第12話「雨宿りの夜」
前回のあらすじ
異形の魔物との遭遇から三週間。
ヴェルナは父エドワードから、交易都市リューデンのロイド商会へ試料と封書を届ける役目を任される。その護衛として現れたのは、傷を癒し依頼へ復帰したリントだった。
三週間ぶりに再会した二人は、以前とは少し変わった互いの距離を感じながらリューデンへ向かう。
その途中、二人は街道で荷馬車の車輪を壊した狼族の男・ダリオと出会う。困っている彼を放っておけず、ヴェルナはダリオが修理道具を取りに行く間、荷馬車を預かることを自ら選んだ。
しかし、思っていた以上に時間が過ぎてもダリオは戻らない。
自分の見通しが甘かったことに気づきながらも、ヴェルナは彼が無事に戻るまで待つことを改めて選ぶ。
やがて西の空を灰色の雲が覆い、街道には雨が降り始める。
風は次第に強くなっていくが、ダリオの馬が戻ってくる音は、まだ聞こえてこなかった。
雨粒が、木々の葉を叩き始めた。
初めのうちは、街道に点々と濃い染みを作る程度だった。けれど西から吹く風に押されるようにして、その数は次第に増えていく。
「ひとまず、あちらへ移りましょう」
リントが示したのは、街道脇に続く木立だった。枝葉の重なった場所なら、今の雨程度は凌げそうだった。
ヴェルナも頷き、二人はダリオの荷馬車から離れすぎない場所まで移動する。太い幹の下へ入ると、頭上で葉を打つ雨音が幾重にも重なった。
「思ったより降ってきましたね」
「ですね。これくらいで止んでくれればいいんですけど」
リントは木の幹へ背を預けることなく、街道の西側を窺っていた。
先ほどまで遠くまで見えていた道は、降り始めた雨によって少しずつ霞み始めている。そこへ馬の姿が現れる気配はない。
ヴェルナは肩に掛けた革鞄を身体の前へ回した。蓋を覆うように手を添え、木陰からはみ出さない位置へ寄る。
風が枝を揺らした。
葉の隙間から落ちた大粒の雫が、ヴェルナの袖へ当たる。
「あ……」
腕に残った濃い染みを払おうとしたところで、今度は数滴が肩へ落ちた。
リントが頭上を確かめる。
「もうちょっと奥に入りましょうか。風向きが変わってきてます」
二人が幹の反対側へ回った直後だった。
ざあ、と音が変わった。
街道の土を細かく叩いていた雨が、一息に白く煙る。枝葉を抜けてくる雫も増え、つい先ほどまで雨宿りになっていた木陰へまで吹き込んできた。
リントは片手を伸ばし、ヴェルナを幹の陰へ寄せた。
「ここならまだ――」
言いかけた声が止まる。
街道に残された荷馬車。その傾いた荷台では、積み重ねられた荷が横殴りの雨に晒されていた。
木箱ならまだいい。だが、その間には紙で包まれた束や麻袋も見えている。荷台の端に積まれていた袋は、すでに雨を吸って表面の色が変わり始めていた。
「……まずいな」
リントは木陰から飛び出した。
「リントさん?」
荷馬車へ駆け寄ると、濡れた板へ足を掛けないよう身体を寄せて荷台へ手を伸ばす。積荷の一つを引き出すと、麻袋の口から独特の青臭さを残した乾燥葉が覗いた。
煙草の葉だ。
隣には紙を束ねた荷もある。その奥には布で包まれた品まで積まれている。
「……こっちが先だな」
煙草の葉が入った袋を肩へ担ぎ、リントは木立へ引き返した。
「ヴェルナ様、もう少し奥にいてください!」
雨音に負けないよう声を張り、袋を太い幹の根元へ下ろす。
「私も手伝います!」
「大丈夫です! ヴェルナ様は濡れないようにしててください!」
それだけ伝えると、すぐに雨の中へ戻っていく。
ヴェルナの伸ばしかけた手だけが、その場に残った。
リントは荷台から紙の束を抱え、両腕で胸へ押しつけるようにして戻ってくる。木の根を跨ぎ、雨の吹き込みにくい場所へ下ろすと、そのまま三度目の往復へ向かった。
雨はさらに激しくなっていた。
髪から水を滴らせながら荷台へ身を乗り上げ、今度は木箱を一つ抱える。持ち上げた拍子に隣の包みが傾き、咄嗟に膝を差し込んで支えた。
「……危なかった」
木箱を抱えたままでは戻せない。いったん元の場所へ下ろし、傾いた包みを押し込んでから、もう一度持ち上げる。
その頃には、上着の肩から背中まで完全に色が変わっていた。
木陰に残っていたヴェルナは、肩に掛けていた革鞄を太い幹の根元へ置いた。雨の吹き込まない側へ押し込み、その上から外套を掛ける。
スカートの裾を片手で持ち上げると、雨の中へ踏み出した。
「ヴェルナ様!」
戻ってきたリントの横を抜け、ヴェルナは荷馬車まで走る。荷台の端に置かれていた小さな包みへ両手を掛けた。
「これなら、私でも運べます!」
「でも、ヴェルナ様まで濡れちゃいますよ! 俺がやりますから!」
「リントさん一人では、全部濡れてしまいます!」
持ち上げた包みが思ったより重かったのか、ヴェルナの腕が沈んだ。
それでも手を離さない。抱え方を変え、胸元へ引き寄せる。
雨に濡れた髪が頬へ張りついていた。
「早く運びましょう!」
雨は荷台へ容赦なく降り込み、紙包みの端にも濃い染みが広がり始めている。
リントもそれ以上は止めなかった。
「……分かりました! じゃあ、軽いものだけお願いします! 足元には気をつけてください!」
「はい!」
ヴェルナは包みを抱え、木立へ向かう。
慣れない重さに歩幅は小さい。それでも濡れた地面を一歩ずつ踏みしめながら、荷物を木陰まで運んでいった。
リントも木箱を抱え直し、そのあとに続いた。
木陰へ戻ったヴェルナは、抱えていた包みを先ほどの紙束の隣へ下ろした。息をつく間もなく荷馬車へ引き返そうとすると、リントが木箱を抱えたまま横を通り過ぎる。
「次、荷台の手前にある小さい箱お願いします!」
「分かりました!」
雨音の中で声を交わし、再び別々に動き出す。
ヴェルナは荷台の縁へ手を掛け、指定された木箱を両腕で抱える。先ほどの包みより持ちやすい。それでも濡れた土に靴を取られないよう、一歩ずつ木立との間を往復した。
その横を、リントが大きな麻袋を肩に担いで追い抜いていく。
荷物を下ろしては戻り、また運ぶ。
何度目かの往復で、ヴェルナのスカートは膝から下がすっかり雨を吸っていた。
「リントさん! これはどちらへ?」
「紙なら奥にお願いします! 濡れてないやつと一緒に!」
「はい!」
木立の下には、二人が運び込んだ荷が増えていく。
だが、頭上の枝葉だけでは十分ではなかった。風に煽られた雨が横から吹き込み、積み上げた木箱の側面にも細かな水滴が付き始めている。
荷台へ戻ったリントは、次に運ぶものを探して手を伸ばし――奥に押し込まれていた大きな布の束を引っ張り出した。
厚手の油布だった。
広げれば、運び出した荷を覆えるだけの大きさはある。
「ヴェルナ様! これ、ちょっと持ってもらえますか!」
リントが片側を抱えて木立へ走り、ヴェルナも反対側を受け取る。二人で広げた途端、風を受けた油布が大きく膨らんだ。
「きゃっ……!」
腕を引かれたヴェルナが、両手で油布を掴んだまま踏ん張る。リントは積荷の脇にあった紐を使い、近くに並ぶ二本の木へ片側ずつ括りつけていった。
「こちらは、もう少し高くしますか!」
「お願いします! その辺りなら――あ、そこです!」
背伸びをして持ち上げられた端を受け取り、一方を高く、もう一方を低くして張る。最後に紐を強く引くと、油布を叩いた雨粒が傾斜を伝い、低い側から流れ落ちていった。
「これならいけそうですね」
リントが屋根の下へ入ると、ヴェルナも続いた。完全に雨を防げるわけではないが、少なくとも積荷へ直接降り注ぐ雨は止められる。
「まだ残っていますよね」
「ですね。あと少しです!」
二人は再び荷馬車へ戻った。油布の屋根ができたとはいえ、荷台に残っているものまで雨から守れるわけではない。リントは紙を詰めた木箱を抱え、ヴェルナには比較的軽い乾燥品の包みを任せた。
「これは、どちらへ?」
「紙の箱から離して、その辺にお願いします!」
「分かりました!」
雨音に負けないよう声を掛け合いながら、次の荷物を取りに戻る。ヴェルナの歩みはリントほど速くない。それでも軽いものを選びながら何度も行き来し、油布の下には少しずつ荷が積み上がっていった。
最後に残った麻袋をリントが肩へ担ぐ。荷台を降りたところで泥へ沈んだ靴が滑り、肩の袋ごと身体が傾いた。
「っと……!」
踏み直した足でどうにか持ちこたえ、そのまま油布の下まで運び込む。少し遅れて、ヴェルナも最後の包みを抱えて戻ってきた。
今度は、置き場所を尋ねなかった。
先ほどまで自分が運んでいた乾燥品のそばへ包みを置き、崩れかけていた端を揃える。荷馬車へ戻る必要がなくなったところで、ようやく二人の慌ただしい往復が終わった。
リントは濡れた髪を掻き上げ、息を吐いた。
ヴェルナもその隣で呼吸を整えている。銀髪は雨を含んで首筋へ張りつき、外套を革鞄へ掛けてきたせいで、服の肩から袖まで濡れて色が変わっていた。
「……結局、びしょ濡れになっちゃいましたね」
「リントさんもです」
「俺はまあ、慣れてるんで」
そう答えながら、リントは油布の外へ目をやった。
雨に霞んだ街道は、先ほどより暗い。木々の向こうに残っていた昼の明るさも、いつの間にか薄れ始めていた。
ダリオは、まだ戻っていなかった。
「……ヴェルナ様」
雨音に紛れない程度に声を上げると、ヴェルナも油布の端まで寄ってきた。西へ続く道は木々の間から暗さに沈み始め、この先、雨が弱まったとしても明るくなることはない。
「そろそろ、どうするか決めた方がよさそうですね」
「……そうですね」
ヴェルナは肩に掛けた革鞄へ手を添えた。
本来なら、この先でもう一泊して、明日の午前にはリューデンへ着く予定だった。ロイドが街を発つのは明日の夕方。それまでに試料を届け、父から預かった封書を本人へ渡さなければならない。
「今から出発して、リューデンへ向かうことはできますか?」
「行けないことはないです」
リントは油布の外へ片足を出し、ぬかるみ始めた地面を靴底で踏んだ。雨は弱まる気配もなく、街道にはところどころ水が溜まり始めている。
「でも、この雨の中をヴェルナ様に歩いてもらうのは、ちょっと……。もう暗くなってきてますし、足元もかなり悪いですから」
「では……」
ヴェルナは肩に掛けた革鞄へ手を添えたまま、油布の下に積まれた荷へ目を移す。
「私がここで荷物をお預かりします。リントさんだけでも、先にリューデンへ向かっていただくことは――」
「それは駄目です」
返事は、最後まで聞くより早かった。
「ヴェルナ様の護衛で来てるんで。一人残していくわけにはいきません」
「……やっぱり、駄目ですよね……」
ヴェルナは革鞄に添えていた手を下ろした。
その声を聞いて、リントの表情がわずかに揺れる。
「……すみません。ちょっと、強く言いすぎました」
「いえ……。リントさんのお仕事を考えれば、当然です」
「その……ヴェルナ様の考えを否定したかったわけじゃなくて。俺がここにいるのは、ヴェルナ様を護衛するためなので……」
そこまで言ったところで、リントの言葉が少し歯切れを失った。
ヴェルナはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振る。
「大丈夫です。分かっています」
「……はい」
油布を叩く雨音が、再び二人の間を満たす。ヴェルナは革鞄へ手を戻すと、今度は足元に積まれた荷を見渡した。
「ダリオさんを探しに行くのも……難しいですよね」
「そうですね。村までの道を俺たちは知りませんし、この暗さだと探しに行く方が危ないと思います」
戻ってくるダリオと途中ですれ違う可能性もある。それに二人でここを離れれば、預かった荷を置いていくことになる。
ヴェルナはすぐには答えなかった。
父から預かった革鞄。二人で雨から守ったダリオの荷。そして暗さを増していく街道。その一つ一つを確かめるように時間を置いてから、ようやく口を開いた。
「……ここで待ちましょう」
雨音の中でも、その声ははっきりしていた。
「今から無理に動いて、私たちまで何かあれば……もっと遅れてしまいます。今日はここで夜を越して、明るくなってから動いた方がいいと思います」
リントは口を挟まず、その先を待った。
「明日の朝、ダリオさんが戻られていれば、荷物をお返しして、すぐにリューデンへ向かいます。もし戻られていなければ……」
明日の雨がどうなっているのかも、ダリオが戻っているのかも、今ここでは分からない。ヴェルナはしばらく考えてから、革鞄に添えていた指先を離した。
「そのとき、もう一度考えます。明日の状況を見てから決めるべきだと思いますから」
「そうですね」
リントも頷いた。
荷運びを終えてから動かずにいたせいか、それまで気にならなかった冷たさが、少しずつ身体へ戻ってくる。ヴェルナの銀髪は濡れて首筋へ張りつき、外套まで革鞄を守るために使った服からは、まだ雫が落ちていた。
「ヴェルナ様、着替え持ってきてますよね?」
「え? あ、はい。鞄の中にあります」
「なら、先に着替えてください。このままだと身体冷やしますよ」
言われて袖口を握ると、布に含んでいた水が指の間から落ちた。荷を運んでいる間は気にならなかったが、濡れた服はすっかり身体の熱を奪い始めている。
「そうします。リントさんは?」
「俺はここから離れてます。終わったら呼んでください」
リントが示したのは、雨の向こうに残された荷馬車だった。
「分かりました。でも、リントさんも早く着替えてくださいね。私よりずっと濡れていますから」
そう言われて自分の袖を見ると、上着は雨を吸ってすっかり重くなっている。
「……ですね。俺もそうします」
「はい。そうしてください」
ヴェルナに油布の下を譲り、リントは再び雨の中へ出た。
荷馬車の陰まで戻ると、リントは車体へ身を寄せた。油布との間を降り続ける雨が白く煙らせ、その向こうにヴェルナの姿は見えない。
しばらくして、雨音の向こうから声が届いた。
「リントさん、もう大丈夫です!」
「分かりました!」
油布の下へ戻ると、ヴェルナはすでに着替えを終えていた。濡れた髪はそのままだが、乾いた服へ替えたことで、先ほどまでより幾分寒さは凌げそうだった。
脱いだ服は、ひとまとめにして腕へ抱えている。
「それ、貸してください」
「こちらですか?」
「はい。雨が弱くなったら、火を起こして乾かします」
受け取った服は、雨を含んでずっしりと重かった。リントは水が滴らない程度に軽く絞ると、油布の下で雨の当たらない場所へ掛けていく。
「今はこれくらいですね。火が使えれば、ちゃんと乾かせると思います」
「ありがとうございます」
「いえ。じゃあ、俺も上だけ替えますね」
リントは自分の荷物から着替えを取り出した。
「すみません。ちょっとだけ、向こう向いててもらっていいですか?」
「あ、はい」
ヴェルナは素直に背を向け、外の流れ落ちる雨へ身体を向けた。
背後で濡れた布の擦れる音がする。リントは雨を吸って重くなった上着を脱ぎ、肌へ張りついていたシャツも手早く替えていった。
「……もう大丈夫です」
声を掛けられてから、ヴェルナが向き直る。
リントは濡れた服を軽く絞り、先ほどヴェルナの服を掛けた場所へ並べていく。上だけでも乾いた服へ替えたことで、張りついていた冷たさは随分とましになった。
「あの……下は、着替えなくて大丈夫なんですか?」
「下ですか?」
聞き返してから、リントも自分の濡れたズボンへ目を落とした。
「いや、まあ……濡れてますけど」
「そのままでは、身体が冷えてしまいませんか?」
「それは、そうなんですけど……」
リントの返事がそこで止まった。油布の下には、二人と積荷が雨を凌ぐだけの空間しかない。
「……さすがに、ここではちょっと」
「あ……そうですね。すみません」
「いえ。とりあえず火を起こせたら、少しは乾かせると思うんで」
「はい……」
しばらくして、油布を激しく叩いていた雨音にも、わずかに間が混じり始めていた。
雨脚が弱まるのを待ってから、リントは火を起こす準備に取りかかった。
木の根元や枝葉の重なった場所から、まだ中まで湿っていない枯れ枝を選び、濡れた表面を短剣で削っていく。携帯していた着火具を使い、削った木片へ火を移していくと、やがて小さな橙色が暗がりに灯った。
「これなら大丈夫そうですね」
火が安定するのを確かめ、リントは濡れた服を乾かせる位置へ移していく。
ヴェルナも火のそばへ腰を下ろし、冷えていた指先を暖めるように両手をかざした。濡れた銀髪からは、まだ時折、雫が肩へ落ちている。
「ヴェルナ様、髪も拭いた方がいいですよ」
「あ……ありがとうございます」
差し出された布で髪を挟み、水気を取っていく。その間にリントは濡れた服を広げ直し、火へ近づきすぎない位置へ掛けていった。
火のそばで身体を温めているうちに、雨の中を動き回っていた疲れと一緒に空腹も戻ってきた。二人は持ってきた携帯食を広げ、簡単に夕食を取ることにした。
食べ始めてからも、しばらく会話はなかった。火の爆ぜる音に、ときおり包みの擦れる音が重なるだけの静かな時間が続く。
「……久しぶりだな……」
「何がですか?」
「え?」
「いま、久しぶりだと仰っていたので」
「ああ……。誰かとこうやって飯食うの、久しぶりだなって思っただけです」
「普段は、お一人で?」
「まあ……そうですね」
それきり続きはなく、二人の間には再び薪の爆ぜる音が戻った。ヴェルナが次の言葉を待っているうちに、今度はリントの方から問いが返ってくる。
「ヴェルナ様は、こういう食事って慣れてるんですか?」
「……こういう食事、ですか?」
「はい。外で、携帯食だけで済ませたりとか」
「それでしたら、ほとんどありませんね。以前、森へご一緒したときくらいでしょうか」
「そう、ですよね……。すみません、変なこと聞いて」
自分から話を振り返したものの、その先の言葉が続かない。ヴェルナは急かすこともなく、硬いパンを一口分ちぎった。
「屋敷では、こういったものを食べる機会がありませんから。まだ少し、不思議な感じはします」
「やっぱり、慣れないですか?」
「そうですね。でも……私、こういうパンは、もっと美味しくないものだと思っていました」
「……ああ」
何と返せばいいのか迷うリントとは対照的に、ヴェルナはいたって真面目だった。保存のために硬く焼かれたパンを時間をかけて噛み、飲み込んでから、確かめるようにもう一口食べる。
「でも思っていたより、美味しいです」
「…………」
「リントさん?」
「いえ……」
ヴェルナはそれ以上尋ねず、残っていたパンをもう一口食べた。硬さにはまだ慣れないのか、ゆっくりと噛んで飲み込む。
「たくさん動いたからでしょうか。なんだか、いつもよりお腹が空いていて……」
最後の一欠けまで食べ終えると、そのまま何気なく包みを畳み始める。
そのヴェルナの前へ、もう一つパンが差し出された。
「これも食べてください」
「え?」
「俺はあんまり腹減ってないんで」
「……本当ですか?」
伸ばしかけた手は、パンへ届く前で止まっていた。すぐに受け取ろうとはせず、ヴェルナはそのまま返事を待っている。
「本当に大丈夫ですよ」
「……では、いただきます。ありがとうございます」
ようやく受け取ったパンを一口食べると、ヴェルナは先ほどまでより少しゆっくりと味わうように噛んだ。飲み込んでから、残ったパンを両手で持ち直す。
「……美味しいです」
「……そうですか」
火の向こうで、ヴェルナはもう一口パンを食べている。リントはそれ以上何も言わずにいたが、やがて火の近くに掛けていた服へ手を伸ばした。
「……そろそろ乾いてきたかな」
「え? もう乾きましたか?」
「いや……まだですね」
雨を吸った服にはまだ湿り気が残っている。リントは裏返して火の当たり方を変えると、今度は先ほどより少し離れた位置へ掛け直した。
「もう少しかかりそうです」
「そうですか」
背後から返ってきた声に続いて、硬いパンを小さくかじる音がした。
身体が温まる頃には雨もさらに弱まり、油布を叩く音より、枝葉に溜まった雫が落ちる音の方が目立つようになっていた。木立の外には、すっかり夜の暗さが広がっている。
「……今夜は、交代で見張りましょうか」
リントは火へ細い枝を一本足した。
「いえ、今日は俺がやります。ヴェルナ様は休んでください」
「でも、リントさんも朝から歩いていますよね」
「大丈夫ですよ」
ぱち、と薪が小さく爆ぜる。
「森のときは、俺が見てもらいましたから。今日は俺に任せてください」
ヴェルナはすぐには答えなかった。
「……では、お言葉に甘えてもよろしいですか?」
「はい。ゆっくり休んでください」
ヴェルナが油布の奥へ身体を移す間に、リントは荷物から自分の外套を取り出した。
「これ、使ってください」
「でも、リントさんは?」
「俺も火のそばにいますから。ヴェルナ様の方が必要ですよ」
ヴェルナは一瞬ためらったものの、外套を両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
肩から身体を覆うように外套を掛けると、ヴェルナは革鞄を手の届くところへ置いた。
「おやすみなさい、リントさん」
「はい。おやすみなさい」
しばらくして、油布の奥から物音がしなくなった。
リントは火のそばに座ったまま、燃え方の弱くなった薪を一本だけ足した。炎がわずかに大きくなり、その向こうに外套へ包まれたヴェルナの姿が浮かぶ。
――久しぶりだな。
リントはしばらく火を眺めていたが、やがて傍らの剣を手に取って腰を上げた。
油布の端まで移り、街道に近い側へ腰を下ろす。先ほどまで背中に届いていた火の温もりが、少しだけ遠くなった。
剣を手の届くところへ置き、リントは暗い街道へ意識を戻した。
雨は、いつの間にかほとんど止んでいた。
濡れた木々から落ちる雫と、火の爆ぜる音だけが夜の中に残っていた。




