第11話「壊れた荷馬車」
前回のあらすじ
六年前、仲間三人を失い、一人だけ生きて帰ったミレイユ。仲間を置いて逃げたという周囲の言葉と、自身の罪悪感に耐えきれず、彼女はかつて所属していた街を去った。
現在、シルヴァハイムのギルドで受付嬢として働くミレイユは、あの日の記憶を抱えながらも、帰ってきた冒険者たちを迎え、送り出す日々を送っている。
それから数日後。ギルドを訪れたリントに、ミレイユはホルトから預かっていた一枚の依頼書を差し出した。
依頼主はローズベルグ家。
その内容は――ヴェルナ・ローズベルグの護衛だった。
異形の魔物と遭遇してから、三週間あまり。
あの日、父と交わした言葉が消えたわけではない。冒険者として活動することも、まだ認められてはいなかった。それでも答えを急かすことなく、ヴェルナは机に広げた資料を一枚ずつ読み進めている。
その日の昼前も、自室の机には書きかけのノートと何冊もの資料が重なっていた。
書き留めた文字を追い、傍らの山から一冊を抜き取る。目当ての項を開いたところで、控えめな音が扉を叩いた。
「ヴェルナ様。旦那様がお呼びでございます」
扉の向こうから聞こえたアルフレッドの声に、ヴェルナの手が止まった。
「お父様が?」
「はい。お話があるとのことでございます」
ヴェルナは頁の間へしおりを挟むと、広げていた資料を閉じて立ち上がった。
「分かりました。すぐに参ります」
廊下へ出ると、待っていたアルフレッドが書斎へ向かって歩き出した。ヴェルナもその後に続く。
用件を尋ねることもなく書斎へ入ると、机に向かっていたエドワードが手元の書類から顔を上げた。
「来たか」
「はい、お父様。今日は、お加減はいかがですか?」
「悪くない。朝からアルフレッドにも同じことを聞かれている」
「そうでしたか。……あまりご無理はなさらないでくださいね」
「お前たちは、揃って同じことを言うな」
エドワードはそう返すと、向かいの椅子を示した。
ヴェルナが腰を下ろすのを待ち、手元の書類を脇へ寄せる。代わりに机の端に置いてあった小さな箱と一通の封書を、自分の前へ引き寄せた。
「それで、今日お前を呼んだのは他でもない。ひとつ、頼まれてくれないか」
「はい。何でしょうか?」
エドワードは小箱を手に取り、娘の前へ差し出した。
「これを、リューデンまで届けてほしい」
「……リューデンまで、ですか?」
「ああ、リューデンへは、以前にも何度か行ったことがあったな」
「はい。お父様たちと」
リューデンは、ローゼンフェルトから南へ延びる街道の先にある交易都市だ。大きな河川を利用した水運も盛んで、幼い頃には家族と何度か訪れている。
けれど今回は、父の後について行くのではない。
「中には、薬品と素材の試料が少量ずつ入っている。リューデンのロイド商会へ届けてくれ。容器に入ったものもあるから、強い衝撃は与えないように」
「分かりました」
ヴェルナは差し出された小箱を受け取った。片手に収まるほどの大きさで、重さもほとんどない。
「それと、もう一つある」
エドワードが、机に残っていた封書へ手を伸ばした。
表には宛名が記され、裏にはローズベルグ家の紋章を刻んだ封蝋が押されていた。
「こちらはロイド殿へ。これは商会に預けず、本人へ直接渡してほしい」
ヴェルナは差し出された封書も受け取った。
「ロイド様ご本人へ、ですね」
「ああ。明後日の夕刻には商用でリューデンを発つそうだ。それまでに渡してくれ」
明朝に発てば、途中で一泊しても明後日の午前中には着ける。多少の遅れがあっても問題はない。
「承知しました」
「それと、悪いが今回は徒歩になる。私も明朝からグランツハイムへ出るから、長旅に出せる馬はそちらで使うことになっていてな」
「分かりました。リューデンまででしたら問題ありません」
エドワードは娘の返事に頷いた。
「それと、今回は護衛を一人つける」
「護衛、ですか?」
「リューデンまでとはいえ、お前一人で行かせるつもりはない。ギルドにはすでに依頼を出してある。明日の朝にはこちらへ来る予定だ」
「分かりました。では、お預かりします」
「ああ。頼んだぞ」
「はい、お父様」
ヴェルナは小箱と封書を手に席を立った。
***
翌朝。
旅支度を整えたヴェルナは、自室の椅子に腰掛けて本を読んでいた。
父から預かった小箱と封書も革鞄へ収め、あとは出発の時間を待つだけだった。
頁をめくったところで、扉を叩く音がした。
「ヴェルナ様。ギルドから護衛の方がお見えになりました」
「分かりました。今参ります」
本を閉じて立ち上がり、革鞄を肩に掛ける。
階下へ向かう途中、玄関の方から男の声が聞こえてきた。
「――はい。昨日のうちにローゼンフェルトへ入っていますので」
聞き覚えのある声だった。
階段を下りながら玄関広間へ目を向ける。アルフレッドと話していた青年も、こちらに気づいた。
使い込まれた片手剣に、小型の盾。
三週間前、東の森林地帯から共に帰ってきたリントが、そこに立っていた。
「リントさん!」
名前が先に出た。
「お久しぶりです、ヴェルナ様」
「はい。お久しぶりです」
思いがけない相手に、ヴェルナは足早に残りの階段を下りた。
近くまで来れば、三週間前との違いも分かる。あの頃は傷を庇っていた身体も、今はまっすぐに立っている。
「お怪我は、もうよろしいのですか?」
「はい。もうすっかり治りました。最近は普通に依頼にも出てますよ」
「そうですか。よかったです」
「ヴェルナ様も、お元気そうで」
「はい。私も元気にしております」
そこまで話して、ヴェルナはようやく彼が冒険者としての装備を整えていることに気づいた。
「ということは……今日の護衛は、リントさんなのですね」
「はい。何日か前にホルトさんから話をもらいました」
「私には、どなたが来られるのか知らされていなかったんです」
「そうだったんですか。俺はヴェルナ様の護衛だって聞いてたんで、知ってるものだとばかり」
「では、驚いたのは私だけだったのですね」
「いや、俺も依頼を聞いたときは驚きましたよ。まさかヴェルナ様だとは思ってなかったんで」
「ふふっ。では、お互い様ですね」
「ですね」
ヴェルナはリントとともに玄関へ向かう。
扉を開ける前に、見送りに立つアルフレッドへ振り返った。
「では、行ってまいります」
「はい。いってらっしゃいませ、ヴェルナ様」
アルフレッドは隣に立つリントへ向き直った。
「リント様。道中、ヴェルナ様をよろしくお願いいたします」
「はい」
いつもより深く頭を下げるアルフレッドに見送られ、二人は屋敷をあとにする。
ローゼンフェルトの街を南へ抜けると、リューデンへ続く街道がまっすぐに伸びていた。
空はよく晴れている。街道には同じ方角へ向かう荷馬車や旅人の姿もあり、人とすれ違うたび、リントはさりげなくヴェルナとの間へ入った。
「なんだか、不思議ですね」
隣を歩いていたヴェルナが口を開く。
「何がです?」
「こうしてリントさんとのんびり歩いていることです。前にご一緒したときは、あの森林地帯へ向かっていましたから」
「ああ……確かに」
あの頃は、出会って間もない二人だった。
互いのこともほとんど知らないまま森へ入り、傷を負い、夜を越えた。その先で見たものまで含めれば、たった二日間の出来事とは思えない。
「同じように二人で歩いていても、随分違うものですね」
「……そうですね」
街道を進むにつれ、周囲の景色も少しずつ変わっていく。畑の向こうに低い丘が見え始め、道の両脇には木立も増えてきた。
見通しが悪くなる場所ではリントが先に立ち、すれ違う旅人がいれば、またヴェルナとの間へ入る。
昼を過ぎ、何度目かの休憩を挟んでから、さらに南へ進んだ頃だった。
街道の先に、一台の荷馬車が見えた。
道の端へ寄せられてはいるものの、荷台は不自然に傾いている。
そのそばに人影を見つけたところで、リントが足を止めた。
ヴェルナも一歩遅れて立ち止まる。
「どうしました?」
「少し待ってください」
繋がれた馬が一頭。荷台の脇には男が一人。リントはその場から街道沿いの草地、その先にある木の陰まで順に目を走らせた。
「……行きましょう。ただ、俺より前には出ないでください」
「分かりました」
リントを先頭に、二人は再び歩き出した。
荷馬車との距離を縮めていく途中、不意にヴェルナが前を歩く背中へ声をかける。
「リントさん」
「なんですか?」
「今日は、少しだけ遠いですね」
「……遠い?」
「はい。先ほどから、ずっと私より前を歩いていらっしゃるので」
ヴェルナは少しだけ間を置いた。
「誰かとすれ違うときもそうでした。今も、私を後ろに」
「……護衛ですから」
「……そうでしたね」
ヴェルナはそれ以上尋ねず、再び歩き始めた。
その足音が少しずつ遠ざかっていくのを聞きながら、リントはしばらく同じ歩調を保っていたが、わずかに速度を落とした。
「……すみません。別に、避けてるわけじゃないんです」
「分かっています」
返事は、思っていたよりも早く返ってきた。
やがてヴェルナの足音がすぐ後ろまで近づいてくる。それでもリントは完全に隣へ並ぶことはなく、彼女より半歩だけ前を歩いた。
荷馬車へ近づく頃には、傾いた原因も見えるようになっていた。片方の車輪が大きく傾き、その脇では一人の男がしゃがみ込んで車輪を調べている。
二人の足音に気づいた男がこちらを向く。灰色がかった髪の間から伸びる獣耳と、その背後で揺れる同じ色の太い尾が目に入った。
狼族の男だった。
男は一瞬こちらを見たものの、すぐに車輪へ向き直る。
リントは荷馬車との間に距離を残したまま、その脇へ進んだ。男に近い側を歩き、ヴェルナが先に荷台の向こうへ抜けるのを待つ。
だが、その足音が途中で止まった。
振り返れば、ヴェルナが傾いた荷馬車を見ている。
男は再びしゃがみ込み、泥のついた手で車輪を支えながら、何度か位置を確かめていた。
「あの……何か、お困りですか?」
狼族の男が振り向く。
「ヴェルナ様……」
リントが名前を呼ぶと、ヴェルナは一度だけこちらを見る。それでも、その場から離れようとはしなかった。
「……ああ。ちょっと車輪をやっちまってな」
狼族の男は腰を上げると、手についた土を軽く払った。
「見ての通りさ。さっき、でかい石を踏んじまってな。運が悪かった」
「動かせないのですか?」
「ああ。このまま走らせたら、今度こそ車輪が駄目になる。馬まで怪我させちゃ意味がないからな」
道端では、その馬が何事もなかったように草を食んでいる。
荷馬車は片側だけが沈み、車輪もわずかに外へ傾いていた。地面には石を踏んだ跡が深く残り、このまま無理に動かせば、男の言う通り車輪が先に耐えられそうにない。
「一人で直せそうですか?」
リントが尋ねる。
「道具と材料があればな。今日はこの辺りまで荷を運ぶだけだったから、そこまでは持ってきてないんだ」
「そうですか」
リントから、それ以上の言葉は続かなかった。
困ったように頭を掻いた男が、街道から外れた西の方角を指す。
「ここから西へ行ったところに村がある。そこに、こういうのを直せる知り合いがいるんだ」
ヴェルナが尋ねる。
「ここから、どのくらいかかりますか?」
「歩きなら三時間くらいだな」
「三時間……」
ヴェルナの指先が、肩から下げた革鞄に触れた。
街道を外れれば、その分だけリューデンへ着く時間は遅くなる。けれど、男は壊れた荷馬車のそばから動くこともできずにいる。その傍らでは、先ほど怪我をさせたくないと言われた馬が、変わらず草を食べていた。
革鞄に触れたまま、ヴェルナはしばらく黙っていた。
やがて指先を離す。
「……でしたら、私たちが行ってきましょうか?」
男は一瞬きょとんとしたあと、二人が徒歩であることに気づいたのか首を横に振った。
「いや。あんたたちが歩いて行くより、俺がこいつで行った方が早い。道も分かってるからな。馬なら一時間くらいだ」
そう言って馬のそばまで行き、その首筋をひと撫でする。
だが、手綱を取ろうとしたところで男の手が止まった。
荷台には、布を被せた木箱や麻袋がいくつも積まれている。
「……ただ、こいつを置いていくわけにもいかなくてな」
「荷物は、置いていけないものなのですか?」
「盗られて困らない物なら、こんなところで悩んじゃいないさ」
「……そうですよね」
村へ行く手段はある。ここからなら、馬で一時間ほど。
ヴェルナの指先が、もう一度革鞄の留め具に触れた。
今度は先ほどほど長く迷わなかった。
「でしたら、戻られるまで私たちがここにいましょうか?」
「……いいのか?」
「はい。私たちがいれば、荷物を置いたままにはならないでしょうから」
すぐに喜ぶかと思った男は、そうしなかった。
ヴェルナとリントを改めて確かめるようにしてから、頬を掻く。
「ありがたい話なんだが……会ったばかりのあんたたちに、これだけの荷を預けるってのもな」
ヴェルナは一度、荷台に積まれた木箱へ目を向けた。
「それでしたら――」
ヴェルナは左手を胸元まで上げた。
指にはめられた銀の指輪。その表には、ローズベルグ家の紋章が刻まれている。
「ヴェルナ・ローズベルグと申します。こちらで、身元の証明にはなるでしょうか」
男の耳がぴくりと動いた。
指輪の紋章とヴェルナの顔を確かめるような間があり、やがて少し驚いた声が返ってくる。
「ローズベルグ……ってことは、伯爵家の?」
「はい」
「こりゃ驚いた。まさかこんなところで貴族様に声をかけられるとはな」
続いてダリオの目が、リントの胸元に下がる黄色いタグへ止まった。
「そっちの兄ちゃんは冒険者か」
「はい」
「なるほどな。それなら、お願いしてもよさそうだ」
ようやく話がまとまりかけたところで、リントが口を開いた。
「一つだけいいですか」
「なんだ?」
「何かあったときは、荷物を置いてここを離れます。それでも構いませんか?」
男は一度黙った。
「……もちろんだ。荷物のために命張ってくれなんて頼めねえよ」
それでもリントは表情を緩めず、街道の前後へ注意を残している。
そんな様子をしばらく眺めていた男が、首を傾げた。
「兄ちゃん、ずいぶん慎重なんだな」
「……まあ、色々ありましたから」
「色々、ねえ」
ダリオは片方の眉を上げた。
「若いのに、ずいぶん訳ありそうな言い方するじゃないか」
リントは曖昧に笑うだけで、それ以上は答えなかった。
「まあ、いいけどよ」
ダリオは手綱へ手を伸ばしかけ、ふと思いついたように二人を振り返った。
「そこまで気にするってことは……もしかして、彼女か?」
「えっ」
思いもよらない問いに、ヴェルナの頬がさっと赤くなる。
「か、彼女って……」
その先が続かない。どう返したものか迷った末にリントへ顔を向けると、目が合った。
「そんな、滅相もないです。ヴェルナ様は伯爵家のご令嬢ですから」
「ああ、そうなのか。悪かったな、変なこと聞いて」
「いえ……」
ヴェルナはまだ少し気恥ずかしそうにしていた。
リントはそんな様子に気づくと、申し訳なさそうに眉を下げる。
「……すみません、ヴェルナ様」
「いえ、リントさんが謝ることでは……」
ヴェルナは指先に銀髪の毛先を絡め、くるくると回していた。いつの間にか俯きがちになっていた顔を上げる頃には、先ほどより幾分か声も落ち着いている。
「悪かったな。変なこと聞いちまって」
「いえ……大丈夫です」
ダリオは軽く片手を上げて詫びると、今度こそ馬の手綱を取った。
「ああ、そうだ。荷物まで預けといて、名前も言ってなかったな。俺はダリオだ」
「リント・グレイブです」
「リントか。ヴェルナ嬢の名前はさっき聞いたな」
ダリオは二人の名前を覚えるように一度だけ繰り返してから、馬を荷馬車から外し始めた。慣れた手つきで金具を外し、繋いでいた革紐をまとめていく。
「そういや、二人はどこまで行くんだ?」
「リューデンです」
ヴェルナが答えると、作業をしていたダリオの手がわずかに止まった。
「リューデンか。そりゃ、ここで足止めさせるのは悪いな」
「いえ。まだ時間には余裕がありますから」
「そうか。なら、なるべく早く戻るよ」
最後の金具が外れ、自由になった馬が一度大きく首を振った。ダリオはその首筋をなだめるように撫でてから、鐙へ足を掛ける。
「悪いが、それまで頼んだ」
「はい」
ヴェルナがそう言うと、リントも短く頷いた。
ダリオが馬上から手を上げる。やがて蹄の音が街道を外れ、西へ続く道の先へ遠ざかっていった。
その姿が見えなくなると、リントは荷馬車の周囲を確かめ始めた。荷台の後ろへ回り、覆い布の隙間から中を覗く。木箱や麻袋の積まれ方を確かめ、そのまま荷台の下へ視線を移す。
「何か気になりますか?」
「何かあったとき、すぐ動けるように中を見ておこうと思って」
荷台の下を確かめるために反対側へ回ると、少し遅れてヴェルナもついてくる。そのまま前方へ移れば、また後ろから足音が続いた。
リントはそこで振り返る。
「ヴェルナ様」
「はい?」
「俺が見ておくので、休んでいてください」
「ですが、何かお手伝いできることがあれば……」
「大丈夫ですよ。朝から結構歩いてますし、今のうちに休んでおいてください」
そう言われて、ヴェルナは少しだけ名残惜しそうに荷台へ目を向けた。
「……分かりました。何かありましたら、呼んでくださいね」
「はい。そのときはお願いします」
ようやくヴェルナが荷馬車の影へ向かっていく。
リントは残った荷を一通り確認してから、その後を追った。ヴェルナはすでに腰を下ろしており、膝の上には父から預かったものを収めた革鞄が置かれている。
リントも少し離れた街道側へ腰を下ろそうとしたところで、ヴェルナが口を開いた。
「リントさん。勝手に決めてしまって、すみませんでした」
「え?」
「ここに残ることです。私から言い出してしまいましたから」
リントは少し意外そうにヴェルナを見た。
「……俺は、いいと思いますけどね。困ってる人がいたら、放っておけないっていうか……」
リントは少し言葉を探した。
「優しいだけじゃなくて、ちゃんとその人のために動けるじゃないですか」
ヴェルナは黙ってその言葉を聞いていた。
「そういうところが、ヴェルナ様の魅力なんだと思います」
「……私の、魅力ですか?」
「はい」
ヴェルナは少し視線を落とした。
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは……嬉しいです」
指先に銀髪の毛先を絡め、くるりと巻く。
「でも……少し、恥ずかしいですね」
「あ……すみません。俺なんかが言うことじゃなかったですね」
「いえ……そんなことは」
続くはずだった言葉の代わりに、指へ絡めていた銀髪がもう一度くるりと巻かれる。
リントの手も、いつの間にか腰の剣帯へ触れていた。
「……もう少し、荷物を見ておきますね」
「……はい。お願いします」
少し離れていくリントの背中を見送ると、膝の上の革鞄を抱え直し、荷馬車の影でその帰りを待った。
ひと通り荷物を確かめたリントも、間もなく戻ってきた。
それから何人かの旅人が二人の前を通り過ぎ、リューデンへ向かう荷馬車も二台ほど街道を下っていった。傾いた荷馬車を気にして振り返る者もいたが、蹄の音や車輪の軋みも遠ざかってしまえば、辺りには風に揺れる草木の音だけが残る。
何台目かの荷馬車を見送った頃には、荷台から伸びていた影もずいぶん長くなっていた。
「……そろそろでしょうか」
西へ続く道は、先ほどから変わらず静かなままだった。馬の蹄どころか、人の声ひとつ聞こえてこない。
「何かあったのでしょうか……」
ヴェルナの声に、リントも西の道へ注意を向ける。
「村で手間取ってるだけならいいんですけどね」
「村で……」
その言葉を繰り返したところで、ヴェルナは口を閉じた。
「……そうでした。馬で一時間というのは、村までの話でしたね」
ヴェルナは膝の上の革鞄へ手を重ねた。
「着いてから人を探して、道具を揃えて……それから戻ってくる時間も」
重ねた指先に、少しだけ力が入る。
「私、そこまで考えていませんでした」
リントは何も言わなかった。
ほどなくして、リューデンへ向かう荷馬車が一台、二人の前を通り過ぎていった。傾いた荷馬車を気にした御者がこちらを振り返ったものの、その車輪が止まることはない。
規則正しく響いていた音が、街道の向こうへ少しずつ遠ざかっていく。
ヴェルナは膝の上の革鞄から手を離さなかった。
街道を抜けていく風が銀髪を揺らし、ヴェルナは頬にかかった髪を耳へ掛けた。その風には、昼頃にはなかった冷たさが混じっていた。
「……まだ、時間はあります」
自分に言い聞かせるような声ではなかった。
「ダリオさんが無事に戻られるまで、もう少し待ちましょう」
「はい」
リントの返事を聞いて、ヴェルナは小さく頷いた。
いつの間にか、陽射しも弱くなっている。
ヴェルナが空を仰ぐと、屋敷を出た頃には青かった空へ、灰色の雲が広がり始めていた。
「……リントさん」
声を掛けるより先に、リントも立ち上がっていた。
「ちょっと、天気が怪しいですね」
二人が空を見ている間にも、西から流れてくる雲が陽を隠していく。遠くの景色は薄暗く霞み、先ほどまで穏やかだった風が、今度は荷台を覆う布を大きく揺らした。
ばさりとめくれ上がった端を、リントがすぐに押さえる。
ヴェルナも反対側へ回り、浮き上がった布を荷台へ戻した。
そのとき、頬に冷たいものが触れた。
「……雨?」
乾いた街道に、ぽつりと濃い染みが落ちる。
一つだった染みは、やがて二つ、三つと増えていった。荷台を覆う布にも雨粒が当たり、小さな音を立て始める。
リントが低く垂れ込めた空を見上げた。
「……本格的に来るかもしれません」
ヴェルナは肩に掛け直した革鞄を押さえた。
雨はまだ弱い。
けれど、西から吹きつける風は先ほどより強くなっている。
その向こうから、ダリオの馬が駆けてくる音はまだ聞こえてこなかった。




