第21話「今日が終わる前に」
前回のあらすじ
鉱山から戻った夜、ヴェルナに呼び止められたリントは、宿までの道を歩きながら戦闘中のことを尋ねられる。
異常な速さの正体が、魔力を体内で巡らせる独自の使い方だと明かす一方、サブテラーがヴェルナへ迫った時の自分については、なぜあそこまでしたのかリント自身にも分からなかった。
さらにヴェルナから、戦闘中にリントの魔力が外へ滲んでいたように見えたと告げられる。
宿へ着いたあと、ヴェルナは食事をしながらもう少し話そうと誘うが、リントはそれを断った。
一人になった帰り道。
頭から離れないヴェルナの姿の中で、リントは以前、自分からミレイユを食事へ誘ったことを思い出す。
――今度……ごはん行きませんか。
今なら、まだ――。
その先を考える前に、リントは思考を止めた。
ヴェルナと宿の前で別れてから、二日が過ぎた。
日が暮れかけたシルヴァハイムでは、通りに面した店の灯りが目立ち始めていた。夕食時を迎え、大通りには仕事を終えた人たちの姿が増えている。
ギルドの扉が開くたび、リントはそちらを見た。
依頼帰りらしい冒険者が連れ立って出てくる。少しして、仕事を終えた職員が一人、通りの向こうへ歩いていった。
リントはそのまま入口の近くに残っていた。
いつもの革装備ではなく、今日は暗い色のシャツに上着を羽織っている。
また扉が開いた。
その中にミレイユの姿がある。
こちらに気づくと同僚たちと別れ、片手を上げたまま真っすぐこちらへ向かってきた。
受付の仕事着ではない。落ち着いた色合いのワンピースに薄手の上着を重ね、歩みに合わせて柔らかな布地が揺れる。普段から人目を引く豊かな身体の線も、今日はいつも以上に目についた。
「待った?」
「……いや。そんなには」
答えてから、リントは目を通りの先へやる。
「どうしたのぉ?」
「……なんか、雰囲気違いますね」
「ふぅん」
それだけで、ミレイユの声が楽しそうになった。
今度はミレイユの方が、リントを上から下まで眺め始める。
「リントくんも、今日はずいぶん違うのね」
「そうですか?」
「そうよ。ちゃんと普通の服、持ってたんだ」
暗い色のシャツに上着を羽織っただけで、特別なものではない。普段から着ている服だと答えると、ミレイユはまだ面白そうに見ていた。
「だって、あたしが見る時はいつも剣とか盾とか持ってるもの」
「ギルドで会ってるんですから、そりゃそうでしょう」
「ああ、そっか」
そういって笑うミレイユとリントの横を、仕事帰りの人波が流れていく。
「店、こっちです」
「あら。決めてくれてるの?」
「一応。誘ったの俺ですから」
ミレイユが隣へ並ぶ。
いつもの甘い香りが、近くに感じた。
「そう。じゃあ今日は、リントくんに任せようかな」
柔らかくそう言われて、リントは隣を見る。
ミレイユはどこか嬉しそうに笑っていた。
「……期待されると困るんですけど」
「大丈夫よ。楽しみにしてるだけ」
そう言って先に歩き出したミレイユに並び、二人は夕食時の大通りへ入っていった。
通りを進むうちに、夕食を取る店を探す人の姿に混じって、仕事帰りらしい男たちの姿が増えてきた。
「この辺なの?」
「もう少し先です」
何軒か通り過ぎたところで、リントは一つの店の前で足を止める。
「ここです」
軒先に下がった看板は古く、開いた扉の向こうには長い卓がいくつも並んでいる。席のほとんどを埋めているのは冒険者や仕事帰りの男たちで、奥からは料理を運ぶ店員の声に混じって、大きな笑い声が聞こえてきた。
「ここの肉料理、美味しいんですよ。量もあるし、値段も――」
隣から返事がない。
リントが見ると、ミレイユは店の中へ目を向けていた。
「ああ……っと」
つられて、もう一度店内を見る。
酒の入った男たちが大声で笑い、長い卓では冒険者らしい一団が肩を寄せて杯を重ねている。奥から運ばれてきた大皿に誰かが声を上げ、また笑いが起こった。
何度も入ったことのある店だった。
いつもなら、何も気にならない。
「……いつもはここなんですけど、今日は違います」
「あら、そうなの?」
「はい。もう少し先です」
リントはそのまま店の前を通り過ぎた。
二軒隣の看板を見る。
酒場だった。
その先には、窓際まで客の埋まった小さな食事処がある。少しだけ足を緩めたものの、入口に立てられた品書きを見ても、そこがさっきの店と何が違うのかまでは分からない。
通りを行く人を避けながら、もう一軒、その先へ。
ミレイユは何も言わず、隣を歩いていた。
また店が見えてくる。
今度は先に中を確かめた。
「ねえ、リントくん」
「はい」
声に振り向くと、ミレイユが少し後ろで立ち止まっていた。
「ちょっとだけ、あたしに任せてみない?」
リントも足を止める。
ミレイユは通りの先を指した。
「この辺に、一軒いいところがあるの」
「……お願いします」
「ふふ。じゃあ、こっち」
ミレイユが隣を抜けていく。
今度はその背中を追って、リントも歩き出した。
大通りを少し戻り、一本細い通りへ入る。
さっきまで近くにあった笑い声や呼び込みの声が、背中の方へ遠ざかっていった。
ミレイユは迷う様子もなく何軒かの店を通り過ぎていく。
さっきまで隣にあった姿が、今は少し前にある。歩くたびにワンピースの裾が揺れ、リントはその後ろをついていった。
やがてミレイユが一軒の前で足を止めた。
「ここ」
店先には大きな看板もなく、扉の脇に小さな黒板が立てられている。窓の向こうでは、二人で向かい合って食事をしている客が見えた。
さっきまで自分が探していた店とは、ずいぶん違う。
「……こういうところなんですね」
「あら。もう分かった?」
リントは窓の中をもう一度見た。
「さっきよりは」
ミレイユが笑った。
「じゃ、入りましょ」
扉を開けた彼女に続いて中へ入る。
背中で扉が閉じると、外の人声が遠くなった。
すぐ近くの卓では、男女が一つの皿から料理を取り分けながら話している。奥から運ばれてきた皿が別の卓へ置かれ、焼いた肉と香辛料の匂いが流れてきた。
「お二人ですか?」
声をかけてきた店員に、ミレイユが頷く。
「はい」
そのまま壁際の席へ案内された。
ミレイユが向かいの椅子へ腰を下ろし、リントもその正面に座った。
卓を挟んだ先にいる彼女と、何をするでもなく目が合う。
「なあに?」
「……いや」
リントは卓の端に置かれていた品書きを取った。
開いた頁には、肉料理や煮込み、魚を使ったものまでいくつも並んでいる。
一度、上から順に目を通す。
肉料理のところで止まり、次に煮込みを見る。さっきなら迷わず肉を選んでいたはずなのに、今日はそのまま指を下へ滑らせた。
向かいでは、ミレイユがもう別の頁を開いていた。
「リントくん、お酒は飲む?」
聞かれて、自分の品書きへ目を戻した。
「ビールくらいなら飲みますよ」
「じゃぁ、乾杯できるわね」
ミレイユの声に笑いが混じる。
リントはもう一度、料理の並んだページを見る。
「ミレイユさん、ご飯は何を頼むんですか?」
「鶏肉の香草焼きと、牛肉の赤ワイン煮で迷ってるのよねぇ。どっちがいいと思う?」
リントは品書きに目を落とした。
鶏肉の香草焼きと、牛肉の赤ワイン煮。どちらも食べたことがなく、名前から想像できるのも鶏肉と牛肉くらいだった。
結局、どちらがいいのか分からないまま顔を上げた。
「……どっちが美味しいんですか?」
「それを聞いてるのよ」
「ああ……」
言われて、もう一度品書きを見る。
自分が何を頼むかすら決まっていない。
「すみません。俺、こういうの全然分からないです」
「ふふ。 じゃあ、一緒に決めましょ」
そう言って、彼女は自分の品書きを少し卓の中央へ寄せた。
二人分の品書きを卓の中央へ寄せたまま、ミレイユは酒のページをめくる。
並んだ名前を追う目が、さっきまでより少し楽しそうに見えた。
店員が近くを通ると、ミレイユは呼び止めて、何種類か酒のことを尋ねた。
料理にはどれが合うのか、甘さはどのくらいなのか。
リントは品書きを開いたまま、その様子を見ていた。
「ミレイユさん、結構お酒好きなんですね」
店員が離れてから声をかけると、ミレイユはまだ酒の頁を見たまま答えた。
「好きよ。それに今日はせっかくリントくんが誘ってくれたんだもの。選ぶのも楽しいじゃない」
ようやく一つに決めたらしく、指先が止まる。
「リントくんも同じのでいい? それとも違うのにする?」
リントはその名前を見てから、さっきまで自分が眺めていた頁へ目を移した。
顔を上げたミレイユが、楽しそうに笑った。
「……同じのでお願いします」
「じゃあ、お酒はこれで決まりね」
ミレイユは満足そうに頷くと、開いたままの品書きをもう一度料理の方へ戻した。
卓の中央には二冊が並んでいる。さっきまで一人で眺めていた時にはどれも似たように見えていた料理も、ミレイユが覗き込むように指を置くと、少しずつ候補が減っていった。
「リントくん鶏肉の方にしない? それなら、もう一つは違うものにできるし」
「違うもの?二つ食べるんですか?」
「違うわよ……。せっかく二人なんだから、分ければいいでしょ」
リントは品書きへ目を落とした。
ミレイユの指は鶏肉の香草焼きのところに置かれている。その少し下には煮込みや魚料理が並び、卓の中央には二人分の品書きが重なるように開かれていた。
「……ああ。それなら、いいですね」
「でしょ?」
それからもう一品を選び、近くを通った店員へ料理と酒を頼んだ。
注文を聞き終えた店員が、卓に広げていた品書きを二冊とも持っていく。
何もなくなった卓を、リントはしばらく見ていた。
顔を上げると、向かいに座るミレイユとそのまま目が合った。
彼女は別に何を言うでもなく、こちらを見ている。
リントはまた視線を落とした。
「そんなに構えなくていいのよ?」
「別に……構えてます?」
「ちょっとだけ」
ミレイユが笑う。
ほどなくして、店員が二つの杯を運んできた。
淡い琥珀色の酒が卓へ置かれる。普段飲むビールとは違い、近くまで来ると果実のような甘い香りがした。
ミレイユは自分のグラスを持ち上げる。
「じゃ、乾杯しましょ」
リントも遅れてグラスを取った。
「えっと……何にです?」
「なんでもいいのよ。こういうのは」
ミレイユはそう言ったまま、グラスを少しこちらへ傾けて待っている。
小さな音が、二人の間で鳴った。
ミレイユはそのまま先に口をつける。
リントも一口飲んだ。
思っていたより甘い。あとから酒の熱が喉を通り、普段飲んでいるものとはずいぶん違った。
向かいでは、ミレイユのグラスの中身がもう残り少なくなっていた。
「……これ、結構甘いですね」
「でしょ? 飲みやすいのよ」
「それにしても、ミレイユさん飲むの早くないですか?」
「そう? たまに言われるけど」
そう言いながら、ミレイユはまたグラスを口元へ運んだ。
空になったグラスを卓へ戻したところで、奥から料理が運ばれてきた。
最初に置かれたのは鶏肉の香草焼きだった。焼き目のついた肉の上には細かく刻まれた香草が散らされ、湯気と一緒に香ばしい匂いが立つ。
もう一皿がその隣へ置かれ、最後に小さな取り皿が二枚並んだ。
ミレイユは料理を覗き込み、先に鶏肉の皿へ手を伸ばした。
「ちょっとまってね、分けてあげる」
「俺も取るくらいできますよ」
リントが手を伸ばすより先に、ミレイユが取り皿を二枚とも自分の方へ引いた。
「いいのいいの、おねぇさんが取り分けてあげるから。こんな美人な女性に取り分けてもらえるのなんて滅多にないわよ?」
料理を切り分けた一つがリントの前に差し出され、もう一枚を自分の元に残した。
「はい、どーぞ」
「……ありがとうございます」
リントは目の前に取り分けられた料理を見つめている。
「ふふ。じゃぁ、食べよっか」
「はい、いただきます……ミレイユさん、こっちが鶏肉のやつですか?」
「そう、鶏肉のやつよ。それでそっちのお皿が牛肉のやつね」
嬉しそうに返してから、ミレイユは空になったグラスへ目をやった。
ちょうど近くを通った店員に手を上げる。
「すみません。さっきの、ボトルでお願いします」
リントはフォークを止めた。
「もう二杯目ですか?」
「そうだけど?どうしたの?」
ミレイユは自分の空いたグラスを見た。
それから、リントのまだほとんど減っていないグラスを見る。
「いや、いつものミレイユさんとイメージが違うなって……」
「なあに、あたしの事どんな風にイメージしてたのかなあ?」
ミレイユは笑いながら、空いたグラスの縁を指先でなぞった。
「冒険者にあれこれ言ってるか、仕事してるか……俺が行くと、だいたい依頼のこと聞かれるか、何か言われるかしてるんで」
「まあ、仕事だから……それと、あれこれってなによ」
「いや……受付にいるミレイユさんしか知らないんで。だから……今日みたいなのは、初めて見るなって」
「そういえば、そうね」
リントの目が、彼女の手元へ落ちる。
「こんなに飲む人だとも思ってなかったです」
「そこに戻るの?」
ミレイユが笑ったところへ、頼んでいたボトルが運ばれてきた。
鶏肉の隣には、牛肉の赤ワイン煮が取り分けられている。名前だけではほとんど想像できなかった料理だったが、濃い色のソースをまとった肉は、フォークを入れると簡単に崩れた。
一口食べる。
「……あ、これ美味しい。なんか色んな味がしますね。思ってたのと全然違いました」
「何が出てくると思ってたの?」
「赤ワインっていうくらいだから……もっと赤いのかと。」
ミレイユの手が止まり、すぐに笑い声がこぼれた。
「だって、赤って書いてあるじゃないですか」
「そうだけど……ふふっ、そういう意味じゃないのよ」
まだ笑っているミレイユを横目に、リントはもう一口食べた。
それから料理がなくなるまでに、それほど時間はかからなかった。
途中でリントのグラスも空き、店員が空いた皿を下げていく頃には、ミレイユの前に四杯目の空いたグラスが残っていた。
「……ミレイユさん」
「んー?」
「結構飲みましたね」
「そう?」
「はい。……でも、あんまり変わらないですね」
「なあに、それ。もっとうわぁーってなると思った?」
ミレイユは笑いながら、ボトルへ手を伸ばした。
「なんていうか、それだけ飲んだらもっとこう……酔っぱらうのかと」
「酔ってるわよ?」
「そうなんですか?」
「そうよ」
言い切ってから、ミレイユはグラスを持ち上げた。
リントは向かいの顔を見る。
話し方はいつもと変わらない。目もしっかりしている。
酔っていると言われても、よく分からない。
ただ、さっきからよく笑っている。
それに――。
「……なんでそんなに見てるの? やっぱり美人だから見とれちゃう?」
「何言ってんですか、ミレイユさんが……酔ってるって言うから」
「ふふ。じっくり見ても分かんない?」
「じっくりって……。すみません」
「なに謝ってるのよ」
ミレイユは二口で飲み干し、今度はリントの方を見ていた。
先に目を逸らしたのは、リントだった。
卓の上には、もう料理も取り皿もない。
残っているのは二人のグラスと、ミレイユの前に置かれたボトルだけだった。
それからしばらく、取り留めのない話をしながら酒だけが減っていった。
リントが気づいた時には、二本目の中身もずいぶん少なくなっている。
「それ、絶対ホルトさん怒ってたでしょ」
「怒ってたわよ。あの顔でずーっと黙ってるの」
空いたグラスへ酒を注ぎながら、笑っている。
向かいのミレイユは、さっきより深く椅子へ身体を預けていた。
――それから、どれくらい経ったのか。
気づけば、店に入った頃より客の数が減っていた。
近くの卓では食事を終えた客が席を立ち、店員が空いた皿を重ねて運んでいる。
「それでねぇ、あの人ったら――」
さっきから話している内容も、少し長くなった。
同じところで二度笑い、自分で言ったことにまた笑っている。
頬杖をついたままこちらを見る時間も、長くなった気がする。
「ねえ、リントくん」
「はい」
「さっきから、はい、ばっかりね」
「そうですか?」
「そうよぉ」
語尾が、少しだけ長い。
リントは黙ってミレイユを見た。
「……なんでそんなに見るのぉ?」
「いや……」
「ふぅん」
何がおかしいのか、ミレイユはまた笑った。
そのまま手元のグラスを口元へ運び、残っていた酒を飲み干す。空いたところへボトルを傾けたが、グラスには何も落ちなかった。
「あれ?」
もう一度、今度は少し大きく傾ける。
ミレイユはボトルの底を覗き込むようにしてから、首を傾げた。
「……ない」
「それだけ飲んだら、もうないですよ」
「もう一本あったのに……」
「そのもう一本が、それですよ」
言われたミレイユは、手にしたボトルをしばらく眺めていた。
リントが背もたれに寄りかかりながら笑う。
やがて納得したらしく、「……ほんとだ」と小さく呟いて卓へ戻す。
さっきまで何かしら置かれていた卓の上には、二人の空いたグラスだけが残っている。
店に入った頃より、近くの席から聞こえてくる声も少なくなっていた。
「……そろそろ、帰りますか」
口にしてからも、リントはすぐには立たなかった。
向かいでは、ミレイユがまだ空のボトルを眺めている。
「そうねぇ」
その返事を聞いて、ようやくリントは椅子を引いた。
ミレイユも立ち上がり、椅子の背へ上着を掛けたままだったことに気づいて取り上げる。そのまま鞄へ手を入れ、何かを探し始めた。
「楽しませてもらったし、今日はあたしが払うからね」
「なんでですか、誘ったの俺ですからいいですよ」
「だあめ。こういう時くらい、ミレイユさんに任せなさい」
言いながら、まだ鞄の中を探している。
一度中を覗き込み、反対の手まで入れたところで動きが止まった。
「……あれ?」
「財布ですか?」
「そう。どこ入れたっけ……あれぇ?」
「代金ですか?さっきもう払ってもらいましたよ」
「え?」
ミレイユが顔を上げた。
「ほら、さっき払ってくれたじゃないですか」
少しの間、こちらを見ている。
リントはおかしそうに笑っている。
「……そうだっけ?」
「そうですよ、外冷えるので上着着て下さい」
リントが頷くと、ミレイユはしばらく考えていたものの、やがて「そっか」とあっさり鞄から手を抜いた。
「じゃあ帰ろっか」
「先に外で待っててください」
「なんで?」
「忘れ物ないか見てから行きます」
「あぁ、リントくん忘れ物しちゃだめよ?明日とりにこないとだめだからね?」
そう言いながら、ミレイユは素直に上着へ腕を通し、先に扉へ向かった。
その背中が外へ出たのを見届けてから、リントは二人分の代金を払い終え、受け取った釣りをしまう。
扉へ向かいながら一度だけ振り返ると、長く座っていた卓はもう片づけられ始めていた。
外へ出る。
扉が閉じた途端、冷えた夜気が頬に触れた。
店に入った頃とは通りの様子も変わっている。開いている店はまばらになり、行き交う人の数もずいぶん減っていた。
少し先で待っていたミレイユが、大きく息を吸った。
「あー……気持ちいい」
吐いた息と一緒に肩の力まで抜けたように見える。
リントが隣へ並ぶと、ミレイユはそのまま歩き出した。
数歩進んだところで、歩幅が一度だけずれる。
それでも本人は気にした様子もなく進んでいく。
「ミレイユさん、そっち行くとぶつかりますよ」
「分かってるわよぉ」
返事をした直後、今度は通りの端へ寄りすぎた。
リントは反射的に手を伸ばした。
触れる寸前で、その手が止まる。
肩へ置けばいいのか、腕を支えればいいのか。その一瞬を迷っている間に、ミレイユは自分で体勢を戻した。
こちらを見る。
「……何してるの?」
「いや、危ないから」
「じゃあ支えてくれればいいじゃない」
「そうなんですけど」
「そうなんですけどお?」
ミレイユが顔を覗き込む。
言われても、その先が出てこなかった。
少し待ってから、彼女はふっと笑った。
「今日楽しかったね」
「……ええ、楽しかったですね」
「ね!楽しかったね」
笑いながらまた歩き始めたミレイユが、今度はさっきより少しだけ近いところへ戻ってくる。
その肩が腕へ触れそうになる。
しばらく二人で夜道を進んだ。
小さな広場へ差しかかったところで、隣を歩いていたミレイユの足が止まる。
中央に低い噴水があり、その脇には誰も座っていない木のベンチがあった。
ミレイユはそこを見てから、リントへ顔を向ける。
「ねぇ……ちょっと、休んでいい?」
「いいですよ、大丈夫ですか」
ミレイユは返事の代わりにベンチへ向かい、その端へ腰を下ろすと、背もたれへ身体を預けた。
リントも隣まで行き、少し間を空けて座った。
噴水から水の落ちる音が続いていた。
ミレイユは人気のなくなった広場をぼんやり眺めていた。
しばらくして、隣から小さく息を吐く音がした。
「今日はありがとね」
「……何がです?」
「誘ってくれて」
「……俺が誘ったんですから、そんな」
「そういうのじゃなくて」
リントは隣を見る。
ミレイユは座った時からほとんど姿勢を変えず、前を向いていた。
「あたし、楽しかったよ」
「何ですか改まって……さっきも言ってましたよ」
リントが笑うと、ミレイユも小さく笑った。
「いいじゃない。何回言ったって。リントくんも楽しかったんでしょ?」
「はい。それは……楽しかったです」
「じゃあ、よかった」
それきり、しばらく二人とも何も話さなかった。
噴水から落ちた水が、同じ音を繰り返している。
「……ミレイユさん」
「んー?」
「俺も、今日誘ってよかったって思ってます」
ミレイユがゆっくりと顔を向けた。
「そりゃそうよ、あたしと食事できたんだから当然よ」
「また、自分でそんなこと言って」
「ひどい、リントくんはそう思ってくれないんだ……」
「いや、そういう意味じゃないですよ」
「じゃあ、どういう意味?」
「……そうやって聞くのずるくないですか?」
「なにが?」
ミレイユは知らない顔をしている。
いつの間にか身体も少しだけこちらへ向いていた。頬にはまだ酒の赤みが残っている。
「ミレイユさん、絶対分かってますよね」
「さあ?」
それ以上は答えず、ミレイユはじっとこちらを見ている。
先に耐えられなくなったのは、ミレイユの方だった。口元が崩れ、そのまま笑い声が漏れる。
「ふふっ、ごめん。もうやめる」
「そういうとこ悪いとこですよ、皆その気になるんですから」
「あら、あたしのせいなの?」
「そうですよ。そうやって分かってるくせに聞くじゃないですか」
「ふぅん。じゃあ気をつけよっかな」
「絶対思ってないでしょ」
今度は隠そうともせず、ミレイユが笑った。ひとしきり笑って、ようやく声が静かになる。
「でも、ほんとに楽しかったわよ」
「それならよかったです。まぁ、店選びから失敗しましたけど」
「最初のお店」
一瞬だけ間があった。
「あれ……やっぱりバレてましたか。何も言わないから、気づいてないのかと」
「バレるも何も、あたし隣にいたのよ? 一生懸命探してたから、言わないであげたの」
「余計に恥ずかしいじゃないですか!」
ミレイユは楽しそうに笑いながら、肩を揺らした。
「ほんとはあそこに入るつもりだったんでしょ?」
「いや……いつも行ってる店だったんで。店選ぶのとか分からなくて」
「ああ、やっぱり」
店の前で足を止めた時から、ミレイユは何も言わなかった。
次の店を覗いても、その次へ向かっても、ただ隣を歩いていた。
「だって、あのあとずっとお店の中見てたじゃない。しかもすごい真剣な顔してるんだもん」
「……ずっと見てたんですね」
「いいのよ、リントくんはそれで」
ミレイユはまた笑った。
今度はリントも言い返さず、肩の力を抜いた。しばらく待ってみても隣の笑い声は止まらない。
「……もういいです」
「ふふっ、ごめんって」
ようやく笑いが収まると、ミレイユは目元を軽く拭った。
かわりにリントの口元には、笑みが浮かぶ。
「でも、リントくんってああいうの慣れてないのね。誰かと食事に行ったりしないの?」
「誰と行くんですか。いませんよ」
「昔も、そういう人いなかったの?」
「いや……昔、ちょっとだけそんな時間はありましたね」
「……そっか」
それきり会話が途切れた。
さっきまで続いていた笑いの名残が、まだ少しだけリントの頬に残っている。
ミレイユは何も続けなかった。
少しして、隣から声がした。
「嫌なこと聞いちゃったかな。ごめんね」
リントはすぐには答えなかった。
膝の上で組んでいた手を一度ほどいて、また組み直す。
「……その時間、好きだったんですよ」




