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ソフィアレコード ―傷跡の先に、世界は眠る―  作者: 長月あい
第一章 帰りを待つ人

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第14話「仕事のない一日」

前回のあらすじ


雨の夜を越え、戻ってきたダリオへ無事に積荷を引き渡したリントとヴェルナ。礼として旅のお守りを受け取った二人は、夕刻までにロイドへ封書を届けるため、交易都市リューデンへと急ぐ。


街へ到着し、ローズベルグ家から預かった品物をロイド商会へ届けるものの、肝心のロイドはすでに出発したあとだった。二人は南門へ急ぎ、街を発つ直前だったロイド本人と無事に出会う。


ロイドはエドワードだけでなく、亡き母とも古くから面識があり、幼い頃のヴェルナのことも覚えていた。ローズベルグ家への恩から二人の宿を手配すると、明後日には自分も戻るため、それまでリューデンでゆっくりしていくよう勧める。


その夜、二人は用意された宿に泊まり、久しぶりに温かな食事を囲む。

一日の疲れから眠そうにするヴェルナに、リントも今夜はきちんと休むと約束する。


翌朝。


控えめなノックの音で、リントは目を覚ました。

一度目は、まだ夢の続きに混じっていた。二度目の音に返事をして身体を起こすと、窓の外はすっかり明るい。

昨夜はちゃんと休むと約束したものの、ここまで深く眠るとは思っていなかった。

寝台を下り、乱れた服を簡単に整えて扉を開ける。


「おはようございます、リントさん」


すでに身支度を終えたヴェルナが立っていた。


「……おはようございます」


「もしかして、まだお休みでしたか?」


「今起きました」


「すみません。起こしてしまいましたね」


「いや、大丈夫ですよ。久しぶりによく寝ました」


「それならよかったです。私も、昨日はぐっすり眠れました。横になってからのことを、ほとんど覚えていなくて」


「相当疲れてたんですね」


「……そうみたいです。下で朝食が用意されているそうなので、ご一緒にどうかと思いまして」


「はい。少しだけ待っていただけますか? すぐに準備します」


顔を洗い、身支度を済ませて一階へ下りると、広間にはすでに何組もの客がいた。

窓から差し込む朝の光の中、食器の触れ合う音や話し声が重なっている。席へ着くと、焼きたてのパンに卵料理、野菜と薄切りの肉、湯気の立つスープまで運ばれてきた。


「朝から随分と豪華ですね」


「本当に……。ロイド様には、何から何までお世話になってしまいますね」


「昨日の夕食もすごかったですもんね」


「はい。少し申し訳なくなるくらいです。でも……美味しいですね」


「ですね」


パンをちぎりながら、ヴェルナが口を開く。


「そういえば、昨日通った大通りは覚えていますか?」


「大通り?覚えてますけど」


「途中に、見たことのない果物を並べているお店があったんです。赤とも紫とも違うような色をしていて、形も少し変わっていて」


言われて昨日見た光景を思い返す。

荷を積んだ馬車が何度も行き交い、夕刻が近づくにつれて人通りも増えていた。ヴェルナとの間へ人が入らないよう位置を変え、横切る荷車を先に通す。覚えているのは、そんなことばかりだ。

肝心の店先は、ほとんど記憶に残っていない。


「へぇ……それは見てなかったですね。人とか荷車ばっかり見てました」


「あ……そう、ですよね」


しばらくパンを食べていたヴェルナが、もう一つ話す。


「硝子(ガラス)で作った飾りを並べているお店もあったんです。小さなものから、窓辺に飾るようなものまで色々あって……昨日は通り過ぎてしまいましたけど」


「へぇ」


「……すみません。私の見たいところばかり話してしまって。リントさんは、どこか行ってみたいところはありますか?」


「え? 俺は朝食を食べたら、シルヴァハイムへ戻ろうと思ってましたけど」


パンへ伸びていたヴェルナの手が止まる。


「……今日、ですか?」


「はい。届け物も手紙も渡せましたし、依頼は終わりましたから」


「そう……だったんですね」


少しの間、二人の間には食器の音だけがあった。


「……でも、明日はロイド様がお戻りになりますよね。お食事にもお招きいただくことになると思いますし……」


「俺もですか?」


「はい。そのつもりでしたけど……。ロイド様も昨日、私たち二人のことを気に掛けてくださいましたし、それに……ここまで一緒に来てくださったリントさんのことも、きちんとご紹介したいです」


「……そうですか」


リントはスープを口へ運んだ。


「それに、帰りのことも……ローゼンフェルトまで、また護衛をお願いできる方を探さないと。リントさんはシルヴァハイムへ戻られるんですよね? でしたら、途中までは同じ方角ですよね」


「あ……確かに。そうですね」


「もしご都合が悪くなければ、帰りもお願いすることはできますか?」


「俺で大丈夫ですか?」


「はい。リントさんなら安心です」


「……そうですか」


水を一口飲んでから、リントは答える。


「それなら、帰りも俺がやりますよ。同じ方角ですし、急いで戻る予定もないですから」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


朝食も残り少なくなった頃、ヴェルナがもう一度口を開く。


「では……明日までは、こちらにいらっしゃるんですよね。それでしたら、先ほどお話ししたお店も……ご一緒していただいていいですか?」


「それはいいですけど……俺でいいんですか?」


「もちろんです。私はリントさんも一緒だと思っていましたから」


「……そうですか」


リントは残っていたパンを一口で食べると、水を飲んだ。


「じゃあ、朝ごはん済ませたら行きましょうか」


「はい」


食事を終えて部屋へ戻り、帰るつもりでまとめていた荷物を寝台の脇へ置き直す。剣と財布だけを確かめて廊下へ出ると、向かいの部屋からヴェルナもちょうど出てくるところだった。


肩にはいつもの革鞄が掛かっている。


「お待たせしました」


宿を出ると、昨日は日が暮れかけていた大通りが朝の光の中まで続いていた。

荷を積んだ馬車が行き交い、開いたばかりの店先では品物が次々と並べられている。呼び込みの声に、車輪が石畳を転がる音。


「昨日のお店は……こちらだったと思います」


ヴェルナは通りの先を確かめると、そのまま歩き出した。リントもその隣へ並ぶ。

昨日は立ち止まることのできなかった通りを、今日は二人でゆっくりと進んでいく。

向かいから大きな荷物を抱えた男が来ると、リントは前へ出て、ヴェルナとの間を塞ぐようにすれ違った。少し先から荷を積んだ馬車が近づいてくるのを見つけ、また位置を変えようとする。


「リントさん。今日は、仕事じゃないんですから」


隣を見ると、ヴェルナが柔らかく微笑んでいた。


「……ああ。そう、ですね」


すれ違う人へ目が向く癖は、そう簡単には抜けなかった。それでも隣を歩いているうちに、その向こうに並ぶ店先も少しずつ目に入ってくる。

軒先(のきさき)から吊るされた色鮮やかな布。蓋を開けた木箱から漂ってくる香辛料の匂い。見慣れない形の瓶や食器を並べた店には、朝から何人もの客が集まっている。


その中に、赤紫のものが見えた。


「……あれですか? 昨日言ってた果物」


「あ……はい。あれです」


ヴェルナの足取りが少し速くなる。

店先にはいくつもの木箱が並び、その一つに拳より小さな果実が山になっていた。赤紫の皮には細い筋が入り、先端だけが少し尖っている。


「やっぱり、見たことがありません。昨日は色しか分からなかったんですけど、こんな形だったんですね」


ヴェルナは木箱の前まで寄ると、近くのものから奥に積まれたものまで見比べていく。手には触れないものの、並んだ果実を見る目は真剣だった。


「どこから来たものなんでしょう」


品物を並べていた店主が顔を上げる。


「お、そいつか。ずいぶん遠くから来たもんだよ。この辺じゃまず採れない」


「そんなに遠くから?」


「ああ。ここまで運んでくるだけでも結構かかるからな。リューデンじゃなきゃ、そうそう見ないだろうよ」


「どんな味がするんですか?」


「甘いよ。ちょいと酸味もあるが、そのまま食える」


店主はいくつかの果実を手に取って見比べた。その中から色の濃い一つを選ぶと、表面を布で丁寧(ていねい)に拭いてヴェルナへ差し出す。


「……え?」


ヴェルナは差し出された果実と店主を交互に見てから、戸惑いながら両手で受け取った。


「あの、まだ――」


「そいつはサービスだ」


「サービス……ですか?」


「いいんだよ、一つくらい。こんな綺麗なお嬢さんが店先にいてくれりゃ、それだけでいい宣伝になる」


店主はそう言って、通りへちらりと目をやった。

いつの間にか、行き交う人の何人かがこちらを見ている。目が合って慌てて逸(そ)らす男もいれば、足を緩めたまま店先を覗いていく者もいた。


「食べてみな。今ちょうど食べ頃だ」


「……では、いただきます。ありがとうございます」


小さく一口かじると、しゃり、と軽い音がした。

二度、三度と噛むうちに、その顔がぱっと明るくなる。


「……美味しいです。甘いんですけど、あとから少し酸っぱくて」


今度は迷わず、もう一口かじった。


「兄ちゃんも一つどうだ? 隣で見てるだけじゃ味は分からんだろ」


突然話を振られ、リントは店主を見る。


「お嬢さんがあれだけ美味そうに食ってるんだ。気になるだろ?」


言われてヴェルナを見ると、ちょうど三口目をかじったところだった。


「……じゃあ、一つお願いします」


「毎度あり」


店主は再び木箱を探り、いくつかを見比べてから一つを選んだ。ヴェルナのものと同じように表面を拭いて差し出してくる。代金を渡して受け取り、リントも一口かじる。

甘さのあとを追うように酸味が広がり、噛むほど果汁が口に残る。見た目から想像していたより食べやすく、自然ともう一口かじっていた。


「……美味しいですね、これ」


「ですよね」


ヴェルナが嬉しそうに頷(うなず)く。

初めて食べる味に、二人でもう一口ずつかじった。


「これ、どれくらい日持ちするんですか?」


「傷がなけりゃ三、四日ってところだな。旅に持ってくなら、少し硬めのやつを選ぶといい」


「三、四日か。長い依頼だと厳しいですね」


「そのまま持ってくならな。こいつは潰して果汁を絞るのも美味いぞ。水で割って飲むんだ」


「飲むこともできるんですか?」


ヴェルナがすぐに店主へ向き直る。


「ああ。もう少し暑くなりゃ、そっち目当てで買ってく客も増える。この先にも飲ませる店があるぞ。広場に出る手前を右に曲がったところだ」


「この先……」


教えられた方角を確かめるように、ヴェルナが通りの先を見る。


「お嬢さん、すっかり気に入ったな」


「はい。とても」


店主は声を上げて笑い、今度はリントへ少し声を落とす。


「兄ちゃんも大変だな。こんな綺麗なお嬢さん連れて歩いてたら、果物より周り見てなきゃならんだろ」


「え?」


リントは店主を見て、それから隣へ目をやった。

ヴェルナはまるで聞いていない。残った果実を片手に、隣の木箱を覗き込んでいた。


「これは、さっきのものとは違いますよね?」


リントが店主の方を見ると愉快そうに笑っている。

二人は礼を言って果物屋を離れ、再び人通りの中を歩き出す。

食べ終えた頃には、ヴェルナの目はもう別の店へ向いていた。


「リントさん。あちら、少し見てもいいですか?」


指をさした先には、硝子(ガラス)細工を並べた小さな店があった。


「さっき言ってた店ですか?」


「はい。昨日は通り過ぎてしまったので」


店先には、指先ほどの飾りから、花や鳥を模した置物、細い鎖(くさり)を通した装飾品まで並んでいる。陽を透かした硝子(ガラス)が敷かれた布へ淡い色を落とし、ヴェルナはその一つひとつを覗きながら奥へ進んでいった。


やがて、青い硝子(ガラス)を嵌(は)めた髪飾りの前で足が止まる。


「お嬢さん、それが気になるのかい?」


「はい。綺麗だなと思って」


「だったら、こっちの方がいいね。その髪色なら青がよく映えるよ。ちょっと合わせてみな」


店番の女性が選んだのは、細い銀色の金具に青い硝子(ガラス)を嵌(は)めた髪飾りだった。


「はい。では、少しだけ」


ヴェルナは嬉しそうに髪を耳へかけ、女性の方へ顔を向ける。


「そうそう。じっとしてな」


女性が慣れた手つきで銀髪に髪飾りを添(そ)えると、ヴェルナは近くに置かれた鏡を覗き込んだ。青い硝子(ガラス)が揺れるたび、光を受けて色を変える。


何度か角度を変えて眺めてから、ヴェルナはリントへ振り返った。


「どうでしょう?」


リントの目が止まった。


「……似合うと思いますよ」


そう答えて、店先に並んだ硝子(ガラス)細工へ目を移す。


「ほら、お嬢さん。ちゃんと似合ってるってさ。でも兄ちゃん、そういうのはもうちょっと自信持って言ってやりな。そんな調子じゃ、そのうち愛想尽かされるよ」


「いや、それは――」


ヴェルナが鏡から顔を上げる。


「……なんでもないです」


ヴェルナは再び鏡を覗き、今度は髪飾りを指先でつまんで光の方へ傾ける。


「角度を変えると、色が違って見えますね」


「作り方でも変わるんだよ。同じ青でも、混ぜるものや焼き方で随分違うからね」


ヴェルナの目が、隣に置かれた小さな馬で止まった。


「リントさん、これ。こんなに小さいのに、脚や耳まで作られています」


呼ばれてリントも隣から覗き込む。

透明な硝子(ガラス)で作られた馬は指先ほどの大きさしかない。それでも四本の細い脚があり、首から背中へ続く形まで滑らかに作られていた。


「すごいですね。どうやって作ってるんだろ」


「私も気になります」


しばらく二人で眺めてから、ヴェルナは髪飾りを外して店番の女性へ返した。


「ありがとうございました」


「いいよ。また見においで」


二人は店を出て、再び通りを歩き出す。


「実際に作っているところも見てみたいですね」


「俺もそれは見てみたいです」


それほど進まないうちに、今度は細い紐(ひも)や色のついた石、木彫りの小物を並べた露店の前で足が止まった。


「これは何ですか?」


「旅のお守りだよ。道中の無事を願うものから、魔除けまで色々ある。土地によって形も随分違うけどな」


ヴェルナは肩に掛けた革鞄を開き、中から細い紐(ひも)のついた木飾りを取り出した。


「では、これは分かりますか? 昨日、旅のお守りだといただいたんです」


主人は受け取った木飾りを手のひらで裏返し、刻まれた模様を眺める。


「ああ。こいつはヴァルデン地方のものだな」


「分かるんですか?」


「この模様が特徴なんだよ。あっちじゃ旅に出る人間へ、家族や親しい奴が木を削って持たせる。それに、こいつは随分長く持ち歩かれてるな。ほら、角がすっかり丸くなってるだろ」


返された木飾りを、ヴェルナは手のひらで裏返した。親指が、擦(す)れて丸くなった縁をゆっくりとなぞる。


「よほど大事にしてたんだろうな」


「……大切にします」


木飾りを革鞄へしまったところで、その隣に並んだ色石が目に留まる。


「こちらも旅のお守りなんですか?」


「ああ。それは北の方でよく見るやつだな。土地が違えば、使うものも変わる」


ヴェルナは石を包むように編まれた紐(ひも)を覗き込み、店主の話に耳を傾ける。いくつか見せてもらってから礼を言い、二人は再び通りへ戻った。


その先でも、香辛料の匂いに誘われて店先を覗き、見慣れない道具を見つけては使い方を教えてもらった。


「あちらにも何か――」


ヴェルナがまた足を向けかけたところで、少し先から大きな声が響いた。


「さあ、次だ! 誰かやってみたい奴はいないか!」


人だかりから、どっと笑い声が上がる。

隙間から見えるのは、革の前掛けをつけた男と、その前に置かれた大きな作業台。


「何をしているんでしょう」


ヴェルナがそちらへ向かい、リントも隣を歩いたまま人だかりへ入る。

覗き込んだ先には、色とりどりの布が広げられた作業台があった。革の前掛けをつけた男が細長い布を折り重ね、手元で何度か形を整えていく。


細い糸を巻いて指先を離すと、一枚の布が小さな花に変わった。

周囲から声が上がる。


「すごい……」


ヴェルナも人の隙間から作業台を覗き込んでいた。

職人は出来上がった花を客に見せると、すぐに次の布へ手を伸ばす。今度は折り方を少し変え、先ほどとは違う形の花を作っていく。


「髪に留めてもいいし、服や鞄につけてもいい。色を変えりゃ雰囲気も変わるぞ」


「リントさん、見ましたか? 今、ほとんど手を止めませんでした。それに、測ってもいないのに花びらが揃っています」


「見てました。すごいですね」


ヴェルナの視線は、すぐに職人の指先へ戻った。

そのまま次の花が出来上がるまで眺めていると、不意に職人が顔を上げる。


「そこの銀髪のお嬢さん。随分熱心に見てるじゃないか。やってみるか?」


「私ですか?」


「そうそう。ほら、こっち来な」


ヴェルナは作業台へ目を向け、一歩踏み出しかけたところでリントを見る。


「やってみたらどうです?」


「……では、お願いします」


人垣(ひとがき)を抜けて作業台の前へ出ると、職人は待ってましたとばかりに手を叩いた。


「よし! さあ見てってくれ! 今日はこんな綺麗なお嬢さんが挑戦してくれるぞ! 銀髪の美人がどんな花を作るか、出来上がるまで見ていきな!」


「え……?」


突然張り上げられた声にヴェルナが振り返る。通りを歩いていた者まで何事かと足を止め、ただでさえ出来ていた人垣(ひとがき)が少しずつ厚くなっていった。


「あの……ずいぶん人が増えているような……」


「気にするな。手元だけ見てりゃいい! まずは好きな色を一つ選びな」


職人は悪びれもせず、色とりどりの布をヴェルナの前へ広げた。

赤や青、黄色に緑。濃いものから淡いものまで一枚ずつ見比べていき、その中からヴェルナが手に取ったのは、淡い紫の布だった。


「これにします」


「よし。まず半分に折って、次はこっちの端だ。ここを押さえたまま――そうそう」


職人の手元を追いながら、ヴェルナも布を折っていく。最初こそ順調だったものの、何度か重ねたところで指が止まった。


「……次は、こちらでしょうか?」


「そっちはさっき折った方だ」


「あ……見ていると、もっと簡単そうだったんですが」


人垣(ひとがき)から笑い声が漏れる。


ヴェルナも少し恥ずかしそうに笑いながら、教えられた場所へ指を置いた。それからは職人の手元と自分の布を何度も見比べ、折り重ねていく。


「よし、そこで押さえてな」


最後に職人が根元へ糸を巻き、指先で形を整える。

手のひらに残ったのは、花びらが一枚だけ少し外へ開いた、淡い紫の小さな花だった。


「……できました」


顔を上げたヴェルナの表情が、ぱっと明るくなる。

周囲から拍手が起こると驚いたように目を瞬かせたものの、すぐに花へ目を戻して嬉しそうに笑った。


「初めてにしちゃ上出来だ!」


人垣(ひとがき)へ戻ってきたヴェルナが、そのままリントへ手のひらを差し出す。


「見てください」


「ちゃんと出来ましたね」


「途中で間違えましたけど、思っていたより楽しかったです。リントさんもやってみれば分かりますよ」


リントは答える代わりに笑った。


「見ていると簡単そうですから」


「それ、さっきヴェルナ様も言ってませんでした?」


「あ……」


ヴェルナは手のひらの花を見て、少し笑った。


「そいつは持っていきな。今日の礼だ」


職人に声を掛けられ、ヴェルナが顔を上げる。


「よろしいんですか? お代は――」


「いらんよ。もう十分もらった」


職人の視線の先には、いつの間にか先ほどより多くの客が集まっていた。


「ありがとうございます」


ヴェルナはそれ以上気にすることもなく、嬉しそうに花へ目を戻した。


「潰さないようにしないといけませんね」


しまう場所を探して革鞄を覗き込んでいると、職人が小さな紙袋を差し出した。


「そのまま入れたら潰れるぞ。これに入れていきな」


ヴェルナは淡い紫の花をそっと紙袋へ収め、革鞄の中へしまった。


職人にもう一度礼を言い、二人は人だかりを離れる。

通りへ戻ってしばらく歩いていると、すれ違う人を避けるたび、ヴェルナが革鞄を身体へ寄せていた。


「どうしました?」


「せっかく作ったので、潰してしまったらもったいないなと思って」


「紙袋に入れてもらったんですから、大丈夫ですよ」


「そうですよね」


そう言いながらも、また鞄を身体の前へ回す。


「持ちましょうか?」


「え?」


「さっきから気にしてるじゃないですか」


ヴェルナは鞄へ目を落とし、少し迷ってから肩紐(ひも)を外した。


「……お願いします」


リントはそれを受け取り、自分の肩へ掛ける。


「これなら大丈夫でしょう」


再び並んで歩き始めて間もなく、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。

店先には、薄く焼いた生地に蜜(みつ)を塗った菓子が並んでいる。焼きたての一枚に、ヴェルナの足が緩んだ。


「……美味しそうですね」


「食べます?」


「でも、一つは多そうです。さっき果物もいただきましたし」


そう言いながらも、ヴェルナの目は店先に向いたままだった。


「すみません。一つください」


リントは代金を払うと、まだ温かい菓子を半分に割った。

何も言わず、その片方をヴェルナへ差し出す。


「……いただいてもいいんですか?」


「一つは少し多いですよね」


ヴェルナの口元が緩んだ。

差し出された菓子を、両手で大事そうに受け取る。

そのままリントを見上げた顔には、とびきりの笑顔が浮かんでいた。


「ありがとうございます」


一口食べると、目まで嬉しそうに細くなる。


「……美味しいです」


「よかったですね」


リントも自分の分を口にした。焼いた生地の香ばしさに、温かな蜜(みつ)の甘さが重なる。

二人はそのまま菓子を食べながら、通りを歩いていった。

菓子を食べ終える頃には、通りの人出も朝より増えていた。


包み紙を片づけたヴェルナが、ふと足を止める。


「リントさん、あっち!」


リントの袖(そで)を軽く引くと、そのまま通りの先へ向かっていく。リントは思わず笑い、そのあとを追った。


ヴェルナが向かったのは、装飾品を扱う小さな店だった。

軒先(のきさき)には首飾りや耳飾り、色石を嵌(は)めたブローチが所狭しと並んでいる。店へ入るなり、ヴェルナは壁際に飾られた品へ目を留めた。


「これは……刺繍(ししゅう)ですか?」


「よく気づいたね。細い銀糸を縫い込んであるんだよ」


店番の女性に招かれ、ヴェルナはそのまま奥へ入っていく。

リントもあとに続こうとしたところで、横から声が飛んだ。


「兄ちゃん」


振り向くと、店の主人らしい男がこちらを見ていた。


「さっきから見てたが、随分大人しくついて歩いてるな」


「今日は付き添いなので」


主人の目が、リントの肩へ向く。そこにはヴェルナから預かった革鞄が掛かっていた。


「付き添いねえ」


男はそれ以上何も言わず、棚から小さな木箱を取り出した。


「だったら、ちょうどいい。あのお嬢さんに一つ選んでやりな」


「いや、俺は――」


「見るだけだよ。金は取らん」


目の前で蓋を開けられ、リントも仕方なく中を覗き込む。

箱の中には、花を模したものや色石をはめたものなど、小さなブローチがいくつも並んでいた。


「どんな色が好きなんだ?」


リントは奥へ目をやった。

ヴェルナは店番の女性と並び、銀糸の刺繍(ししゅう)を熱心に覗き込んでいる。

箱へ視線を戻すと、青や赤、緑に混じって淡い紫が目に入った。


「……たぶん、これです」


「へえ。ちゃんと知ってるじゃないか」


主人は淡い紫を使ったものだけを選び、手早く三つ並べた。

一つは花を象(かたど)ったもの。もう一つは細かな飾りの中央に紫の石がはめられている。最後の一つはそれよりずっと小さく、細い銀色の枠に淡い紫の石が一つだけ留められていた。


リントの目がそこで止まる。


「いいところに目をつけるなぁ」


主人がすぐに手を伸ばした。


「え?」


「これだろ。いいから手に取って見てみな、ほら」


半ば押しつけるように渡され、リントは掌(てのひら)の上のブローチを眺める。

店先から差し込む光を受けて、淡い紫の石がわずかに透けていた。飾り気は少ないが、そのぶん色がよく映える。


「……綺麗ですね」


「だろ? 派手すぎないし、あのお嬢さんなら――」


「リントさん」


声がした瞬間、リントはブローチをさっと木箱へ戻した。

振り向くと、ヴェルナがこちらを見ている。


「これ、見てください。糸だけでこんな模様を作っているそうです」


呼ばれるまま隣へ行くと、ヴェルナが刺繍(ししゅう)の一角を指した。


「ここです。近くで見ると、本当に細かいんですよ」


「すごいですね」


角度を変えるたび、縫い込まれた銀糸が細く光る。二人で覗き込んでいると、店番の女性が別の品も取り出し、ヴェルナの目はすぐにそちらへ移った。


ひと通り店内を見て回ると、ヴェルナは満足した様子で店番の女性へ礼を言った。


「ありがとうございました」


「またおいで。まだ見せてないものもあるからね」


「はい、ぜひ」


ヴェルナが先に店を出る。リントもそのあとに続こうとしたところで、背後から声が飛んだ。


「兄ちゃん! 忘れ物」


呼び止められ、振り向いたところへ小さな包みが差し出された。

何のことか分からず主人を見る。


「いいからいいから」


そのまま手へ押し込まれ、続けて値段まで告げられる。

手元の包みと主人の顔を見比べて、ようやく中身に気づいた。


リントはしばらくその顔を見ていたが、やがて口元を緩める。財布を取り出し、言われた分の硬貨を数えようとしたところで、主人がもう一度口を開いた。


「他にもいるだろ。日頃世話になってる人が」


硬貨を摘(つま)んでいた手が止まる。


「え? いや……まあ」


「女か?」


「え?」


主人はその反応だけで棚へ手を伸ばした。


「可愛い感じより、美人系だな?」


「ま、まあ……」


いくつかの箱を開け、品を取り出しては戻していく。


「色気もある」


「どういうことですか」


思わず目をそらすと、主人はにやりとした。


「なるほどな」


「いや、何が――」


「これと、これ……あとはこいつだ」


三つの腕輪を台の上へ並べた。細い金属を重ねたものや、小さな石をあしらったものなど、どれも細かな装飾が施されている。


「この辺だな。どれにする?」


「いや、そもそも買うとは――」


「リントさん?」


店先からヴェルナの声がした。

振り向けば、いつの間にか入口まで戻ってきている。


「待ってください、今行きます!」


リントは台へ向き直り、並んだ三つへ目を走らせた。

一番端にあった腕輪をすっと取り上げる。


「毎度あり」


主人は声を潜め、満足そうに受け取った。

手早く包まれた二つ目の品と合わせて代金を払い、リントは小さな包みを二つ懐(ふところ)へしまう。


「お待たせしました」


店先へ向かう背中に、今度は主人の威勢のいい声が飛んできた。


「また来てくれよな!」


リントは振り返らなかった。


「何かありました?」


「いえ。行きましょうか」


「はい」


ヴェルナはまた隣に並び、二人は人通りの増えた通りを歩き出した。


それからも気になった店を覗きながら歩いているうちに、陽は少しずつ西へ傾いていった。通りには夕食へ向かう人の姿が増え、食事処の前では客を呼び込む声が飛び交っている。朝とは違う賑わいの中、焼いた肉や香辛料の匂いがあちこちから漂ってきた。


広場まで戻ってきたところで、ヴェルナが足を止める。


「少し休みませんか?」


「そうですね。結構歩きましたし」


広場の端に空いていた長椅子を見つけ、二人で腰を下ろした。

リントが肩から革鞄を外して渡すと、ヴェルナは礼を言って中を覗き込む。


「花も無事です」


紙袋の中を確かめて安心したのか、鞄を膝(ひざ)の上へ置く。そのまま長椅子に腰掛けた足を、楽しげに小さく揺らした。


「果物も美味しかったですし、硝子(ガラス)細工も綺麗でした。あの革細工のお店では、リントさんの方が長く見ていましたよね。それに……花を作ることになるとは思っていませんでしたけど」


「あの腰袋、使いやすそうだったんですよ」


「やっぱり気になっていたんですね」


ヴェルナは小さく笑ったあと、膝(ひざ)の上の鞄へ目を落とす。

揺れていたつま先が、また小さく弾んだ。


広場の向こうでは、店先に明かりが灯り始めている。

二人の会話が途切れても、広場の賑わいだけが変わらず続いていた。


しばらくして、ヴェルナが隣を見る。


「……今日は、遠くないですね」


「え?」


ヴェルナはそれ以上何も言わず、柔らかく笑っている。


――今日は、少し遠いですね。


リントは広場へ目を向けた。

風が吹き抜け、隣でヴェルナの銀髪がさらりと揺れる。


「次はどこ行きますか?」


「え?」


今度はヴェルナが聞き返した。


「まだ時間ありますよね」


少し目を見開いていたヴェルナの顔に、嬉しそうな笑みが広がる。


「はい! では、あちらを見てもいいですか?」


鞄を肩に掛けて立ち上がり、広場から続く通りの一つを指した。


「行きましょうか」


リントも立ち上がる。


ヴェルナは自然とその隣へ並び、二人は夕暮れの通りへ歩き出した。

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