第22話「優しい人」
前回のあらすじ
鉱山から戻った夜、ヴェルナから戦闘中の異変を指摘されたリントは、自分の中にあるものから目を逸らすように、一度は彼女から距離を取った。
その二日後。
以前から約束していたミレイユとの食事へ向かったリントは、慣れない店選びに戸惑いながらも、料理を分け合い、酒を飲み、これまで知らなかった彼女の一面に触れていく。
食事を終えた帰り道、酔ったミレイユと立ち寄った広場で、二人はその日のことを振り返った。
楽しかったと笑い合う中、誰かとこうして過ごすことに慣れていないリントへ、ミレイユが昔のことを尋ねる。
「いや……昔、ちょっとだけそんな時間はありましたね」
それ以上聞こうとしない彼女の隣で、リントはしばらく黙ったあと、もう一つだけ言葉を続けた。
「……その時間、好きだったんですよ」
「……その時間、好きだったんですよ」
言葉にしてから、リントは少しだけ黙った。
自分でも、どうしてそこまで口にしたのかは分からなかった。
ミレイユは急かさない。ただ隣で、さっきまでと変わらない顔をしている。
「どんな人だったの?」
その聞き方にも、特別な重さはなかった。
だから余計に、リントは答えを探した。
どんな人だったのか。
そう聞かれると、うまく出てこない。
何を話せば、その人になるのかも分からなかった。
少し考えて、それでも最後に残ったのは、ひどく単純な言葉だった。
「……優しい人でした」
ミレイユが、ほんの少しだけ目元をやわらげる。
「そっか」
それだけだった。
けれど、その一言で終わらせるには、まだ何かが残っていた。
***
――朝、目を覚ますと、いつも先に火が入っていた。
山の奥にある小さな家で、男は黙って鍋をかき混ぜている。リントが起きてきても、振り返って大げさに声をかけたりはしなかった。
「起きたか」
それだけ言って、椅子を一つ足で引く。
最初の頃、リントはその椅子に座るまでにも時間がかかった。
男は急かさなかった。
鍋からよそったものを自分の前に置き、先に食べ始める。リントの分も、同じように向かいへ置いてある。
しばらくは、それにも手をつけなかった。
湯気が細くなっていくのを眺めながら、男が何か言うのを待っていた。それでも男は自分の器を空にすると、黙ってもう一杯よそっただけだった。
そのうち、腹が減れば手を伸ばすようになった。
男はそれを見ても何も言わなかった。
ある朝、手を滑らせて器を床へ落としたことがあった。
乾いた音が響いた瞬間、リントは椅子から身を縮め、両腕で頭を庇うようにしてうずくまった。
「や……やめて……お願い……」
声は、ほとんど喉の奥で潰れていた。
何かが飛んでくると思った。
拳か、足か。髪を掴まれて、そのまま外へ引きずり出されるか。
それとも、火の中で赤くなるまで熱せられた鉄を持ってこられるか。
思い浮かんだだけで、服の下に残った三つの痕がひりつくような気がした。
けれど、いつまで待っても何も来なかった。
「怪我したか?」
頭の上から聞こえた声に、リントは腕の隙間から男を見る。
男は割れた器ではなく、こちらを見ていた。
「……してない」
「なら、立てるな」
男はそれだけ言って、床に散った破片を拾い始めた。
リントはすぐには動けなかった。
怒鳴られもしない。理由を聞かれもしない。どうしてそんな格好をしているのかと笑われることもなかった。
やがて男は最後の破片を拾うと、何事もなかったように棚から別の器を取り出した。
鍋の中には、まだ少し残っていた。
それをよそい直し、さっきと同じ場所へ置く。
「冷めるぞ」
リントはゆっくり腕を下ろした。
新しい器から、また湯気が上がっていた。
それを両手で持ち上げるまで、少し時間がかかった。それでも男は何も言わず、自分の食事を続けている。
リントは一口だけ口にした。
温かかった。
次の朝も、目を覚ますと火が入っていた。
その次の日も。
いつからだったのか、起きてきたリントが自分で椅子を引くようになっていた。
***
「……そんな人でした」
話し終えたリントは、そこで初めて自分が思っていたより長く話していたことに気づいた。
ミレイユはすぐには何も言わなかった。
しばらくリントを見ていたが、やがてその目元がやわらぐ。
それから、わずかに首を傾けた。
「……そっか。優しい人だったんだね、本当に」
その時だけ、ミレイユは静かに笑った。
リントは、その顔をしばらく見ていた。
「……でも、その時間も長くは続かなかったんです」
少し間を置いて、
「ある朝、起きたらいなくなってて。最初は……帰ってくると思ってました」
***
――その朝も、火はついていた。
いつもと同じだった。
起きて、部屋へ出る。火の上には鍋があり、男の椅子も昨日の場所にある。
リントはいつものように、その椅子の向かいへ座った。
鍋の中には朝の分が残っていた。
少し待ってみたが、男は戻ってこない。
外に出ているのだと思った。
薪でも取りに行ったのかもしれないし、水を汲みに行っただけかもしれない。
腹が減っていたので、先に食べることにした。
食べ終わっても、まだ戻らなかった。
それでも、その時は何もおかしいとは思わなかった。
翌朝。
リントが部屋から出ると、火は消えていた。
いつもなら、目を覚ました頃にはもう赤くなっているはずだった。
鍋もかかっていない。
男の椅子は、昨日と同じ場所にある。
読みかけの本も、外套も、そのままだった。
昨日まであったものは、何一つなくなっていなかった。
いなくなったのは、男だけだった。
その日も、リントは待った。
昼を過ぎる頃には、一度家の外へ出た。
森の奥をしばらく眺めていると、風が木々を揺らすたび、その向こうから誰かが歩いてくるような気がした。
そのたびに目を凝らしたが、人影はない。
一度くらい、声を出して呼んでみようともした。
けれど、口を開きかけたところで、リントは初めて気づいた。
呼ぶ名前を知らなかった。
一緒に食事をして、同じ家でいくつもの朝を迎えたのに、男の名前を聞いたことがない。自分から尋ねたこともなかった。
それまで、それで困ったことは一度もなかった。
結局、誰もいない森に声をかけることもできず、リントは家へ戻った。
次の日も。
その次の日も。
男は帰ってこなかった。
火を起こすのも、いつしか自分でするようになった。
最初は薪をうまく割れなかった。男が使っていた斧は子どもの手には重く、力いっぱい振り下ろしても、刃が木の表面に食い込むだけだった。
何度も持ち上げているうちに腕が痛くなり、手のひらの皮も破れた。
それでも、やめるわけにはいかなかった。
火がなければ、夜は寒い。
次の日には少し細い木を選び、斧を持つ位置も変えてみた。男がやっていた姿を思い出しながら何度も振り下ろして、ようやく一本が二つに割れた時には、すっかり息が上がっていた。
水も自分で汲んだし、使った鍋も洗った。
男がしていたことを、覚えている範囲で一つずつ真似ていく。
そうしていれば、まだここで暮らしていけるような気がした。
けれど、棚に残った食べ物だけはどうにもならなかった。
一度に食べる量を減らし、腹が鳴っても残りを数えてから棚を閉じる。それでも数は減り続け、最後には何も残らなくなった。
それでも、リントは家を出なかった。
森へ入って木の実を拾い、食べられそうな草を探した。どれが口にしていいものなのか分からず、食べたあとに吐いたこともある。
ある日、朽ちた木をひっくり返すと、その下で何匹もの虫が蠢いていた。
リントは、しばらくそれを見ていた。
その日は手を伸ばせなかった。
けれど夜になっても腹の中には何もなく、翌日にはもう一度同じ場所まで歩いていった。
今度は目を逸らしながら一匹を捕まえ、火のそばへ持っていった。
口へ入れた時の味は、ほとんど覚えていない。
ただ、それで次の日まで生きられた。
そうしているうちに、家の中も少しずつ変わっていった。
薪は減り、火をつけない夜が増え、鍋を使うこともなくなった。自分が暮らし続けるほど、男と過ごしていた頃の形が少しずつ崩れていく。
それでも、男の椅子だけは動かさなかった。
読みかけの本にも触れず、外套も壁に掛けたままにしていた。
帰ってきた時に、そこだけは同じ方がいいと思った。
けれど、その夜はもう火を起こせなかった。
棚にも、食べられるものは残っていなかった。
ある夜、リントは紙を一枚、机の上に置いた。
けれど、筆を持ってみても、なかなか書き始めることができなかった。
どこへ向かうのか、自分でも分からない。町がどちらにあるのかも知らなければ、ここへ戻ってこられるのかさえ分からなかった。
長いあいだ考えて、結局書けたのは一行だけだった。
『食べ物を探してきます』
紙を見つめたまま、ふと、その人の名前を書いていないことに気づいた。
誰へ向けた手紙なのか分かるようにした方がいい。
そう思ってから、手が止まった。
リントはゆっくり顔を上げ、向かいにある椅子を見る。
そこに座っていた男の姿を思い出そうとした。
声は覚えている。器を置く時の手も、薪を割る背中も、たまに笑っていたことだって覚えていた。
なのに、顔だけが出てこない。
目も、口元も、その輪郭さえも。
思い出そうとするほど、そこだけに黒い影が落ちたように何も見えなくなった。
昔からそうだったのか。
それとも、忘れてしまっただけなのか。
リントには分からなかった。
翌朝、紙を机の上に残して家を出た。
扉を閉めたあとも、すぐには歩き出せなかった。
もし今、後ろから呼ばれたら。
そんなことを考えながら、しばらくその場に立っていた。
けれど、聞こえてくるのは木々のざわめきだけだった。
やがてリントは前を向き、どこへ続いているのかも分からない道を歩き始めた。
***
「……それから、気づいたらこの街に来ていました」
言い終えてから、リントはしばらく前を見ていた。
どこまで話すつもりだったのか、自分でも分からない。
気づけば、あの家を出た朝のことまで話していた。
隣では、ミレイユが何も言わずに座っている。
さっきまでと同じ距離だった。
そこでようやく、リントの中に遅れて何かが追いついた。
胸の奥に、鈍い痛みが戻ってくる。
リントは視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「……待つよね」
ミレイユの声が、やわらかくなる。
「帰ってくるって思ってたら」
それ以上は続けなかった。
「……帰ってくると思ってたんです」
自分でも気づいて、そこで一度止まる。
それでも、もう飲み込めなかった。
「ずっと……待ってたのに」
膝の上に置いていた手が、ゆっくり握られていく。
「朝になったら帰ってくるかもしれないって。次の日なら、その次ならって……」
最後の方は、うまく声にならなかった。
握りしめた拳に、ミレイユの手がそっと重なった。
夜気にさらされていたその手は、少し冷たかった。
ほんの少しだけ重なったあと、ミレイユの手が離れていく。
ほどかれたリントの手だけが、膝の上に残った。
リントはその手を見たまま、しばらく動かなかった。
さっきまで気にならなかった夜気が、急に冷たく感じる。
噴水の音も、少し遠かった。
「……こんな、つまらない話してすみません」
言いながら、リントは拳を開いた。
「引き留めちゃいましたね。もう帰りましょう。夜も冷えてきましたし」
立ち上がろうとして、一度だけ動きが止まる。
「……俺、しばらく長い依頼でも受けようかなって思ってるんです」
ミレイユが顔を上げる。
「この街も、少し出ようかなって」
「……やめてよ」
「え?」
振り向くと、ミレイユはまだ座っていた。
「つまらなくなんかない」
「好きだったんでしょ。その時間、だったら自分でそんなふうに言わないでよ」
ミレイユは少し眉を下げたまま、リントを見上げていた。
「……どうして、そんなふうにしてくれるんですか」
ミレイユは、目を細めた。
「どうしてって……嫌だからよ」
「……嫌?」
「そういうの。それだけ」
リントは返事をせず、ほどけたままの手を見る。
「ミレイユさんって……ギルドにいる時は、いつも眠そうだし。すぐ人のことからかうじゃないですか」
そこで一度、言葉を切った。
「……でも、優しいですよね」
ミレイユは目を丸くした。
それから、口元がゆるむ。ベンチの縁から伸びた足が、小さく前後に揺れる。
「……褒められた。へへ」
リントは、少し遅れてその横顔を見た。
「……っくしゅ」
ミレイユが小さく肩をすくめる。
自分でも可笑しかったのか、鼻先を指でこすった。
「さすがに冷えてきたね……帰ろっか」
「はい」
返事は、思っていたよりすんなりと出た。
ミレイユがベンチから立ち上がる。
さっきまで揺れていた足が地面につくと、少しだけふらついた。
「……まだ酔ってるじゃないですか」
「ちょっとだけ」
「さっき酔い醒めたみたいな顔してたのに」
「それとこれとは別なの」
ミレイユが歩き出すのを待って、その隣に並ぶ。
広場を離れると、夜の街はもうすっかり静かになっていた。
人で埋まっている通りも、今は店先の灯りがところどころ残っているだけだった。
「なんか、今日はいっぱい喋ったね」
「……そうかもしれません」
ミレイユが横から顔を覗き込む。
「いいことじゃない。リントくんの初デート大成功だね!」
「だから!……そういうとこですよ、ミレイユさん!」
「今度ギルドで、リントくんに手ぇ握られたって言っちゃお」
「握ってないです! ほんとにやめてくださいよ!?周りからすごい睨まれるんですから!」
「酔ってるからきこえなぁ~い」
ミレイユは前を向き直すと、楽しそうに笑った。
歩き出した腕が揺れ、手首の腕輪が店先に残った灯りを一瞬だけ拾う。




