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ソフィアレコード ―傷跡の先に、世界は眠る―  作者: 長月あい
第一章 帰りを待つ人

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第20話「帰るための嘘」

前回のあらすじ


グランツハイム領西部の鉄鉱山で、崩落の先に見つかった空洞を調査するリントたち。


ヴェルナは人工的に整えられた壁面に残る継ぎ目や刻印を調べ、その一部が術式記号に似ていることを確認する。一方、周囲を調べていたダレンたちは、壁面を使って移動する魔物の爪痕を発見。安全を優先し、一行は調査を切り上げることになった。


しかし、戻る途中でサブテラーと遭遇。


二体目がヴェルナへ迫った瞬間、リントは異常な速さでその間へ飛び込み、彼女を守るように戦う。


やがてダレンたちが戦闘を引き継いだ後も、リントはサブテラーから意識を切ることができず、その右目の脇には黄白い電光まで漏れ始めていた。


ヴェルナに名前を呼ばれたことでようやく我に返り、一行は全員無事に鉱山を脱出する。


そしてシルヴァハイムへ戻り、今日の仕事を終えて帰ろうとしたリントを、ヴェルナが呼び止めた。


「……少し、お話ししたいことがあります」


「……少し、お話ししたいことがあります」


「分かりました」


リントが入口へ向けていた足を戻す。


ヴェルナはその場で話し始めようとしたものの、受付の方から冒険者の笑い声が上がると、そちらを振り返った。報告を終えた者、これから夜の依頼へ向かう者。二人の横を、職員が書類の束を抱えて通り過ぎていく。


「……ここだと、少し話しづらいですね」


「場所、変えますか?」


「そうですね。私も宿へ戻るところですし……歩きながらでもいいですか?」


外はもう夕暮れを過ぎかけていた。冷えた風が通りを抜け、店先には夕食の支度を始めた匂いが混じっている。


ヴェルナの宿は、ここから歩いてそれほど遠くない。


「今回の依頼は、疲れましたね」


先にそう言ったのはヴェルナだった。


「ですね。でもあっという間だった気がします」


鉱山へ入った時には、古い空間を調べて帰ってくるだけだと思っていた。結局、魔物とも戦い、鉱山を出てからも帰路(きろ)の警戒が続いた。


ヴェルナも疲れているはずだった。


それでも隣を歩く足取りは普段と大きく変わらない。革鞄(かわかばん)を両手で抱えるように持っているのは、鉱山へ向かう前から同じだった。


「ダレンさんたちも、もう帰ったでしょうか」


リントも、たぶんそうだろうと思った。

帰り道でも最後まで周囲を見ていたダレンの姿が浮かぶ。

隣で、ヴェルナがふっと笑った。


向かいから荷車が近づいてくると、リントは道の端へ寄った。ヴェルナもその隣へ入り、二人のすぐ横を車輪が軋(きし)みながら通り過ぎていく。


再び通りへ戻っても、ヴェルナはさっきの続きを話さなかった。

リントも聞かなかった。


――今日のリントさん、少しだけ……いつもと違いました。


鉱山で聞いた声が、もう一度すぐそばで聞こえた気がした。

気づけば、歩幅がさっきより少し広くなっている。

一歩遅れていたヴェルナの足音が後ろへずれ、リントはそれに気づき速度を落とした。


腰の剣帯(けんたい)に手をやり、ずれてもいない留(と)め具を一度押さえる。


「リントさん」


「はい」


「鉱山での戦闘なんですけど」


剣帯に触れていた指が止まった。

隣から続く言葉を待ちながら、リントは前に伸びる道だけを見ていた。


「サブテラーが私の方へ来た時……。リントさんの動きの速さ。私とのあの距離を、一瞬で詰めましたよね。……どうやったんですか?」


剣帯にかかっていた手が、ようやく離れた。


「……ああ、あれですか。身体の中で、魔力を回したんです」


「……身体の中で?」


「はい。外には出さないで、そのまま……何ていうか中を巡らせます」


「中を? 魔法には、しないんですか?」


「しないです」


「それで、あの速さまで?」


「そうですね。速さだけじゃなくて、力も反応も上がります」


眉間(みけん)へ薄く皺(しわ)を寄せたまま、ヴェルナはまだ何か考えている。


いつもなら、必要なことを答えれば会話はそこで終わる。次に何を聞かれるのかを待つこともなかった。


けれどヴェルナは、まだ考えている。

そう思いながらその横を歩いていると、宿までの道がさっきより短く感じた。


「それって、何度でもできるんですか?」


考えていたヴェルナが、ようやく次を聞いた。


「何度でもは無理ですね。一、二回なら大丈夫ですけど、重ねると身体の方がもたなくなります」


「どのくらいまで?」


「前にやりすぎた時は、拳を握るだけでも激痛でした。……ほとんど動くことはできなくなりますね」


最後だけ、リントは笑った。


ヴェルナは何も返さず、その手元へ目を落とした。今は何事もなかったように、歩くたび腰のそばで揺れている。


通りの端では、店じまいを始めた男が木箱を重ねていた。持ち上げられた箱の底が石畳を擦(こす)り、乾いた音を立てる。


「それ、かなり危ないですよね」


「そこまで行く前には止めるようにしてます」


「……前にも、何度か?」


「ありますよ。今は加減も分かってますけど」


リントはいつもの調子で答え、そのまま歩いていく。


「最初から、今みたいな使い方だったんですか?」


「いえ。元は、魔力を落ち着かせるための――」


言葉の途中で、リントが黙った。

ヴェルナはそのまま一歩進んでから、隣を見た。


「……?」


「魔力を扱いやすくするための方法です。そこから、自分で使ってるうちに今みたいになりました」


「そう、なんですね」


ヴェルナはそのまま歩きながら続けた。


「昔から、そうやって魔力を使っていたんですか?」


「そうですね。もう長いです」


「その方法は、ご自身で考えたんですか?」


「いえ。昔、魔力の扱い方を教えてくれた人がいて。その人から教わったものを、自分なりに変えました」


「その方も、同じように魔力を?」


「いえ。俺とは違いました。ただ、扱い方を教えてもらっただけです」


「今その方は……?」


言葉にしてから、ヴェルナの声がわずかに弱くなった。

リントは前を向いたまま歩いている。


「もう、いません」


それ以上は続かなかった。

石畳を踏む靴音に、もう一つの足音が重なる。


「……すみません」


「いえ。もう、ずいぶん前のことですから」


返ってきた声は、さっきまでと変わらない。

ヴェルナは何か言いかけたものの、そのまま口を閉じた。


しばらくは、二人とも何も話さなかった。

通りを半ばほど進んだところで、リントの方から口を開く。


「それに、誰かと組むこともほとんどなかったので。こういう話をする機会もなかったんですよ。」


ヴェルナの足が止まりかけた。

夕暮れの通りを行く人の間で、リントの背中がほんの少し遠くなる。

隣に並んでも、リントは前を向いたままだった。


「……そうだったんですね」


「はい」


少し先では、宿の並ぶ通りに灯りが点き始めていた。

ヴェルナはしばらく何も言わなかった。

さっきまで両手で抱えていた革鞄は、いつの間にか片腕に掛けられている。


「……やっぱり、気になります」


「さっきのですか?」


「はい。魔力を外へ出さずに、身体の中で巡らせるっていう使い方が」


言いながら、ヴェルナはまた黙り込んだ。

人工壁の前でも、資料を読んでいた時でも、こうなるとしばらく戻ってこない。

リントは隣を歩きながら、その横顔を見ていた。


「ローズベルグ家にも、魔力の制御についての資料があるんです」


少しして、ヴェルナが言った。


「同じものかは分かりません。でも……今のお話を聞いていたら、確認してみたくなって」


「そんな資料もあるんですね」


「祖父や父が集めたものが、かなり残っていますから」


そこまで答えてからも、ヴェルナの視線はまだどこか遠い。


通りの角を曲がると、風に乗って焼いた肉の匂いが流れてきた。店の前に置かれた立て看板を避けるため、二人とも少しだけ内側へ寄る。


「また、聞いてもいいですか?」


「俺に分かることなら」


「ありがとうございます」


ヴェルナはまた何かを考えながら歩いている。

リントもしばらく黙って隣を歩き、それから声をかけた。


「話って、このことですか?」


「それも、気になっていたことの一つです」


角を曲がった先は、さっきまでより人通りが少ない。宿へ戻るらしい旅人とすれ違うほかは、通りの声も遠くなっていた。


「リントさんって、戦っている時もあまり慌てないですよね」


「そうですか?」


「はい。周りをよく見ていますし、危ない時ほど落ち着いているというか……」


言いながら、ヴェルナは少し考える。


「森へ調査に行った時も、今回の鉱山へ入ってからも、ずっとそう見えていました。でも……、今日は少し違って見えたんです」


ヴェルナの声が途切れた。


「……何か、ありましたか?」


リントはすぐには答えなかった。


冷たい風が頬を撫(な)でていく。


視界の端には、灯り始めた店や行き交う人の姿がある。それなのに、どれも輪郭(りんかく)だけがぼんやりと流れていくようで、すぐ隣にいるヴェルナの声だけが妙にはっきり残っていた。


「……いえ」


ようやく口を開く。


「あの時は、ヴェルナ様の方へ来るのが見えたので。止めないと、ってことしか考えてなかったんだと思います」


「そう、ですか」


「はい。すみません。自分でもあんまり覚えてなくて」


どこかで扉の閉まる音がした。

普段なら気にも留めないはずの音が、やけに大きく通りへ響いた気がした。


「……もう一つだけ、いいですか?」


「……はい」


今度は、返事をしてから少し間が空いた。


「私の見間違いかもしれないんですけど……。リントさんの周りに、魔力が滲(にじ)んでいるように見えたんです。魔法を使っていた時とは、少し違って見えました。本当に一瞬だけだったので、はっきりとは言えないんですけど……」


ヴェルナの声はすぐ隣から聞こえている。


「……そうですか」


声は思ったより普通に出た。


「すみません。あの時は夢中でしたから」


隣から向けられている視線だけが分かる。


「……気にならないんですか?」


リントはそこで初めて、ヴェルナを見る。


「何がです?」


「魔力が、自分の意思とは関係なく外へ出ていたかもしれないんですよね」


「そうですね」


それだけ答えると、また前を向いた。

ヴェルナはしばらくリントの横顔を見ていた。


「……私も戦っていましたし、気のせいかもしれませんね」


「そうかもしれませんね」


リントはそれ以上、確かめようとはしなかった。

しばらく歩いてから、先に口を開く。


「でも、ほんとに皆無事でよかったです」


「……そうですね」


「ダレンさん、強かったですね。あの狭いところでも全然動きが鈍らなかったですし」


「ええ。最後まで周囲を見ていましたね」


「帰りもずっとそうでしたよ。俺なら、鉱山を出たところで少しくらい気が抜けてたかもしれません」


ヴェルナも何か返そうとして――やめた。

少し先で、宿の並ぶ通りへ続く角が見えてくる。


「グランツの人たちも、皆いい人でした。調査は途中になりましたけど、あそこで戻って正解だったと思います」


「……そうですね」


今度は、リントの方から次の言葉が出てこなかった。


「リントさん」


「はい」


返事はすぐだった。


「さっきの話なんですけど」


「……はい」


ヴェルナは少しだけ待ってから、口を開く。


「魔力が外へ出ていたかもしれない、という話です」


「はい」


「本当に、今まで一度も?」


リントは答えずに歩いた。


通りの先では、宿の看板に灯りが入っている。ここへ来た時にはまだ遠かった文字も、今はもう読めるところまで近づいていた。


「……たぶん、ないと思います」


「たぶん?」


「自分では見えないですから」


それはそうなのだけれど。

ヴェルナは口にせず、隣を歩くリントを見る。


「誰かに言われたことも?」


「ないですね」


「……そうですか」


「まあ、一人でいることが多かったので。出てても気づかなかっただけかもしれませんけど」


今度は、ヴェルナの足が止まらなかった。


「それなら」


「はい」


「これからは、分かるかもしれませんね」


リントが隣を見る。

ヴェルナは前を向いていた。


「私が一緒にいる時なら、ですけど」


リントは少し遅れて、


「……そうですね」


それだけだった。


宿の看板は、もうすぐそこまで来ていた。

ヴェルナはそれを見上げたが、そのまま入口へは向かわなかった。


「……もう一つ、聞いてもいいですか?」


「はい」


今度は、すぐに次の言葉が続かなかった。


「ダレンさんが、ここは任せろって言った時のことなんですけど」


リントの視線が、宿の扉から外れた。


「……はい」


「あの時、リントさん、一度剣を下ろしましたよね」


鉱山の奥で聞いた声が蘇(よみがえ)る。


――リント、ここは任せろ!


振り下ろされていた剣を止めた。


そこまでは覚えている。


「でも、そのあと……戻りませんでした」


リントは何も言わなかった。

宿の軒先から漏れる灯りが、石畳の上まで伸びている。二人はその少し手前で足を止めた。


「私が名前を呼んだら、振り返ってくれました」


「……はい」


「だから、あの時……。私が呼ばなかったら、どうしてたのかなって」


リントの目が、わずかに動いた。


「……分かりません」


ようやく出た答えだった。


「たぶん、ダレンさんがもう一度呼んでくれたと思います」


「そうかもしれません」


「それか、隊長が」


「リントさん」


「だから――」


「私が聞きたいのは、そこではなくて……」


リントは何か返そうとしたものの、そのまま口を閉じた。


「……すみません」


「謝ってほしいわけじゃないんです」


ヴェルナの声は穏やかだった。


「私も、あの時は自分で戦うつもりでした。危険だったことも分かっています」


「はい」


「でも、リントさんが間に入ってきた時……少し驚きました」


リントが顔を上げる。


「森でも助けてもらいましたし、今回も護衛をお願いしていましたから。守ってもらったことが嫌だったわけではないんです」


「……はい」


「ただ」


ヴェルナの指が、片腕に掛けた革鞄の持ち手へ触れた。

握り直すことはせず、そのまま離れる。


「リントさんの方が、危ないように見えました」


風が通りを抜けた。


「俺は……」


鉱山で、サブテラーがヴェルナへ向きを変えた瞬間が浮かぶ。


「……あの時は」


そこから先が続かなかった。


「俺も、分からないです」


ヴェルナが隣を見る。


「止めないとって思ったのは覚えてます。でも……、分からないです」


二度目は、さっきより小さかった。


「そうですか」


ヴェルナはそれだけ返した。


「すみません」


「だから、謝らなくていいです」


「……はい」


ヴェルナは宿の入口へ目を向けた。


それでも、扉へは向かわなかった。


「……リントさん。このあと、もう少しだけお時間いただいてもいいですか?」


「まだ、何か?」


「あります」


迷うより先に返ってきた声に、リントはそのまま続きを待った。


「魔力のことも、もう少し聞きたいですし……今日のことも、まだ気になっています」


中では、すでに夕食が始まっているらしい。人の話し声に混じって食器の触れ合う音が聞こえ、開いた扉の向こうを給仕が何度か行き来している。


「立ったままというのも変ですから……よかったら、中で食事をしながらでも」


リントは開いた扉の向こうへ目を向けた。


このまま入れば、さっきの話の続きになるのだろう。ヴェルナがまた何かを聞いて、そのうち料理が来る。


食べ始める頃には、きっと別の話をしている。


リューデンでも、そうだった。


「……リントさん?」


返事を待つ声に、リントはヴェルナを見た。

その顔に、鉱山で見たヴェルナの姿が重なった。


「……すみません。今日は少し疲れたので帰ります」


「……そうですか」


ヴェルナはそれ以上勧めず、宿の入口へ目を向けた。ちょうど中から出てきた客と入れ違うように扉が開き、暖かな明かりが二人の足元まで伸びてくる。


「また、断られてしまいましたね」


「え?」


「いえ。今日はゆっくり休んでください」


「……はい」


「でも、今日お話ししたことは……また聞かせてください」


「魔力のことですか?」


「それもです」


リントは次の言葉を待ったが、ヴェルナはそれ以上続けなかった。


「……分かりました」


ようやくヴェルナが宿へ向き、リントも帰るため通りへ足を向ける。

そのまま何歩か進んだところで、背中から名前を呼ばれた。


「リントさん」


振り返ると、ヴェルナはまだ入口の外に立っている。


「おやすみなさい」


「……おやすみなさい、ヴェルナ様」


リントはその姿が扉の向こうへ消えるより先に、再び歩き始めた。


通りにはまだ人がいた。

店先から声が漏れ、すれ違う誰かの話し声に、どこかで鳴った食器の音が重なる。

どれも耳には入っていた。けれど、少し歩けばもう残っていない。


また、サブテラーの向こうにいたヴェルナが浮かぶ。

その姿が消えないまま、今度は別の光景が重なった。


ギルドの裏手にある長椅子(ながいす)。


隣に座っていたミレイユへ、自分から口にした言葉。


――今度……ごはん行きませんか。


自分から言った言葉だった。


今なら、まだ――


リントは考えることを、やめた。


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