リントは走りながら肩越しに振り返った。

木々の隙間から成獣(せいじゅう)が飛び出してくる。そのさらに後ろでは、小さい個体も遅れながら追ってきていた。


速い。このままでは振り切れない。

すぐに前へ向き直る。ここで足を止めて迎え撃てば、ヴェルナも戦闘に巻き込む。

なら、まだ逃げる。


前方に、木々の間を塞(ふさ)ぐように倒木が横たわっていた。

その右手には、幹(みき)と幹(みき)の間に人ひとりが通れるほどの隙間がある。


「右へ!」


リントは倒木の手前で進路を変え、その狭い隙間へ身体を滑り込ませた。

背後では、追ってきた成獣(せいじゅう)が枝葉を押し退(の)ける音が響いた。


足音が遠のく。

そのまま走り続けたところで、左脇腹(わきばら)に鈍い痛みが走った。


「っ……」


走るたびに身体が捻(ひね)られ、治りきっていない傷へ響く。リントは脇腹(わきばら)を押さえかけた手を戻した。

さらに木々の間を抜ける。腰でポーチが跳ねた。


次の一歩を踏み込んだ瞬間――


ブツッ。


腰のあたりで、何かが切れる感触がした。


「……あ」


嫌な音だった。

視線を落とす余裕はない。それでも、腰に当たるポーチの動きですぐに分かった。

補助紐(ひも)だ。昨日、ミレイユに指摘されたもの。

固定を失ったポーチが、走るたびに腰から大きく跳ねる。リントは片手で押さえた。


背後から再び唸(うな)り声が近づいてきた。


「リントさん、すぐ後ろまで来てます!」


リントは走りながら肩越しに後方を確認した。

木々の隙間から、成獣(せいじゅう)が飛び出してくる。


「前見て走ってください!」


リントはわずかに速度を緩め、ヴェルナを先へ出した。そのまま進路をずらし、成獣(せいじゅう)との間へ入る。

低く垂(た)れた枝を潜(くぐ)った瞬間、押さえていたポーチが手から滑った。


身体の後ろへ大きく跳ねたポーチ。その切れた補助紐(ひも)が、枝へ絡む。


「――っ!」


腰を強く引かれ、走っていた勢いのまま上体だけが前へ持っていかれた。咄嗟(とっさ)に身体を捻(ひね)ると左脇腹(わきばら)が引きつり、そのまま足がもつれる。


視界が傾いた。

倒れ込む寸前に右手をついたものの、勢いは止まらない。落ち葉と土を巻き上げながら地面を滑り、その先に、途中から折れた低木が見えた。


避けようと腕に力を込める。だが、身体がついてこない。

折れた枝先が左脇腹(わきばら)を掠(かす)めるように突き上げ、服を破った。

一瞬遅れて、息が止まるほどの痛みが走る。


「――ぁ……っ!」


身体を起こそうとした途端、さらに鋭い痛みが返ってきた。

見下ろすと、折れた枝先が左脇腹(わきばら)へ斜めに食い込んでいた。深く突き刺さっているわけではない。それでも、ゴブリンに裂かれた場所のすぐ脇から血が滲(にじ)み、塞(ふさ)がりかけていた傷の一部も開いている。


「リントさん!」


ヴェルナが戻ってくる。


「逃げてください……!」


どうにか声を絞り出す。ヴェルナの足が止まった。リントは歯を食いしばりながら後ろを見る。

成獣(せいじゅう)のウルフが木々の間から姿を現した。こちらを捉(とら)え、速度を落とさない。


剣。


手を伸ばそうとするが、身体を動かしただけで脇腹(わきばら)に激痛が走る。

指先が柄(つか)へ届かない。


ウルフが地面を蹴(け)った。

その巨体が、一気に距離を詰める。


「――エアロランス!」


鋭い声が森を貫いた。


リントの横を風が駆け抜ける。

圧縮された空気の槍が、飛びかかろうとしたウルフの左目を捉(とら)えた。


「グォアァッ!」


低い咆哮(ほうこう)が響き、鮮血(せんけつ)が飛び散る。

ウルフは頭を激しく振りながら着地を崩し、その巨体を地面へ叩きつけた。落ち葉と土を巻き上げ、勢いのまま滑っていく。潰れた左目から血を流しながら、それでも前脚を立てようとしている。


それで十分だった。

ヴェルナがリントのもとへ駆け寄る。


「肩を!」


差し出された腕を見て、リントは一瞬ためらった。


「ヴェルナ様、でも――」


「今はいいですから!」


迷っている時間はなかった。リントはヴェルナの肩へ腕を回す。

身体を起こした途端、食い込んだ枝先が脇腹(わきばら)を抉(えぐ)った。


「ぐっ……!」


「抜かないでください!」


ヴェルナの声が飛ぶ。

ここで抜けば、どれだけ出血するか分からない。


ヴェルナに身体を支えられ、二人でその場を離れる。

数歩進んだところで、リントは振り返った。


左目から血を流した成獣(せいじゅう)が、すでに身体を起こしている。

こちらを追ってはこない。その向こうから、小さいウルフが駆け寄ってきた。

成獣(せいじゅう)の周囲を行き来し、鼻先を身体へ寄せている。


「……行きましょう」


リントが言うと、ヴェルナも一度だけ後ろを見た。


「はい」


リントはヴェルナに身体を支えられながら、木々の奥へ進んでいった。


背後から追ってくる気配はない。それでも、すぐに足を止めるわけにはいかなかった。片目を失ったとはいえ、あの成獣(せいじゅう)が動けなくなったわけではない。

リントはヴェルナの肩を借りながら、できるだけ歩幅を崩さないよう足を運ぶ。だが、一歩進むたびに脇腹(わきばら)へ食い込んだ枝先が揺れ、傷口を抉(えぐ)るような痛みが走った。


「っ……」


漏(も)れた声に、ヴェルナが横顔を覗(のぞ)き込む。


「……すみません」


返事はなかった。

ヴェルナはリントの腕を肩へ掛け直し、固い表情のまま前を向く。


木々の間を縫(ぬ)うように進む。風が吹くたびに頭上で葉が擦(こす)れ、その音に混じって追跡の気配がないか、二人とも耳を澄(す)ませていた。やがて前方の地面が緩やかに下り始める。

足元の根を跨ごうと左脚へ体重を移した瞬間、息が詰まり、膝(ひざ)から力が抜けた。


「リントさん!」


倒れかけた身体を、ヴェルナが咄嗟(とっさ)に支えた。その拍子(ひょうし)に枝がわずかに動き、リントは奥歯(おくば)を噛(か)み締める。額(ひたい)から流れた汗が頬を伝い、呼吸も浅くなっていた。

ヴェルナは一度だけ後方を振り返る。


「……もう少しだけ頑張ってください。休める場所まで行きましょう」


「はい……」


リントの腕を自分の肩へ深く掛け直し、再び歩き出す。さっきよりもヴェルナへ預ける重さが増していた。


街道へ戻る方向からは大きく外れてしまっている。見覚えのない木々が続く。


足元には獣のものらしい跡があった。普段なら一度は足を止めて確かめるところだが、今は目に入っても、その形を追う余裕がない。


しばらく進んだところで、ヴェルナが前方に大きな岩を見つけた。


地面から斜めにせり出した岩肌(いわはだ)の周囲だけ木々が途切れ、根元には人が数人座れるほどの平らな場所がある。周囲に獣の足跡や寝床らしい痕跡(こんせき)がないことを確かめると、ヴェルナは進路をそちらへ変えた。


「あそこで休みましょう」


リントは短く頷(うなず)いた。


岩まで辿(たど)り着き、背を預けるようにして腰を下ろす。途端に、それまで無理に動かしていた身体から力が抜けた。

大きく息を吐いて目を閉じる。歩いている間は耐えることだけに集中していた。腰を下ろした途端、押し込めていた感覚が一気に戻ってくる。服の内側を、生温かいものが伝っていく。


ヴェルナが目の前へ膝(ひざ)をついた。


「傷を見ます」


枝を動かさないよう注意しながら、血を吸った上着を少しずつずらしていく。

塞(ふさ)がりかけていた傷のすぐそばへ、折れた枝が深く食い込んでいる。周囲の皮膚まで赤く染まり、古い傷も一部が開いていた。


ヴェルナは傷の周囲へ視線を走らせ、枝が刺さった角度や出血の状態を確かめていく。


「治療薬は持っていますか?」


「ポーチに。包帯もあります」


リントが腰へ手を伸ばすより先に、ヴェルナが切れた補助紐(ひも)からポーチを外した。

中から治療薬と清潔な布、包帯を取り出し、手の届く場所へ並べていく。その手際を眺めながら、リントは枝葉の向こうへ目を向けた。


森へ入った頃には高かった陽が、すでに傾き始めている。

今いる場所から街道まで戻り、そこからシルヴァハイムへ向かう。普段ならどうということのない距離でも、この傷では到底無理だった。


「……今日は、戻れそうにないですね」


「はい」


ヴェルナも空を見上げ、それから周囲を見渡した。


「ここで夜を越しましょう。明るいうちに必要な準備をしておいた方がいいです」


リントが頷(うなず)くと、ヴェルナは治療薬と布を手の届く位置へ揃えた。

あとは、脇腹(わきばら)へ深く食い込んだ枝を抜かなければならない。


「抜いたら、すぐに傷口を押さえます。治療薬を使って、それから包帯を」


自分にも言い聞かせるように手順を確かめ、ヴェルナはリントの顔を見る。


「……抜きますね」


ヴェルナの声に、リントは岩へ背を押しつけた。

枝が引き抜かれた瞬間、脇腹(わきばら)の奥から焼けるような痛みが突き抜ける。


「――っ!」


息が詰まり、身体が強張(こわば)った。

ヴェルナはすぐに傷口へ布を押し当てる。白い布へ血が滲(にじ)み、押さえた手の隙間から赤い筋が流れた。


「そのまま、動かないでください」


リントは岩肌(いわはだ)を掴(つか)み、浅い呼吸を繰り返す。

ヴェルナは傷口から布を離さないまま治療薬を手に取り、栓(せん)を外した。


「少し染(し)みます」


布をずらし、傷口へ薬を流し込む。

冷たい液体が触れた直後、脇腹(わきばら)に鋭い痛みが走った。リントが奥歯(おくば)を噛(か)み締める横で、ヴェルナは再び布を押し当てる。


しばらくすると、新たに布へ滲(にじ)む血も少なくなっていった。

ヴェルナは傷の状態を確かめ、新しい布を重ねて包帯を巻いていく。


「……終わりました」


その言葉を聞いて、リントは岩へ深く身体を預けた。


「ありがとうございます」


「しばらく、そのままでいてください」


「はい」


今度は素直に従った。


陽が落ちるまでの間、ヴェルナは一人で野営(やえい)の準備を進めた。

岩から離れすぎない範囲で枯れ枝を集め、火を起こす場所を整える。リントは岩にもたれたまま、ときおり周囲へ目を向けることしかできなかった。


やがて森から陽の光が消え、二人の間で焚(た)き火だけが赤く揺れていた。


パチパチと薪(まき)の弾ける音に、ときおり風に揺れる木々のざわめきが重なる。野営(やえい)の準備を終えてから、ヴェルナは火の向こうに座ったまま、ほとんど口を開いていなかった。


リントも岩へ身体を預け、静かに呼吸を繰り返している。枝を抜いてから時間は経ったが、脇腹(わきばら)の奥では脈打つような痛みが続き、息を深く吸おうとすれば傷口が引き攣(つ)った。


「……リントさん」


不意に呼ばれ、リントは顔を上げる。


「傷の具合は、どうですか?」


ヴェルナの視線は、包帯の巻かれた左脇腹(わきばら)へ向いていた。


「ヴェルナ様がちゃんと処置してくれましたから。さっきより、ずっと楽ですよ」


そう答えてみせるものの、呼吸はまだ浅い。ヴェルナは何も言わずにその様子を見つめると、包帯に新しい血が滲(にじ)んでいないことを確かめてから、ようやく炎へ目を戻した。


「何か変わったことがあったら、すぐに言ってくださいね」


「はい」


パチパチと薪(まき)が弾け、火の粉がひとつ、夜の中へ舞い上がって消えていく。

ヴェルナは炎を見つめたまま、まだ何も言わない。

リントも、その沈黙を埋めなかった。

ヴェルナは膝(ひざ)の上で両手を重ね、しばらくして顔を上げた。


「……あの」


青い瞳が、焚(た)き火越しに真っ直ぐリントへ向けられる。


「少し、お話ししてもいいですか?」


挿絵(By みてみん)


いつもの柔らかな声だった。

それでも、何気ない話ではないことくらいは分かる。


「なんですか?」


ヴェルナは一度だけ息を整えた。


「今日のことなんですが……」


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