第15話「兄が帰るはずだった日」
前回のあらすじ
リューデンでの依頼を終えた翌日、リントはヴェルナに誘われ、仕事ではない時間を二人で過ごした。
初めて見る品々に目を輝かせるヴェルナと街を歩き、果物を食べ、布花を作り、菓子を分け合う。いつしか護衛として付き添っていたはずのリントも、その時間を楽しむようになっていた。
夕暮れの広場で、ヴェルナは以前とは反対の言葉を口にする。
「……今日は、遠くないですね」
リントは答えなかった。
代わりに、自分から街歩きの続きを誘った。
朝には半歩前を歩いていた二人の距離は、帰る頃にはもう、隣へと変わっていた。
翌朝。
朝食を終えて部屋へ戻ったところで、扉を叩く音がした。
訪ねてきたのは宿の従業員だった。ロイドが今朝リューデンへ戻り、昼前には商会へ顔を出す予定だという。時間が合えば、ぜひ二人にも立ち寄ってほしいと伝言を預かってきたらしい。
朝の大通りには、すでに多くの荷車が行き交っていた。店先では木箱が積み上げられ、通りの向こうでは荷を担いだ男たちが声を掛け合っている。
昨日も歩いた通りを進み、硝子細工の店の前まで来たところで、ヴェルナが店先へちらりと顔を向けた。足は止めず、そのままリントの隣を歩いていく。
ロイド商会の建物の前には何台かの荷馬車が停まっていた。
昨日とは違い、開け放たれた扉から人が絶えず出入りしている。荷を運び込む者、その場で帳面を確認する者、奥へ声を飛ばす者。建物の中まで、いくつもの声が行き交っていた。
中へ入ると、昨日応対した従業員がすぐに二人へ気づいた。
「ヴェルナ様、リント様。お待ちしておりました」
奥へ案内され、通されたのは昨日とは別の部屋だった。
大きな窓のある応接室で、中央の卓にはすでに茶器が用意されている。その向こうで書類に目を通していたロイドが、二人の姿を見るなり紙を置いた。
「ヴェルナ様。昨日はせっかくお越しいただいたのに、慌ただしく出てしまい申し訳ありませんでした」
立ち上がったロイドに、ヴェルナも頭を下げる。
「いえ。急な訪問でしたのに、宿までご用意いただいて。本当にありがとうございました」
「いえいえ。昨夜はゆっくり休めましたか?」
「はい。それに昨日は、リューデンの街も見て回ることができました」
ロイドの表情が和らいだ。
「それはよかった。ここまで来て、品物一つ見ずに帰られては、商人として少々寂しいところでしたから」
「知らないものばかりで、ずいぶん長く歩いてしまいました」
ヴェルナはそう言って、肩に掛けた革鞄へ手を添えた。
「それはまた。ずいぶん楽しまれたようですね」
ロイドは柔らかく笑うと、二人へ席を勧めた。
「立ったまま話すことでもありませんね。どうぞ、お掛けください。昼には少し早いですが、せっかくですから食事もご一緒しましょう」
勧められるまま、ヴェルナが席につく。リントもその隣へ腰を下ろす。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
焼いた白身魚に香草を散らしたものと、豆や根菜の入った温かなスープ。籠には切り分けたパンが盛られ、卓の端には薄く切った果物まで添えられている。
「急にお呼びしたものですから、大したものは用意できませんでしたが」
「十分すぎます。昨日から何度もお気遣いいただいて……」
「これくらいはさせてください。先日も申し上げた通りエドワード伯爵には、若い頃から随分と世話になりましたから」
ロイドはそう言って、自分の席についた。
食事が始まると、話題は自然とローズベルグ家へ移った。
昔は領地へ品を運ぶたび、エドワード自身が倉庫まで顔を出すことがあったこと。商談が長引けば、そのまま屋敷で夕食を勧められたこともあったという。ロイドの思い出話をヴェルナは興味津々に聞いている。
「父が、ですか?」
「ええ。今でこそ伯爵などと呼ばれていますが、昔からあまり人任せにできない方でした。自分の目で確かめないと気が済まないのでしょうね」
「……それは、今もあまり変わっていないかもしれません」
ヴェルナの口元が緩んだ。
「やはりそうですか」
懐かしむようにロイドが笑う。
ヴェルナにとっては父の話でも、ロイドの口から語られるのは自分が生まれる前や、まだ幼かった頃のことばかりだった。知らない話が出るたびに手を止め、ときには聞き返しながら耳を傾けている。
リントは会話に割って入らず、二人の話を聞きながら食事を進めた。
「奥様もよく覚えていますよ。私のような商人にも、いつも優しく接してくださる方でした」
「母のことも、よくご存じだったんですね」
「もちろんです。レオンハルト様にも何度もお会いしました」
ロイドはそこで少し考え、記憶を探るように視線を落とした。
「確か、戦後の反乱鎮圧へ向かわれていた頃でした」
「その頃に、兄と?」
「ええ。ちょうど物資を運ぶ仕事がありましてね。レオンハルト様の部隊が駐留していたところにも立ち寄りました」
「お話もされたんですか?」
「荷を届けたあと、少しだけ。あの頃は私も今ほど人を使う立場ではありませんでしたから、各地へ自分で足を運んでいたんです」
ロイドにとっても、ずいぶん昔のことなのだろう。すぐに続きを話すのではなく、記憶を辿るようにしばらく考えてから、懐かしそうに口元を緩めた。
「前線に出てからそれなりに日が経っていたはずですが、お元気でしたよ。荷を確認している最中にも兵の方から何度も声を掛けられて、そのたびに足を止めていました。お若いのに、よく慕われている方だと思ったものです」
ヴェルナは食事の手を止めることもなく、その話に耳を傾けていた。
「ヴェルナ様のことも話されていましたよ。帰ったら、また本を読んでくれとせがまれるだろう、と。困ったようなことを仰っていましたが、とても困っているようには見えませんでした」
「……兄らしいです」
九つも歳の離れた妹だった。書斎へ行けば後ろをついて回り、何を読んでいるのかと覗き込み、分からない言葉があればその場で尋ねる。兄が忙しいことなど、幼いヴェルナにはあまり関係がなかった。
それでもレオンハルトは、追い返したことがなかった。
ロイドの知る兄も同じだったことが、嬉しかった。
「本当に、ヴェルナ様思いのお兄様でしたね」
「はい」
返事には、迷いがなかった。
ロイドは、しばらく昔を懐かしむようにしていたが、やがて何かを思い出したらしく言葉を続けた。
「そういえば、あのときは翌日には後続の部隊と交代すると仰っていました。長く前線に出ていたから、ようやく屋敷へ戻れる、と」
「……翌日、ですか?」
「ええ。ですから私も、次にローゼンフェルトへ伺えばまたお会いできるものだとばかり思っていました」
そこまで聞いて、ヴェルナの手からようやく動きが消えた。
兄が亡くなったのは、その翌日だった。
しばらく、卓の上には食器の触れ合う音もなかった。
ヴェルナが知っているのは、兄が戦後続く反乱鎮圧のために領地を離れ、その先の戦闘で命を落としたことだった。
幼かった自分に戦況の細かな話までされなかったのは、不思議なことではない。
けれど、翌日には帰るはずだったという話は、これまで一度も聞いたことがなかった。
「……交代の部隊は、来なかったのでしょうか」
ロイドは当時の記憶を確かめるように考えていた。
「詳しいことは私も……荷を届けたときには、あの辺りの戦況も落ち着き始めていました。だからレオンハルト様も、翌日には持ち場を引き継げると考えておられたのでしょう」
だが、その日のうちに反乱軍の動きが変わった。
ロイドがそれを知ったのは、リューデンへ戻る途中だったという。街道を行き交う兵が増え、後方へ送られる負傷者も目にした。前線で再び大きな戦闘が始まったという話は、商人たちの間にもすぐに広まった。
「あの場所にも、援軍が向かっていると聞きました。ですから私も、間に合うものだと……」
後になって伝わってきた話では、レオンハルトの部隊は交代を待つ間に反乱軍の激しい攻撃を受けた。
事態を重く見た上層部は撤退命令を出したものの、レオンハルトはそれに従わず、その場に残ったという。
「そのあと、援軍も来たのは来たのですが……」
ロイドの言葉がそこで途切れた。
しばらくして、静かに首を横へ振る。
「その時には、もう」
その先を聞く必要はなかった。兄が帰ってこなかったことだけは、ヴェルナもよく知っていた。
皿にはまだ料理が残っていたが、先ほどまでと同じように手を伸ばすことはできなかった。
「父も、このことを知っているのでしょうか」
ようやく出た問いに、ロイドは少し考えてから答えた。
「もちろんご存じだとは思います。戦が終わったあとに調べておられたことは覚えています」
ヴェルナの顔が上がった。
「調べていた?」
「ええ。レオンハルト様が亡くなられて、そう経たない頃だったと思います。軍の動きや、あの日あの場所へ出された命令について、何か知らないかと私も尋ねられました」
父からそんな話を聞いたことはなかった。
幼い自分に話さなかったことなら、何も不思議ではない。けれど、それから何年も同じ屋敷で暮らし、兄のことを話したことも一度や二度ではなかった。
それでも父は、あの日のことを調べていたとは一度も口にしなかった。
「何か、分かったんでしょうか」
「そこまでは」
ロイドは首を横に振った。
「私がお話しできるのは先ほどお伝えした程度のことです。荷を届けたときの様子と、帰る途中で耳にした話くらいでしたから」
「そうですか……」
ヴェルナはそれ以上尋ねなかった。
窓の外から、荷を運ぶ者たちの声が聞こえてくる。食事が始まった頃から何も変わっていないはずなのに、卓を囲む三人の間からは、いつの間にか会話が途切れていた。
その静けさを破るように、扉を叩く音がした。
ロイドが返事をすると、従業員が二人入ってきた。食べ終えた皿を手際よく下げ、空いた場所へ新しい茶器と小皿を並べていく。最後に置かれた皿には、小さく切り分けた焼き菓子がいくつか載っていた。
表面には薄く蜜が塗られ、細かく砕いた木の実が散らされている。まだ温かいのか、甘い匂いに混じって、どこか馴染みのない香りがした。
「そうそう、ヴェルナ様に召し上がっていただこうと思いまして」
ロイドは従業員を見送ると、先ほどまでとは少し違う調子で菓子を勧めた。
「南方から仕入れている香辛料を使ったものです。向こうでは珍しくもないそうですが、この辺りではまだ料理に使う店も多くありません。せっかく仕入れても、香りを嗅いだだけで戻されてしまうこともありましてね」
「そんなに変わったものなんですか?」
ヴェルナが一つ手に取る。
「まぁまぁ、一つ食べてみてください」
促されるまま端を一口かじると、蜜の甘さのあとから、舌に残る香りがゆっくりと広がった。ヴェルナはすぐに飲み込まず、口の中に残った味を確かめてから、手元の菓子へ目を落とした。
「美味しい……甘さのあとから香りが来るんですね」
「ええ。そのままでは馴染みのない香りでも、菓子にするとずいぶん印象が変わります。近くの菓子屋に頼んで、何度か配合を変えてもらったんですよ」
そこからロイドは、同じ香辛料でも産地によって香りが違うことや、輸送に時間がかかれば価値まで変わることを話し始めた。北から届く毛織物にも土地ごとの違いがあり、港から入ってくる品の中には、長く商売をしている自分でも用途が分からないものが混じることがあるらしい。
「ロイドさんでも、分からないものがあるんですか?」
「もちろんです。長くやっていても、初めて見るものはいくらでもありますよ。分からなければ人に聞きますし、それでも駄目なら知っていそうな商人を探します。そうやって何人もの手を渡って、ようやく出所が分かることもあります」
ヴェルナは感心したように焼き菓子の残りを口へ運んだ。ロイドも新しく淹れられた茶に手を伸ばし、ひと息つく。
その会話を聞いていたリントが、胸元へ手をやりかけた。
「あの、ロイドさん」
「はい、なんでしょう?」
「いや……ちょっと、聞いてみたいことがあって」
リントはカップを置き、胸元へ指を入れた。服の下から細い鎖を引き出すと、その先についていたペンダントを手のひらへ載せる。
「これなんですけど」
ロイドの方へ手を差し出した。
「何か分かりますか?」
ロイドは差し出された手のひらとリントの顔を交互に見たあと、ペンダントを受け取った。
「拝見します」
指先で鎖を避け、まず表を確かめる。日に焼けた金属の縁をなぞり、今度は窓から入る光へかざした。
「随分と古そうですね」
「たぶん。俺が物心ついた頃には、もう持ってたので」
「ご家族のものですか?」
「それも分からないんです」
ロイドの手が止まった。
リントはどう話したものか迷ったが、ここまで見せておいて濁すのもおかしい。
「昔のこと、ほとんど覚えてなくて。これだけは、ずっと持ってたみたいなんです」
「なるほど……」
ロイドは再びペンダントへ意識を戻した。
装飾品を扱うときの癖なのか、今度は縁を爪先で軽く弾き、裏返して細工を確かめていく。ヴェルナもいつの間にか焼き菓子から手を離し、その手元を覗いていた。
「素材そのものは、そう珍しいものではありません。ただ、この作りは少し変わっていますね」
「作り?」
「ええ。装飾品として作ったにしては、飾りがほとんどない。それに――」
ロイドは裏返したまま、親指で表面を軽く拭った。
長いあいだ服の下に隠れていた金属には細かな傷が重なり、その中に浅く刻まれた模様が残っている。
「この印も、商会や工房の銘には見えません」
「分からないですか?」
「少なくとも、私には。ただ、これだけ古いものなら、どこで作られたかより、誰が使っていたものなのかを辿った方が早いかもしれません」
ロイドはもう一度、窓から差し込む光へペンダントを向けた。
「似た細工を扱っている商人に何人か心当たりがあります。今すぐお答えはできませんが、聞いてみましょう」
「……いいんですか?」
「もちろんです。エドワード伯爵のお知り合いを手ぶらで帰しては、商人の名が廃りますから」
「いや、俺は別にエドワード伯爵の――」
そこまで言いかけて、リントはやめた。
ロイドは気にした様子もなく、もう一度ペンダントを裏返す。その手元を覗いていたヴェルナの目が、細かな傷の奥に残る模様の上をゆっくりと辿った。
ほんのしばらくそこへ目を留めたあと、何も言わずに茶へ手を伸ばす。
ロイドは特徴を覚えるようにもう一度表裏を確かめてから、ペンダントをリントへ返した。
受け取ったペンダントを服の下へ戻すと、いつもの重みが胸元へ収まった。
「何か分かった場合は、どちらへお知らせすれば?」
「シルヴァハイムのギルドへお願いします。俺宛てにしてもらえれば」
「分かりました。何か分かれば、そちらへお知らせしましょう」
「お願いします」
残っていた茶を飲み終える頃には、昼をだいぶ回っていた。
「このあとは、シルヴァハイムへ戻られるのですか?」
「はい。そのつもりです」
「でしたら、ちょうどいい。午後からそちらへ向かう馬車があります。商会の荷を届ける便ですが、お二人も乗っていかれてはいかがですか?」
「いいんですか?」
「ええ。護衛も二人ついていますし、席にも余裕があります。歩いて戻られるよりは、その方がよろしいでしょう」
リントはヴェルナを見た。
「そうですね。せっかくですし、お言葉に甘えましょうか」
「はい」
話が決まると、ロイドは従業員を呼び、出発の時間を確かめた。馬車が出るのは、もう半刻ほどあとらしい。
「宿にお荷物が残っているのでしたら、その間に取ってきてください。こちらから御者には話を通しておきます」
「何から何まで、ありがとうございます」
ヴェルナが礼を告げると、ロイドは穏やかに笑った。
「これくらいはさせてください。ヴェルナ様をここから歩いてお帰ししたなどとエドワード伯爵に知られたら、次にお会いしたとき何を言われるか分かりませんから」
二人は改めて礼を告げ、いったん商会をあとにした。
宿へ戻って預けていた荷物を受け取り、主人にも世話になった礼を告げる。商会へ戻る頃には、建物の脇で一台の幌馬車が出発の準備を終えていた。荷台には大小の木箱が積まれ、その間に二人が座れるだけの場所が空けられている。御者台にはすでに男が座り、馬車の前後では革鎧を身につけた二人の護衛が出発を待っていた。
ロイドにもう一度見送られ、二人は荷台へ乗り込んだ。やがて御者の声とともに馬車が動き出し、商会の建物が荷車や人の行き交う通りの向こうへ遠ざかっていく。
リントはそこから、遠ざかっていくリューデンを眺めていた。
――次はどこ行きますか?
「リントさん?」
呼ばれて、リントは振り返った。
ヴェルナがこちらを見ている。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません。ヴェルナ様」
リントはそのまま、幌の外へ目を戻した。
ヴェルナの膝の上で、指先が革鞄の持ち手に触れた。
馬車が轍を越え、積まれた木箱が小さく鳴る。
「……そうですか」
それからしばらく、馬車は街道を進み続けた。
途中で一度だけ馬を休ませ、再び走り出した頃には、幌の中へ差し込む陽もずいぶん傾いていた。
往路では歩いた道を、今度は荷台から眺めていく。ヴェルナは時折、幌の外へ顔を向けていたが、リントも無理に話題を探すことはなかった。
それでも会話がなくなったわけではない。
道沿いに見覚えのある景色が現れればどちらからともなく言葉が出たし、休憩の際には残っていた水を分けた。昨日までと何かが大きく変わったようには見えないまま、馬車はローゼンフェルトへ近づいていった。
街へ入る頃には、すっかり日も暮れていた。
大通りを抜け、見慣れた道へ入る。やがてローズベルグ邸の門が見えてくると、ヴェルナは膝に置いていた革鞄を持ち直した。
「それ、先に預かります」
リントが手を伸ばす。
ヴェルナから革鞄を受け取ったところで馬車が速度を落とし、ほどなく門前で止まった。
リントが先に荷台から降り、鞄を片手に振り返る。ヴェルナが裾を押さえながら足を掛けるのを見て、空いた手を差し出した。
「足元、気をつけてください」
「ありがとうございます」
ヴェルナの手が重なる。
触れた手の温度に、リントの指が一瞬だけ強張った。
ヴェルナが地面へ降りるのを確かめ、そっと手を離す。
「……」
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでもありません」
馬車の到着に気づいたのか、屋敷からアルフレッドがこちらへ歩いてきた。
「お帰りなさいませ、ヴェルナ様」
「……ただいま、アルフレッド」
アルフレッドの目が、ヴェルナからリントへ移る。
「リント様も、長旅お疲れさまでございました」
リントは軽く会釈を返した。
背後では御者が馬具を緩め、護衛の一人が荷台から水桶を下ろしている。馬を休ませるつもりらしく、すぐに出発する様子はなかった。
「今日はもう出ないんですか?」
「ええ。この時間からシルヴァハイムまでは行けませんからね」
御者は馬の首筋を撫でながら答えた。
「今夜は町で休んで、明日の朝に出ます。リントさんもそれでよければ、一緒に宿を取りますよ」
「分かりました。お願いします」
「でしたら――」
ヴェルナの声が、先ほどより少しだけ明るくなった。
「リントさんも、今日はうちに泊まっていきませんか?」
「俺がですか?」
「はい。客室も空いていますし、わざわざ宿を取らなくても」
リントはローズベルグ邸を見上げた。
「ありがとうございます。でも、ヴェルナ様。貴族のお屋敷に俺が泊めてもらうなんて、おこがましいですよ」
「そんなことはありません。お父様も気になさらないと思います」
リントは馬のそばにいる御者たちへ目をやった。
「明日の朝も一緒に出ますし、今日は商会の方たちと宿を取ります」
ヴェルナは何も言わないまま、しばらくリントを見ていた。
「……分かりました」
リントは持っていた革鞄を差し出した。
「二日間、ありがとうございました」
「こちらこそ。リントさんが一緒に来てくださって、本当に助かりました」
受け取った鞄を、ヴェルナが両手で抱える。
リントはその姿を見たまま、小さく呟いた。
「…………」
「え?」
顔を上げたヴェルナに、リントは首を横に振る。
「それじゃ、ここで。ヴェルナ様」
「はい。お気をつけて」
リントは頷くと、御者たちの方へ歩いていった。
ヴェルナはその場に残り、遠ざかっていく背中を見送った。
やがて、抱えていた革鞄を胸元へ寄せる。
「ヴェルナ様」
アルフレッドに呼ばれて、ようやくそちらを向いた。
「参りましょうか」
「はい」
アルフレッドは何も尋ねなかった。
リューデンへ向かった日のことも、戻ってくればきっと話したいことがいくつもあるのだろうと思っていた。けれど屋敷へ着くまで、隣を歩くヴェルナから旅の話が始まることはなかった。
自室へ戻ると、ヴェルナは革鞄を卓の上へ置いた。
外套を脱ぎ、旅の荷物を一つずつ片づけていく。着替えを取り出した下から、淡い紫の布花が現れた。
昨日、作った花だった。
ヴェルナはそれを取り出し、しばらく手の中に置いてから、卓の端へそっと置いた。
片づけを終えて部屋を出る。
階段を下りたところで、玄関の方から戻ってきたアルフレッドと行き合った。
「アルフレッド」
「はい」
「お父様は、もう戻っていますか?」
「旦那様でしたら、少し前にお戻りになりました。今は書斎にいらっしゃいます」
ヴェルナは書斎のある方へ目を向けた。
「何かございましたか?」
「少し、聞きたいことがあるんです」
アルフレッドはいつものように、その先を待っていた。
「お兄様のことで」
返事が来なかった。
ヴェルナが顔を上げると、アルフレッドは何事もなかったように一礼した。
「旦那様は、書斎にいらっしゃいます」
先ほどと同じ答えだった。
「……ありがとうございます」
書斎の前まで来ると、中から紙をめくる音が聞こえていた。
二度、扉を叩く。
「お父様。ヴェルナです」
しばらくして、扉の向こうから声が返ってきた。
「入れ」
ヴェルナは取っ手に手をかけ、扉を開いた。




