第20話「帰るための嘘」
前回のあらすじ
グランツハイム領西部の鉄鉱山で、崩落の先に見つかった空洞を調査するリントたち。
ヴェルナは人工的に整えられた壁面に残る継ぎ目や刻印を調べ、その一部が術式記号に似ていることを確認する。一方、周囲を調べていたダレンたちは、壁面を使って移動する魔物の爪痕を発見。安全を優先し、一行は調査を切り上げることになった。
しかし、戻る途中でサブテラーと遭遇。
二体目がヴェルナへ迫った瞬間、リントは異常な速さでその間へ飛び込み、彼女を守るように戦う。
やがてダレンたちが戦闘を引き継いだ後も、リントはサブテラーから意識を切ることができず、その右目の脇には黄白い電光まで漏れ始めていた。
ヴェルナに名前を呼ばれたことでようやく我に返り、一行は全員無事に鉱山を脱出する。
そしてシルヴァハイムへ戻り、今日の仕事を終えて帰ろうとしたリントを、ヴェルナが呼び止めた。
「……少し、お話ししたいことがあります」
「……少し、お話ししたいことがあります」
「分かりました」
リントが入口へ向けていた足を戻す。
ヴェルナはその場で話し始めようとしたものの、受付の方から冒険者の笑い声が上がると、そちらを振り返った。報告を終えた者、これから夜の依頼へ向かう者。二人の横を、職員が書類の束を抱えて通り過ぎていく。
「……ここだと、少し話しづらいですね」
「場所、変えますか?」
「そうですね。私も宿へ戻るところですし……歩きながらでもいいですか?」
外はもう夕暮れを過ぎかけていた。冷えた風が通りを抜け、店先には夕食の支度を始めた匂いが混じっている。
ヴェルナの宿は、ここから歩いてそれほど遠くない。
「今回の依頼は、疲れましたね」
先にそう言ったのはヴェルナだった。
「ですね。でもあっという間だった気がします」
鉱山へ入った時には、古い空間を調べて帰ってくるだけだと思っていた。結局、魔物とも戦い、鉱山を出てからも帰路の警戒が続いた。
ヴェルナも疲れているはずだった。
それでも隣を歩く足取りは普段と大きく変わらない。革鞄を両手で抱えるように持っているのは、鉱山へ向かう前から同じだった。
「ダレンさんたちも、もう帰ったでしょうか」
リントも、たぶんそうだろうと思った。
帰り道でも最後まで周囲を見ていたダレンの姿が浮かぶ。
隣で、ヴェルナがふっと笑った。
向かいから荷車が近づいてくると、リントは道の端へ寄った。ヴェルナもその隣へ入り、二人のすぐ横を車輪が軋みながら通り過ぎていく。
再び通りへ戻っても、ヴェルナはさっきの続きを話さなかった。
リントも聞かなかった。
――今日のリントさん、少しだけ……いつもと違いました。
鉱山で聞いた声が、もう一度すぐそばで聞こえた気がした。
気づけば、歩幅がさっきより少し広くなっている。
一歩遅れていたヴェルナの足音が後ろへずれ、リントはそれに気づき速度を落とした。
腰の剣帯に手をやり、ずれてもいない留め具を一度押さえる。
「リントさん」
「はい」
「鉱山での戦闘なんですけど」
剣帯に触れていた指が止まった。
隣から続く言葉を待ちながら、リントは前に伸びる道だけを見ていた。
「サブテラーが私の方へ来た時……。リントさんの動きの速さ。私とのあの距離を、一瞬で詰めましたよね。……どうやったんですか?」
剣帯にかかっていた手が、ようやく離れた。
「……ああ、あれですか。身体の中で、魔力を回したんです」
「……身体の中で?」
「はい。外には出さないで、そのまま……何ていうか中を巡らせます」
「中を? 魔法には、しないんですか?」
「しないです」
「それで、あの速さまで?」
「そうですね。速さだけじゃなくて、力も反応も上がります」
眉間へ薄く皺を寄せたまま、ヴェルナはまだ何か考えている。
いつもなら、必要なことを答えれば会話はそこで終わる。次に何を聞かれるのかを待つこともなかった。
けれどヴェルナは、まだ考えている。
そう思いながらその横を歩いていると、宿までの道がさっきより短く感じた。
「それって、何度でもできるんですか?」
考えていたヴェルナが、ようやく次を聞いた。
「何度でもは無理ですね。一、二回なら大丈夫ですけど、重ねると身体の方がもたなくなります」
「どのくらいまで?」
「前にやりすぎた時は、拳を握るだけでも激痛でした。……ほとんど動くことはできなくなりますね」
最後だけ、リントは笑った。
ヴェルナは何も返さず、その手元へ目を落とした。今は何事もなかったように、歩くたび腰のそばで揺れている。
通りの端では、店じまいを始めた男が木箱を重ねていた。持ち上げられた箱の底が石畳を擦り、乾いた音を立てる。
「それ、かなり危ないですよね」
「そこまで行く前には止めるようにしてます」
「……前にも、何度か?」
「ありますよ。今は加減も分かってますけど」
リントはいつもの調子で答え、そのまま歩いていく。
「最初から、今みたいな使い方だったんですか?」
「いえ。元は、魔力を落ち着かせるための――」
言葉の途中で、リントが黙った。
ヴェルナはそのまま一歩進んでから、隣を見た。
「……?」
「魔力を扱いやすくするための方法です。そこから、自分で使ってるうちに今みたいになりました」
「そう、なんですね」
ヴェルナはそのまま歩きながら続けた。
「昔から、そうやって魔力を使っていたんですか?」
「そうですね。もう長いです」
「その方法は、ご自身で考えたんですか?」
「いえ。昔、魔力の扱い方を教えてくれた人がいて。その人から教わったものを、自分なりに変えました」
「その方も、同じように魔力を?」
「いえ。俺とは違いました。ただ、扱い方を教えてもらっただけです」
「今その方は……?」
言葉にしてから、ヴェルナの声がわずかに弱くなった。
リントは前を向いたまま歩いている。
「もう、いません」
それ以上は続かなかった。
石畳を踏む靴音に、もう一つの足音が重なる。
「……すみません」
「いえ。もう、ずいぶん前のことですから」
返ってきた声は、さっきまでと変わらない。
ヴェルナは何か言いかけたものの、そのまま口を閉じた。
しばらくは、二人とも何も話さなかった。
通りを半ばほど進んだところで、リントの方から口を開く。
「それに、誰かと組むこともほとんどなかったので。こういう話をする機会もなかったんですよ。」
ヴェルナの足が止まりかけた。
夕暮れの通りを行く人の間で、リントの背中がほんの少し遠くなる。
隣に並んでも、リントは前を向いたままだった。
「……そうだったんですね」
「はい」
少し先では、宿の並ぶ通りに灯りが点き始めていた。
ヴェルナはしばらく何も言わなかった。
さっきまで両手で抱えていた革鞄は、いつの間にか片腕に掛けられている。
「……やっぱり、気になります」
「さっきのですか?」
「はい。魔力を外へ出さずに、身体の中で巡らせるっていう使い方が」
言いながら、ヴェルナはまた黙り込んだ。
人工壁の前でも、資料を読んでいた時でも、こうなるとしばらく戻ってこない。
リントは隣を歩きながら、その横顔を見ていた。
「ローズベルグ家にも、魔力の制御についての資料があるんです」
少しして、ヴェルナが言った。
「同じものかは分かりません。でも……今のお話を聞いていたら、確認してみたくなって」
「そんな資料もあるんですね」
「祖父や父が集めたものが、かなり残っていますから」
そこまで答えてからも、ヴェルナの視線はまだどこか遠い。
通りの角を曲がると、風に乗って焼いた肉の匂いが流れてきた。店の前に置かれた立て看板を避けるため、二人とも少しだけ内側へ寄る。
「また、聞いてもいいですか?」
「俺に分かることなら」
「ありがとうございます」
ヴェルナはまた何かを考えながら歩いている。
リントもしばらく黙って隣を歩き、それから声をかけた。
「話って、このことですか?」
「それも、気になっていたことの一つです」
角を曲がった先は、さっきまでより人通りが少ない。宿へ戻るらしい旅人とすれ違うほかは、通りの声も遠くなっていた。
「リントさんって、戦っている時もあまり慌てないですよね」
「そうですか?」
「はい。周りをよく見ていますし、危ない時ほど落ち着いているというか……」
言いながら、ヴェルナは少し考える。
「森へ調査に行った時も、今回の鉱山へ入ってからも、ずっとそう見えていました。でも……、今日は少し違って見えたんです」
ヴェルナの声が途切れた。
「……何か、ありましたか?」
リントはすぐには答えなかった。
冷たい風が頬を撫でていく。
視界の端には、灯り始めた店や行き交う人の姿がある。それなのに、どれも輪郭だけがぼんやりと流れていくようで、すぐ隣にいるヴェルナの声だけが妙にはっきり残っていた。
「……いえ」
ようやく口を開く。
「あの時は、ヴェルナ様の方へ来るのが見えたので。止めないと、ってことしか考えてなかったんだと思います」
「そう、ですか」
「はい。すみません。自分でもあんまり覚えてなくて」
どこかで扉の閉まる音がした。
普段なら気にも留めないはずの音が、やけに大きく通りへ響いた気がした。
「……もう一つだけ、いいですか?」
「……はい」
今度は、返事をしてから少し間が空いた。
「私の見間違いかもしれないんですけど……。リントさんの周りに、魔力が滲んでいるように見えたんです。魔法を使っていた時とは、少し違って見えました。本当に一瞬だけだったので、はっきりとは言えないんですけど……」
ヴェルナの声はすぐ隣から聞こえている。
「……そうですか」
声は思ったより普通に出た。
「すみません。あの時は夢中でしたから」
隣から向けられている視線だけが分かる。
「……気にならないんですか?」
リントはそこで初めて、ヴェルナを見る。
「何がです?」
「魔力が、自分の意思とは関係なく外へ出ていたかもしれないんですよね」
「そうですね」
それだけ答えると、また前を向いた。
ヴェルナはしばらくリントの横顔を見ていた。
「……私も戦っていましたし、気のせいかもしれませんね」
「そうかもしれませんね」
リントはそれ以上、確かめようとはしなかった。
しばらく歩いてから、先に口を開く。
「でも、ほんとに皆無事でよかったです」
「……そうですね」
「ダレンさん、強かったですね。あの狭いところでも全然動きが鈍らなかったですし」
「ええ。最後まで周囲を見ていましたね」
「帰りもずっとそうでしたよ。俺なら、鉱山を出たところで少しくらい気が抜けてたかもしれません」
ヴェルナも何か返そうとして――やめた。
少し先で、宿の並ぶ通りへ続く角が見えてくる。
「グランツの人たちも、皆いい人でした。調査は途中になりましたけど、あそこで戻って正解だったと思います」
「……そうですね」
今度は、リントの方から次の言葉が出てこなかった。
「リントさん」
「はい」
返事はすぐだった。
「さっきの話なんですけど」
「……はい」
ヴェルナは少しだけ待ってから、口を開く。
「魔力が外へ出ていたかもしれない、という話です」
「はい」
「本当に、今まで一度も?」
リントは答えずに歩いた。
通りの先では、宿の看板に灯りが入っている。ここへ来た時にはまだ遠かった文字も、今はもう読めるところまで近づいていた。
「……たぶん、ないと思います」
「たぶん?」
「自分では見えないですから」
それはそうなのだけれど。
ヴェルナは口にせず、隣を歩くリントを見る。
「誰かに言われたことも?」
「ないですね」
「……そうですか」
「まあ、一人でいることが多かったので。出てても気づかなかっただけかもしれませんけど」
今度は、ヴェルナの足が止まらなかった。
「それなら」
「はい」
「これからは、分かるかもしれませんね」
リントが隣を見る。
ヴェルナは前を向いていた。
「私が一緒にいる時なら、ですけど」
リントは少し遅れて、
「……そうですね」
それだけだった。
宿の看板は、もうすぐそこまで来ていた。
ヴェルナはそれを見上げたが、そのまま入口へは向かわなかった。
「……もう一つ、聞いてもいいですか?」
「はい」
今度は、すぐに次の言葉が続かなかった。
「ダレンさんが、ここは任せろって言った時のことなんですけど」
リントの視線が、宿の扉から外れた。
「……はい」
「あの時、リントさん、一度剣を下ろしましたよね」
鉱山の奥で聞いた声が蘇る。
――リント、ここは任せろ!
振り下ろされていた剣を止めた。
そこまでは覚えている。
「でも、そのあと……戻りませんでした」
リントは何も言わなかった。
宿の軒先から漏れる灯りが、石畳の上まで伸びている。二人はその少し手前で足を止めた。
「私が名前を呼んだら、振り返ってくれました」
「……はい」
「だから、あの時……。私が呼ばなかったら、どうしてたのかなって」
リントの目が、わずかに動いた。
「……分かりません」
ようやく出た答えだった。
「たぶん、ダレンさんがもう一度呼んでくれたと思います」
「そうかもしれません」
「それか、隊長が」
「リントさん」
「だから――」
「私が聞きたいのは、そこではなくて……」
リントは何か返そうとしたものの、そのまま口を閉じた。
「……すみません」
「謝ってほしいわけじゃないんです」
ヴェルナの声は穏やかだった。
「私も、あの時は自分で戦うつもりでした。危険だったことも分かっています」
「はい」
「でも、リントさんが間に入ってきた時……少し驚きました」
リントが顔を上げる。
「森でも助けてもらいましたし、今回も護衛をお願いしていましたから。守ってもらったことが嫌だったわけではないんです」
「……はい」
「ただ」
ヴェルナの指が、片腕に掛けた革鞄の持ち手へ触れた。
握り直すことはせず、そのまま離れる。
「リントさんの方が、危ないように見えました」
風が通りを抜けた。
「俺は……」
鉱山で、サブテラーがヴェルナへ向きを変えた瞬間が浮かぶ。
「……あの時は」
そこから先が続かなかった。
「俺も、分からないです」
ヴェルナが隣を見る。
「止めないとって思ったのは覚えてます。でも……、分からないです」
二度目は、さっきより小さかった。
「そうですか」
ヴェルナはそれだけ返した。
「すみません」
「だから、謝らなくていいです」
「……はい」
ヴェルナは宿の入口へ目を向けた。
それでも、扉へは向かわなかった。
「……リントさん。このあと、もう少しだけお時間いただいてもいいですか?」
「まだ、何か?」
「あります」
迷うより先に返ってきた声に、リントはそのまま続きを待った。
「魔力のことも、もう少し聞きたいですし……今日のことも、まだ気になっています」
中では、すでに夕食が始まっているらしい。人の話し声に混じって食器の触れ合う音が聞こえ、開いた扉の向こうを給仕が何度か行き来している。
「立ったままというのも変ですから……よかったら、中で食事をしながらでも」
リントは開いた扉の向こうへ目を向けた。
このまま入れば、さっきの話の続きになるのだろう。ヴェルナがまた何かを聞いて、そのうち料理が来る。
食べ始める頃には、きっと別の話をしている。
リューデンでも、そうだった。
「……リントさん?」
返事を待つ声に、リントはヴェルナを見た。
その顔に、鉱山で見たヴェルナの姿が重なった。
「……すみません。今日は少し疲れたので帰ります」
「……そうですか」
ヴェルナはそれ以上勧めず、宿の入口へ目を向けた。ちょうど中から出てきた客と入れ違うように扉が開き、暖かな明かりが二人の足元まで伸びてくる。
「また、断られてしまいましたね」
「え?」
「いえ。今日はゆっくり休んでください」
「……はい」
「でも、今日お話ししたことは……また聞かせてください」
「魔力のことですか?」
「それもです」
リントは次の言葉を待ったが、ヴェルナはそれ以上続けなかった。
「……分かりました」
ようやくヴェルナが宿へ向き、リントも帰るため通りへ足を向ける。
そのまま何歩か進んだところで、背中から名前を呼ばれた。
「リントさん」
振り返ると、ヴェルナはまだ入口の外に立っている。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい、ヴェルナ様」
リントはその姿が扉の向こうへ消えるより先に、再び歩き始めた。
通りにはまだ人がいた。
店先から声が漏れ、すれ違う誰かの話し声に、どこかで鳴った食器の音が重なる。
どれも耳には入っていた。けれど、少し歩けばもう残っていない。
また、サブテラーの向こうにいたヴェルナが浮かぶ。
その姿が消えないまま、今度は別の光景が重なった。
ギルドの裏手にある長椅子。
隣に座っていたミレイユへ、自分から口にした言葉。
――今度……ごはん行きませんか。
自分から言った言葉だった。
今なら、まだ――
リントは考えることを、やめた。




