第13話「旅のお守り」
前回のあらすじ
街道で立ち往生していたダリオの荷馬車を預かり、彼の帰りを待つことにしたリントとヴェルナ。しかし夕刻が近づいてもダリオは戻らず、さらに雨まで降り始める。
二人は積荷を守るため、雨の中で荷物を木陰へ運び、油布で簡易の屋根を作る。
日が暮れるなか、ヴェルナは翌朝まで待つことを自ら決め、リントも護衛としてその場に残ることを選んだ。
夜、二人は火を囲んで食事を取る。その時間の中で、リントは誰かと食事をするのが「久しぶり」だと、思わず口にする。
やがてヴェルナが眠りにつくと、リントは一人で見張りを引き受けた。火の向こうに眠る彼女を前に、先ほど漏らした言葉をもう一度思い返しながら――少しだけ火から離れ、静かな夜の街道へ意識を戻した。
夜のあいだに雨はすっかり上がっていた。
木々の葉にはまだ雫が残り、ときおり朝の光を受けて細く落ちてくる。街道にはいくつもの水溜まりができ、昨夜二人で張った油布も、端からぽつり、ぽつりと水を垂らしていた。
焚き火はもう小さくなっていた。リントは油布の端に座り、剣を傍らへ置いたまま街道の先を見張っている。
やがて、静かな朝の街道に小さな音が混じった。
一定の間隔で繰り返されるそれに気づき、リントは身体を起こす。まだ遠いが、聞き間違えるような音ではない。
馬の蹄だ。
街道の先へ目を凝らしてから、リントは油布の奥へ戻った。
「ヴェルナ様」
外套に包まれて眠っているヴェルナのそばで、もう一度声を掛ける。
「ヴェルナ様、起きてください」
「……ん……」
しばらくして、青い瞳がゆっくりと開いた。
「……リントさん?」
「おはようございます。たぶん、ダリオさんです」
その言葉で、まだ眠そうだったヴェルナの目が開く。身体を起こしたところで、傍らに置かれているものに気づいた。
昨夜、火のそばへ掛けていた服が乾き、きれいに畳まれている。
ヴェルナは畳まれた服に触れ、それから油布の端に立つリントの背中へ目を向けた。
「ヴェルナ様?」
「……すぐに支度します」
外套を畳み、乾いた服を手に取る。身支度を済ませて二人で油布の端へ出る頃には、蹄の音もはっきりと聞こえるようになっていた。
朝靄の残る街道の先から、一頭の馬が近づいてくる。泥を跳ね上げながら駆ける人影に気づき、ヴェルナが前へ出た。
やがて馬上の男も二人に気づく。
「おおーい!」
「ダリオさん!」
馬が近くまで来ると、ダリオは手綱を引いた。勢いよく地面へ降りたものの、一晩中動き回っていたのか、その顔には疲れが残っている。
「すまねえ! 遅くなった!」
「無事だったんですね」
「ああ。村までは行けたんだが、職人が別のところに出ててな。戻るの待ってたら夜になっちまった」
そこまで言って、ダリオの視線が荷馬車の脇へ向いた。
木々の間に張られた油布。その下には、昨日まで荷台に積まれていた荷が種類ごとにまとめられている。
「……これ、二人でやったのか?」
「雨が降ってきたので。このままでは濡れてしまうと思いまして」
ヴェルナが答えると、ダリオはしばらく積荷を見ていた。紙を収めた木箱も、乾燥品の包みも、昨夜運び込んだまま無事に残っている。
「いや……助かった。本当に助かったよ。これ駄目にしてたら、修理代どころの話じゃなかった」
リントが荷馬車へ目を向ける。
「それで、車輪はどうなりました?」
「ああ、それなんだが――」
ダリオは馬の鞍に括りつけていた荷を示した。
職人を連れてくることはできなかったが、応急修理に必要な道具と材料を借り、やり方も聞いてきたらしい。完全に直すことはできなくても、近くの村まで荷馬車を動かす程度なら何とかなるという。
「じゃあ、俺たちはそろそろ行かないとですね」
「はい」
ヴェルナも頷く。
ロイドがリューデンを発つのは今日の夕方。昨日の遅れを取り戻すなら、ここで時間を使っている余裕はない。
それでも、二人は油布の下へ避難させていた荷を戻すところまでは手伝った。最後の木箱を荷台へ積み終えたところで、ダリオが「ああ、そうだ」と自分の鞄を探る。
取り出したのは、細い紐の先に小さな木飾りがついたものだった。
「……よろしいのですか?」
「大したもんじゃねえよ。旅に出るときに持ってくような、お守りみたいなもんだ。昨日の礼にしちゃ安いけどな」
「ですが、ダリオさんのお守りなのでは……」
「いいさ、受け取ってくれ」
ダリオはそう言って、ヴェルナへもう一度差し出した。
ヴェルナが隣のリントへ顔を向けると、リントも小さく頷く。
「せっかくですし、いただきましょうか」
「……はい」
ヴェルナは差し出されたお守りを両手で受け取った。
「ありがとうございます。大切にします」
「あぁ、そうしてくれ」
笑うダリオにもう一度礼を告げ、ヴェルナは小さなお守りを革鞄へしまった。
「それじゃ、俺たちはそろそろ行きます」
「引き止めて悪かったな」
「いえ。ダリオさんも、お気をつけて」
ヴェルナが頭を下げると、ダリオは片手を上げた。
「二人もな。またどっかで会ったら、そのときは飯くらい奢らせてくれ」
「ふふっ。では、そのときはお願いします」
「覚えといてくれよ?」
「はい」
リントも軽く手を上げる。
「じゃあ、また」
「ああ。またな!」
背中にダリオの声を受けながら、二人は街道を歩き出した。
雨上がりの道は、乾き始めてからもところどころに深いぬかるみを残していた。足を取られそうな場所を避け、休憩も必要な分だけに留めて歩き続ける。
昼を過ぎ、傾き始めた陽が背後から二人の影を長く伸ばす頃になっても、リューデンの姿はまだ見えなかった。
やがて空に残る明るさまで薄れ始めた頃、長く続いていた街道の先に外壁が見えてくる。
「見えてきました」
ヴェルナの声に、リントも顔を上げた。
街を囲う壁の向こうには、大小さまざまな屋根が重なっている。その間から灯りがひとつ、またひとつと増え始めていた。
門へ近づくにつれ、二人の周囲にも人が増えていく。前を行く荷馬車に追いついたかと思えば、反対からは空になった荷台を引く馬がやってくる。道の端へ寄ってそれを避け、二人はようやく門をくぐった。
土だった街道が、そこで石敷きへ変わった。
一日の終わりが近いというのに、人の流れはまだ途切れていなかった。荷を積んだ馬車が二人の脇を通り過ぎ、その向こうでは商人が店先の品を片づけながら、最後まで残っていた客と言葉を交わしている。
ヴェルナは歩調を緩めないまま、通りの先へ目を向けた。
「以前来たときも、こんな時間まで賑わっていました」
「交易都市ってだけありますね」
「はい。ただ……」
軒先に吊られた色鮮やかな布が、店じまいのために一本ずつ外されていく。その隣では、籠いっぱいに積まれていた果物を店の奥へ運び込んでいた。少し先から漂ってきた焼いた肉の匂いに、行き交う人の声が重なる。
ヴェルナはその間を通り過ぎながら、もう一度だけ店先へ目を向けた。
「こうして歩くのは、初めてかもしれません」
リントが隣を見る。
けれどヴェルナはそれ以上続けず、肩に掛けた革鞄へ手を添えた。
「ロイド商会へ急ぎましょう。もう、予定の時間を過ぎています」
「そうですね」
二人は人の流れを避けながら、大通りを先へ進んだ。
何度か荷車をやり過ごし、店先へ広げられた木箱を避けて歩く。ヴェルナは時折周囲を確かめながらも足を止めることはなく、やがて通りの先に見えてきた建物を指した。
「あそこです」
周囲より一回り大きな建物の前には、まだ数台の荷車が停まっていた。商会の名が刻まれた看板の下では、男たちが残った木箱を中へ運び込んでいる。
リントが看板を確かめ、ようやく息を吐いた。
「間に合いましたね」
「……まだです」
ヴェルナは革鞄へ添えていた手を離さなかった。
ここまで運んできた品物を届けるだけなら、目的地には着いた。けれど鞄の中には、父から預かった封書が残っている。それだけは、ロイド本人へ直接渡すよう言われていた。
「ロイド様に、お会いしないと」
「……そうでしたね」
二人はそのまま商会の入口へ向かった。
扉の向こうでは、帳簿や荷を抱えた商会員がまだ慌ただしく行き来している。
ヴェルナは肩の革鞄を一度確かめ、リントとともに中へ足を踏み入れた。
壁際には大小の木箱が積まれ、奥ではまだ何人もの商会員が荷を運んでいた。入口近くの机へ向かうと、帳簿を広げていた男が二人に気づいて顔を上げる。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「ローゼンフェルトから、こちらへお届けする品をお預かりしてきました。ローズベルグ家からです」
ヴェルナが革鞄から書類を取り出して差し出す。
商会員は受け取った書類へ目を通し、手元の帳簿を何頁かめくった。
「ああ、お待ちしておりました」
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いえ。品物を確認させていただきます」
ヴェルナは革鞄を開き、中から布に包まれた小さな荷を取り出した。
机の上へ置かれた包みの紐を、商会員が解いていく。中から取り出した品を一つずつ書類と照らし合わせ、状態を確かめては元の場所へ戻していった。
最後の一つを戻すと、商会員は包みの内側にも目を通し、書類へ印をつける。
「濡れた跡もありません。すべて問題ありませんね」
「……よかった」
ヴェルナの口元が、わずかに緩んだ。
「確かにお預かりしました。こちらが受領書になります」
「ありがとうございます」
差し出された書類を受け取り、ヴェルナは革鞄へしまう。そのまま留め具を閉じかけたところで、もう一度鞄の中へ手を入れた。
「あの、もう一つよろしいでしょうか」
取り出したのは、品物とは別にしまっていた一通の封書だった。
「ロイド様へ、父から預かっているものがあります。直接お渡しするよう言われているのですが、まだこちらにいらっしゃいますか?」
商会員は封書へ目を向けると、少し困ったように眉を寄せた。
「……申し訳ありません。ロイドは、少し前に出発しました」
「え……」
ヴェルナの表情が変わる。
「もう、出られたのですか? 街の外へは……?」
「いえ。南門で護衛と合流してから街を出る予定ですので、まだその辺りにはいると思います。ただ、そろそろ出てもおかしくありません」
ヴェルナは反射的に入口へ目を向けた。
外はもう暗くなり始めている。
封書を革鞄へ戻し、留め具を閉じる。
「南門へは、ここからどのくらいでしょうか」
「少しかかります。この通りを真っ直ぐ行って、二つ目の広場を右へ。その先に門が見えます」
商会員が手で方角を示す。
ヴェルナは道順を確かめるように一度頷き、頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げたときには、リントがすでに入口へ向かっていた。
「ヴェルナ様」
呼ばれ、ヴェルナもすぐにその後を追う。
商会を出ると、先ほどより夜の色が濃くなっていた。
まだ人の多い通りへリントが先に入り、正面から来る男を避ける。荷車が横切ったところで足を止め、その後ろが空くと同時に進んだ。
ヴェルナも遅れずについていく。
さっきまで目に留まっていた店先も、通りに漂う食べ物の匂いも、今度は二人の足を止めなかった。
南門が近づくにつれ、通りを行き交う人よりも、街を出ようとする荷馬車の姿が目立つようになった。
門の手前には何台もの馬車が停まり、その周囲では護衛らしい者たちが装備を確かめ、商人たちが出発前のやり取りを交わしている。
ヴェルナは走る足を緩め、並んだ馬車の向こうまで目を巡らせた。
「……まだ、いらっしゃるでしょうか」
商会を出てから、それほど時間は経っていない。それでも、すでに街を出てしまった可能性はある。
リントは人の間を見渡しながら、近くにいた男のもとへ向かった。ちょうど一台の荷馬車のそばで、手にした書類と積荷を照らし合わせている。
「すみません」
声を掛けると、男が書類から顔を上げた。
「ロイドさんの一行って、もう出ましたか?」
「いや、まだだ」
その答えに、後ろから追いついたヴェルナが小さく息を吐く。
「どの辺りにいるか分かります?」
リントが続けて尋ねると、男は少しだけ不思議そうな顔をした。
「ロイドなら私だが」
「……あ」
リントの言葉が止まった。
「あなたが、ロイド様ですか?」
「ええ。そうですが」
ロイドは手にしていた書類を下ろし、二人へ向き直った。
ヴェルナは走って乱れた呼吸を整えてから、その正面へ立つ。
「突然お引き止めして、申し訳ありません。ヴェルナ・ローズベルグと申します」
名乗るとともに片手を胸元へ上げ、指に嵌めた指輪をロイドへ示した。ローズベルグ家の紋章が刻まれた、家の者であることを示す指輪だった。
ロイドの視線が、その紋章に留まる。
やがて顔を上げると、今度はヴェルナを確かめるように見つめた。
「……ヴェルナ様?」
予想していなかった呼ばれ方に、ヴェルナの青い瞳がわずかに揺れる。
「私をご存じなのですか?」
「ええ。もっとも、最後にお会いしたのは随分と昔ですが」
そう答えたロイドの顔には、まだ驚きが残っていた。
「まさか、こんなところでお会いするとは……」
ヴェルナはその言葉に戸惑いながらも、今は尋ねたいことを胸に留めた。ここまで走ってきた理由を思い出し、肩に掛けていた革鞄へ手を伸ばす。
「実は、ロイド様へお渡しするものがあって参りました」
鞄から取り出した封書を、両手で差し出す。
「父からです。必ずロイド様へ直接お渡しするようにと」
ロイドは差し出された封書を受け取り、表書きへ目を落とした。
そこに記された名をしばらく見つめてから、懐かしむように目を細める。
「これはまた……懐かしい方から」
指先で封を確かめると、ロイドは近くにいた商会員へ一言声を掛けた。
出発の準備は、すぐそばで今も続いている。
その中でロイドは封を開き、エドワードから届いた手紙へ目を落とした。
出発を待つ馬が蹄を鳴らし、少し離れたところでは荷を積み終えた男たちが最後の確認を続けている。ロイドは周囲の声にも顔を上げることなく読み進め、最後まで目を通してから、折り目に沿って手紙を元の形へ戻した。
「なるほど……」
封筒へ収めながらヴェルナへ目を向けたロイドが、ふと懐かしそうに目を細める。
「こうして改めて見ると、面影がありますね」
「面影……ですか?」
「ええ。お母上の」
思いがけず母のことを口にされ、ヴェルナの表情に驚きが浮かんだ。
「母を、ご存じなのですか?」
「もちろんです。エドワード伯爵には、私がまだ駆け出しの商人だった頃から随分と目を掛けていただきましたから。お屋敷へ伺ったことも、一度や二度ではありません」
「では、私とも……?」
「何度かお会いしていますよ。もっとも、本当に小さな頃です。覚えていらっしゃらないのも当然でしょう」
ロイドは昔を思い出しているのか、その顔には柔らかな笑みが残っていた。
「それにしても、随分とお美しくなられましたね。あの頃は、まだお父上のそばにいらっしゃる小さなお嬢様でしたから」
「え……あ、ありがとうございます」
不意を突かれたヴェルナの返事がわずかに遅れる。
「そんなに小さな頃だったのですね……」
「ええ。こうしてお会いすると、時が経ったことを実感しますね」
話しているうちに、ロイドはヴェルナが旅装のままであることに気づいたらしい。
「ところで、ここまでは馬車でいらしたのですか?」
「いえ。ローゼンフェルトから歩いて参りました」
「……歩いて?」
聞き返した声には、隠しきれない驚きが混じっていた。ロイドはヴェルナの旅装を改めて見てから、その少し後ろにいるリントへも目を向ける。
「はい。途中で少し予定外のこともありまして、到着が遅くなってしまいましたが……」
「それはお疲れでしょう。ローゼンフェルトからとなれば、決して近い距離ではありません」
そこへ、出発の準備をしていた男からロイドを呼ぶ声が飛んだ。
「会長、そろそろ出られます!」
「ああ、分かった。すぐ行く」
返事をしたロイドは、申し訳なさそうに二人へ向き直った。
「せっかくお会いできたというのに、私はこれから外せない所用がありましてね。戻るのは明日の夜になる予定なのです」
「いえ、お引き止めしてしまったのはこちらですから」
「ですが、ローゼンフェルトから歩いてこられたお二人を、こんな時間から宿探しに向かわせるわけにもいきません。今夜の宿はこちらで用意させてください」
「ですが、そこまでしていただくわけには……」
「遠慮なさらず。古い恩人のお嬢様に宿の一つも用意しなかったと知れたら、私の方がエドワード伯爵に顔向けできませんよ」
冗談めかした言葉に、ヴェルナもようやく表情を緩めた。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ええ。そうしてください。それと、エドワード伯爵からは、急いで帰らせる必要はないとも言われています。せっかくリューデンまで来たのだから、少しくらいゆっくりさせてやってほしい、と」
「お父様が?」
「私としても、久しぶりにお会いしたヴェルナ様をこのままお帰しするのは寂しいものです。明日はどうしてもこちらへ戻れませんが、明後日なら時間を作れます」
そこでロイドは、頼む側であるかのようにヴェルナへ笑いかけた。
「よろしければ、二日ほどリューデンに滞在していただけませんか。明後日はぜひ、私にもおもてなしをさせてください」
「二日、ですか……」
今度はヴェルナの視線が、街の方へ向いた。
ここまで来る途中、足を止めることなく通り過ぎてきた店々には、まだ明かりが残っている。しばらくそちらを眺めていたヴェルナは、やがてロイドへ向き直った。
「では……もう少しだけ、お世話になってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ロイドは近くにいた商会員を呼び止め、紙と筆記具を持ってくるよう頼んだ。
ほどなくして渡された紙を荷馬車脇の木箱へ広げると、さらさらと筆を走らせていく。
ヴェルナが何を書いているのだろうと見守っているうちにも筆は止まらず、最後に署名を入れると、二つに折って彼女へ差し出した。
「これを商会の者へ渡してください。宿の手配から滞在中のことまで、分かるようにしてあります」
「滞在中のことまで、ですか?」
「何か必要なものがあれば、遠慮なく商会の者へ申しつけてください。もちろん、費用についても気にする必要はありません」
そこまで聞いて、ヴェルナはさすがに戸惑った。
「そんな……そこまでしていただくわけには」
「そこまでさせていただきたいのですよ」
困ったように笑うロイドの声は、それでも譲るつもりがないことを伝えていた。
「昔いただいた恩を考えれば、これでも足りないくらいです。エドワード伯爵には、私が何も持っていなかった頃から何かと助けていただきましたから」
ヴェルナはしばらくロイドを見つめていたが、やがて小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
受け取った紙を、父の封書を入れていた革鞄へ丁寧にしまう。
「明後日には私も戻ります。そのときは、今度こそゆっくりお話ししましょう」
「はい。楽しみにしています」
再び出発を促す声が掛かり、ロイドはそちらを振り返って苦笑した。
「どうやら、これ以上待たせると叱られそうです」
「お忙しいところ、お引き止めして申し訳ありませんでした」
「とんでもない。お会いできてよかった」
ロイドはヴェルナへそう返してから、今度はリントにも目を向けた。
「道中、ご苦労でした」
「いえ。仕事ですから」
リントが軽く頭を下げる。
ロイドが荷馬車の方へ戻っていくと、ヴェルナは遠ざかる背中をしばらく見送っていた。
「……父に、あんな古いお知り合いがいたんですね」
「みたいですね」
「母のことまでご存じでした」
ヴェルナは革鞄へそっと手を添えた。
リントは来た道へ向き直り、商会へ戻る人の流れへ足を踏み出した。
「戻りましょうか。その紙、見せないと」
「はい」
商会へ戻った頃には、通りに面した店の多くが明かりを灯していた。
先ほど応対した商会員を見つけ、ヴェルナがロイドから預かった紙を差し出す。男は書かれている内容を追っていたが、途中で一度顔を上げた。
「……会長が、こちらを?」
「はい。お渡しすれば分かると」
改めて紙へ目を落とした商会員は、最後まで読み終えると丁寧に折り直した。
「承知しました。お宿はこちらで手配いたします。それから、夕食はまだお済みではありませんよね?」
「はい。まだです」
「お食事についても書かれております。会長からは近くの店を用意するようにとのことですが、お二人とも長旅でお疲れでしょう。ご希望でしたら、宿で召し上がれるようにすることもできます」
ヴェルナは思わず商会員の手元にある紙を見た。
「そこまでしていただいて、よろしいのですか?」
「ええ。会長からも、ぜひお店でゆっくり召し上がっていただくように、と」
「では……せっかくですから、お店の方をお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。すぐに手配いたします」
商会員は近くにいた者を呼び、宿と食事の手配を先に伝えるよう指示した。呼ばれた男が足早に商会を出ていくのを見送っていると、隣にいたヴェルナがリントへ顔を向ける。
「これでようやく一息つけますね。美味しいものもいただけそうです」
そう言って笑うと、青い瞳が柔らかく細められた。銀の髪には店内の灯りが淡く映っている。
「…………」
「リントさん?」
「……はい」
ヴェルナは不思議そうに瞬きをしたものの、それ以上は気に留めず、商会員から宿の場所を聞いている。
やがて礼を告げて外へ出ると、すっかり夜の色に変わった通りには、昼間とは違うリューデンの賑わいが広がっていた。
案内された宿は、商会から歩いてそれほどかからなかった。
大通りを一本入った先に建つ三階建ての建物には、大きな窓が等間隔に並び、入口の両脇では硝子に覆われた灯りが夜道を照らしている。開かれた扉の向こうには厚い敷物が伸び、その奥では身なりの整った従業員が客を迎えていた。
建物の前まで来たところで、リントの足が鈍る。
「……ここ、ですか?」
「そうみたいですね」
ヴェルナも宿を見上げ、わずかに目を見張った。
「思っていたより、ずっと良いところを用意してくださったみたいですね」
「良いところっていうか……」
リントはまだ入口の前から動かない。
「俺、本当にここ泊まっていいんですかね」
「ロイド様が用意してくださったんですから、大丈夫だと思いますよ?」
「いや、そうなんですけど……」
そんなリントを見て、ヴェルナがくすりと笑った。
「少し意外です。リントさんにも、こういう苦手なものがあるんですね」
「苦手っていうか……慣れてないだけです」
そう返しながらも、リントの足はまだ入口の手前にあった。
「…………」
一度だけ息を吐くと、リントは今度こそ入口へ足を向けた。
「行きましょうか」
「はい」
隣へ並んだヴェルナは、まだ少しだけ口元に笑みを残していた。
扉をくぐってロイド商会の名を告げると、すでに話は通っていた。二人分の部屋だけでなく食事の手配まで済んでおり、荷物を置いたあと、一階で待つ従業員が店まで案内してくれるという。
鍵を受け取り二階へ上がると、用意された部屋は廊下を挟んで向かいにあった。
「では、少ししたら下で」
「はい」
部屋を見渡すと一人で使うには十分すぎる寝台に、窓際には小さな机と椅子。水差しや清潔な布まで揃えられた室内を前にすると、宿へ入るまでに固めたはずの覚悟が少しだけ揺らいだ。
剣をいつものように寝台の脇へ置く。
「……落ち着かないな」
誰に聞かせるでもなく漏らし、リントは顔を洗った。
雨上がりの街道を歩き続けた汚れを落とし、服もできる範囲で整えて階下へ戻る。
しばらくして、階段からヴェルナが降りてきた。
旅装は部屋へ置いてきたらしく、身につけているのは淡い色のワンピースだけだった。結い直された銀の髪が、歩くたびに肩から背へ柔らかく揺れている。
階下にいたリントを見つけると、ヴェルナは嬉しそうに笑った。
「お待たせしました」
「……いえ」
返事が、ほんの一拍だけ遅れる。
ヴェルナは不思議そうに瞬きをしたものの、すぐにまた、にっこりと笑った。
「行きましょうか」
「はい」
階段を下りきったヴェルナが、ごく自然にリントの隣へ並ぶ。待っていた従業員に案内され、二人は宿を出た。
店までは歩いてすぐだった。
扉を開けると、外の夜気に代わって、料理の香りと暖かな空気が二人を迎えた。遅い時間にもかかわらず店内にはまだ何組かの客が残っていたが、ロイド商会から話が通っていたらしく、二人は奥の静かな席へ案内された。
腰を下ろしてほどなく、湯気の立つスープと焼きたてのパンが運ばれてくる。そのあとには香草を添えて焼いた肉と野菜まで並び、ヴェルナが嬉しそうに料理を見渡した。
「……美味しそうです」
「今日は随分豪華ですね」
「はい。昨日はパンと干し肉でしたから」
そう言いながらも、ヴェルナはどこか楽しそうだった。
「でも、昨日のも美味しかったですよ」
「そうですか?」
「はい。たくさん歩いたからでしょうか。いつもよりお腹も空いていましたし」
ヴェルナはスープをひと口飲んだ。
そのまま、もうひと口。
向かいで見ていたリントの口元が緩んだ。
「……何ですか?」
「いえ。美味しそうに食べるなと思って」
ヴェルナは一度、手元のスープへ目を落とした。
「……美味しいですよ?」
「はい」
「リントさんも、冷める前に食べた方がいいです」
「そうします」
ヴェルナはそれで納得したのか、またスープを口へ運んだ。
今日見た街のことや、思いがけず会えたロイドのこと。幼い頃のヴェルナを覚えていたことまで、思いつくままに話しているうちに、皿の上の料理も少しずつ減っていった。
いつからか、ヴェルナの返事にも間が空くようになっていた。
リントが水を口にしていると、向かいで一度、ゆっくりと瞬きをする。しばらくして、また一度。今度は目元へ指を添えたまま、なかなか手が離れなかった。
「……ヴェルナ様、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
返事はすぐに返ってきたものの、その直後に口元へ手が添えられる。小さな欠伸をどうにか隠してから、ヴェルナは少し気まずそうにリントを見た。
「……すみません」
「今日はもう、お休みになった方がいいですよ」
ヴェルナは眠たげな目のまま、素直に頷いた。
「そうですね……。少し、疲れちゃいましたね」
「朝からずっと歩いてましたからね」
「リントさんもでしょう?」
「俺は大丈夫ですよ」
「昨日も、そう言っていました」
眠気のせいか、いつもより柔らかな声だった。
「昨日は一晩中、見張ってくださったでしょう。ですから今日は、リントさんもちゃんと休んでくださいね」
「……はい。今日はちゃんと休みます」
それを聞いたヴェルナの目元が、ふっと緩んだ。
「なら、よかったです」
眠たげに目を細めて、にっこりと笑う。
リントは返事の代わりに、残っていた水へ手を伸ばした。
「リントさん?」
「……いえ」
杯を口へ運び、一口飲む。そのまま、さっきまでよりほんの少しだけ視線を落とした。
食事を終えて店を出ると、夜の通りは来たときよりも静かになっていた。
宿までの短い道を並んで歩く。ヴェルナは途中でもう一度欠伸を堪えていたが、リントがそちらを見ると、何でもないように歩調を戻した。
二階へ上がり、向かい合った部屋の前で足を止める。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ。無事に着けてよかったです」
「はい」
ヴェルナは柔らかく笑った。
「では、おやすみなさい。リントさん」
「おやすみなさい」
扉へ手を掛けたところで、ヴェルナが振り返る。
「ちゃんと休んでくださいね」
「ありがとうございます。ヴェルナ様も」
「はい」
眠たげに笑って、ヴェルナは扉を開いた。
「では、また明日」
「……はい。おやすみなさい」
扉が静かに閉じた。




