第10話「昨日の道を戻って」
前回までのあらすじ
若き日のミレイユは、長年ともに冒険者として歩んできたノアたちと、三日間の護衛兼輸送依頼に出ていた。
依頼を終え、あとは街へ帰るだけだった四人。しかし帰路で二体のグリムハイエナに襲われ、仲間たちは次々と倒れていく。
重傷のベルクを残し、ノアとともに逃げることを選んだミレイユだったが、追いつかれると悟ったノアもまた、彼女を生かすため一人その場に残った。
森を抜けたミレイユは、彼の「あとから来る」という言葉を信じて待ち続ける。
けれど、ノアは戻ってこなかった。
木々の切れ間から差し込んだ陽が、馬の揺れに合わせて何度も視界を横切っていく。
ミレイユは前に座る男の身体へ腕を回したまま、その肩越しに街道の先を見ていた。
昨日、息が続かなくなっても走った道だった。
緩く曲がった先にある岩も、斜面から街道へせり出した木の根も覚えている。あのときは見えているものすべてが後ろへ流れていったのに、今日は一つずつ、こちらへ戻ってくる。
馬が窪みを踏み、身体が大きく跳ねた。
「悪い。しっかり掴まってろ」
「……はい」
男の背に回した腕へ力を込める。
少し離れた前方を、二頭の馬が並んで走っている。
朝、捜索に出ると告げられたとき、四人分の報酬を使ってほしいと頼んだ。
いくら必要なのかも、余ったらどうするのかも聞かなかった。
早く出てほしかった。
それだけだった。
「道は合ってるか?」
前方から飛んできた声に、ミレイユは顔を上げた。
街道の片側には木々の茂った斜面が迫り、反対側は低く落ち込んでいる。その先で道が大きく曲がり、木々の向こうへ消えていた。
「合ってます。このまま……もう少し先です」
先頭の男が片手を上げる。
三頭の馬は速度を落とし、木々に挟まれた街道をさらに進んでいった。
蹄が土を蹴る音に、枝葉の擦れる音が重なる。時折どこかで鳥が鳴き、頭上から落ちてくる木漏れ日が男の肩を白く照らしては消えていく。
ノアに腕を掴まれ、何を言っているのか分からないまま押し返された。行けと言われても足が動かなくて、それでも最後には背を向けた。
そこから先は、何度振り返ったのか覚えていない。
曲がり角が見えるたびに、今度こそノアが出てくると思った。
森を抜けても待った。
日が傾いても離れられなかった。
「この辺りか?」
前を行く男が振り返った。
ミレイユはしばらく道の先を見つめてから、首を横に振る。
「……もう少しです」
言葉にした途端、胸の奥が強く縮んだ。
ノアは怪我をしているだけかもしれない。
あの魔物から逃げ切って、どこかで動けなくなっているだけなら。
だったら、まだ待っているかもしれない。
誰かが見つけに来るのを。
前の男の服を掴む指先に力が入った。
もう少し。
ノアと別れた場所まで行けば、何か分かる。
そこから痕跡を辿れば――。
先頭の馬が、不意に速度を落とした。
その後ろを走っていた一頭も続いて止まり、ミレイユを乗せた馬の手綱が引かれる。
身体が前へ傾き、男の背にぶつかった。
「どうした?」
ミレイユの前にいる男が声をかける。
返事はない。
先頭にいた男は馬上から街道脇へ顔を向けたまま、動かなかった。
やがて手綱を引き、ゆっくりと馬を降りる。
「……いたぞ」
胸の奥で、何かが跳ねた。
男の肩越しに見えたのは、木々の間に倒れた人影だった。
「ノア……!」
馬が止まりきるのも待てなかった。前の男から腕を離し、地面へ降りようと身体をずらす。
「待て、まだ――」
差し出された手を掴む余裕もなく飛び降り、着地した足がもつれて膝をついた。手のひらに土が食い込む。それでも痛みを確かめる間もなく立ち上がり、低い枝を腕で払いながら人影へ駆けていく。
「ノア! ノア!」
返事を待つより先に、もう一度名前を呼んだ。
見慣れた服が近づいてくる。土と血に汚れ、ところどころ裂けていても見間違えるはずがない。木の根元近くに横向きで倒れた身体のそばには剣が落ち、伸ばされた手はその柄に届いていなかった。
「ノア!」
最後の数歩で足がもつれ、そのまま身体のそばへ膝をつく。
「ねえ、ノア。私よ。戻ってきたの!」
肩へ伸ばした手が触れる。揺すっても反応がなく、ミレイユはさらに身を屈めて顔を覗き込んだ。
「捜しに来たの。ほら……起きて」
もう一度肩を揺する。
「帰るわよ、ノア」
震える指を頬へ伸ばしたところで、呼吸が止まった。
触れた肌は、昨日まで知っていたものとは違っていた。
「……ノア?」
頬から離した指を、今度は首元へ持っていく。どこに触れればいいのかも分からないまま何度も位置を変え、それでも何も感じられず、焦るほど指先だけが震えていく。
傷口を覆うように魔力を流し込みながら、ミレイユは祈った。
「お願い……」
光を強める。
「お願いだから……」
いつもなら、傷へ流れ込んでいく感覚がある。
けれど今は、いくら魔力を注いでも何も返ってこなかった。
それでも手を離せない。
「今、治してあげるからね……ノア……」
後ろから追いついた男が、ミレイユのそばへしゃがんだ。
「見せてくれ」
「でも、まだ……」
男を見ることもできず、ノアの首元へ触れたまま首を振る。
「まだ……まだ治せます。だから……」
男は急かさなかった。
ミレイユが手を退けるまで待ち、それからノアの首元へ指を当てる。傷を確かめ、胸元へ手を移したあとも、ミレイユはその横顔から目を離せなかった。
何か言ってほしかった。
早く運べば間に合うでも、まだ息があるでも、なんでもよかった。
けれど男はしばらく黙ったあと、ノアから手を離した。
その顔を見ただけで、聞くこともできなくなった。
息を吸おうとして、うまく入ってこない。胸の奥が引きつり、喉から小さな音が漏れる。
「あとから……」
声が崩れる。
「来るって……言ったのに……」
俯いた拍子に涙が落ち、ノアの服へ小さな染みを作った。拭っても次が落ちてくる。肩が震え始め、止めようとして唇を噛んでも、息をするたびに嗚咽が混じった。
ノアの服を掴む。
「ずっと……待ってたのに……」
指に力を込めても、ノアは何も言わない。
いつもなら何か返してくるはずだった。遅いだの、うるさいだの、そんな一言でも返ってくれば、そのまま続きを話せる気がした。
「帰ろうよ……」
掴んでいた服へ額を押しつける。
「一緒に……帰ろうよ……」
言葉の終わりが嗚咽に消えた。
男たちは何も言わなかった。
しばらくして、一人が立ち上がり、離れた仲間へ顔を向ける。
「持ち物の確認をするぞ」
呼ばれた男が頷き、二人でノアのそばへしゃがんだ。
ミレイユは場所を空けるよう促されてようやく服から手を離したが、立ち上がることはできなかった。すぐそばに座り込んだまま、タグや革袋が一つずつ確かめられていくのを、涙で滲んだ目で見ていた。
やがて男の手が、ノアの持ち物の中から小さな布包みを取り出した。
紐が解かれ、重なっていた布が開いていく。
その手のひらに現れたものを見た瞬間、ミレイユの嗚咽が止まった。
小さな髪飾り。
「……それ」
昨日の街並みが浮かぶ。
店先を見ていた自分。
「私……」
その先が出てこなかった。
髪飾りを見つめたまま唇が震え、堪えきれなくなった涙がまた頬を伝っていく。
髪飾りを布で包み直し、ミレイユへ差し出す。
両手で受け取った。
手のひらに収まるほどの小さな包みなのに、指を閉じることができない。落とさないよう両手で包み込み、そのまま胸元へ引き寄せる。
「いくぞ」
後ろから声がした。
ミレイユは涙に濡れた顔を上げ、ノアを見る。
「……ノアは?」
「先に残りの二人を確認する。ここから近いのか?」
木々の向こうへ目を向ける。昨日、ノアと逃げてきた森を戻れば、二人を残してきた山道へ出る。
「……はい」
「分かった。二人とも確認してから戻るぞ」
ミレイユはすぐには立てなかった。
髪飾りを胸元へしまい、もう一度ノアのそばへ寄る。何か言おうとして口を開いたが、結局、声にはならなかった。
頬へ触れる。
指先に残った冷たさから逃げるように手を離し、待っていた男の手を借りて立ち上がった。
馬へ戻る途中でも涙は止まらなかった。
何度拭っても視界は滲み、振り返れば、木々の間にノアの姿がまだ見えている。
男の後ろへ乗せてもらってからも、ミレイユは後ろを向いていた。
馬が動き出す。
木の幹が一つ、また一つと間へ入り、やがてノアの姿が見えなくなるまで、前を向くことができなかった。
木々の間からノアの姿が消えたあとも視線を戻せず、胸元にしまった髪飾りの上へ手を重ねる。馬が揺れるたびに身体が男の背へぶつかり、そのたびに回した腕へ力が入った。
「……ベルクさんを、先に見てください」
前に座る男が肩越しに振り返る。
「どこにいる?」
「山道の脇です。魔物の下に挟まれて……動けなくなってました」
口にした途端、昨日の声が耳の奥に蘇った。
――行け。
ノアに手を引かれて走りながら振り返ったとき、ベルクはまだ魔物の下にいた。
「私たちが逃げたときは、まだ……生きてました」
「分かった」
男が前を向き、先を行く二人へ声を飛ばす。三頭の馬は木の間を抜けながら、昨日ノアと走った道を逆に辿っていった。
やがて枝葉の向こうが開け、山道が見えてくる。
そこへ出た瞬間、昨日のまま残されたものが一度に視界へ入った。
踏み荒らされた土。黒く乾いた血。その先には、ファリクが倒れている。
ミレイユの目はそこを通り過ぎ、道脇の斜面へ向いた。
灰褐色の大きな身体が見える。
「ベルクさん!」
馬から降ろしてもらうと、そのまま駆け出した。
道の脇へ大きくはみ出すように倒れたグリムハイエナ。その腹には槍が深く突き刺さり、巨体の下から人の脚が覗いている。
「ベルクさん! 聞こえますか!」
斜面へ足を取られながら死骸のそばまで下り、その向こう側へ回り込む。
「私です、ミレイユです! 戻ってきました!」
泥と血に汚れた顔は動かなかった。
「ベルクさん……!」
肩へ手を伸ばしかけたところで、追いついた男が横から覗き込んだ。
「先にこいつをどかす。少し離れてろ」
三人が死骸の周囲へ回り、一人がベルクの身体を引き出せる位置へ入る。
「上げるぞ」
声を合わせて巨体を持ち上げると、その下からベルクの身体が少しずつ引き出されていく。
仰向けになったベルクのそばへ膝をつき、顔を覗き込む。
「ベルクさん。もう大丈夫です。出られましたから……」
男が首元へ指を当てる。
その指先から目を離せなかった。
しばらくして、男は手を離した。
静かに首を横へ振る。
ミレイユの唇が震えた。
ベルクのそばへ座り込んだまま、両手を膝の上で握る。
「ごめんなさい……」
――行け。
最後に聞いた声が、また耳の奥に残る。
ミレイユは握った両手へ額がつきそうなほど俯いた。
「……ごめんなさい……」
落ちた涙が、握り締めた手の甲を濡らした。
やがて男たちがベルクのタグと所持品を確認し始める。その気配につられるように、山道の先へ目が向いた。
ファリクが倒れている。
今度は、すぐには立てなかった。
涙を手の甲で拭い、膝へ手をついて身体を起こす。ほんの少し歩けば届く距離なのに、一歩進むたびに昨日の光景が鮮明になっていった。
ファリクのそばまで来ると、ミレイユはゆっくり膝をついた。
「……ファリクさん」
土に汚れた顔を見つめたまま、しばらく待った。
返事はない。
分かっていたはずなのに、震える手がファリクの腕へ伸びる。
「私を……庇ってくれたんですよね」
答えは返ってこない。
「私、何もできなくて……」
そこから先は続かなかった。
周囲を確認していた男が道端へ屈み込み、何かを拾い上げる。
「これは?」
涙で滲んだ視界の向こうに、泥のついた弓が見えた。
「……私のです」
「そうか」
ファリクが倒れたあと、拾おうと手を伸ばしたところで、ノアに腕を掴まれた。
今は、そのノアも森の中に残してきた。
ファリクの腕から手を離せないまま、頬を伝った涙が、その袖へ落ちた。
男たちはその後もしばらく山道に残り、周囲を調べていた。
ミレイユはファリクのそばに座ったまま、男たちの動きを追っていた。
ベルクのいた場所へ戻る者がいればそちらを見て、森へ入っていく者がいれば、木々の間に消えるまで見ていた。
まだ何かあるような気がした。
誰かが見落としていて、もう少し探せば何かが見つかる。男たちが動いているあいだだけは、そんな考えを捨てずにいられた。
やがて森から戻ってきた男が、山道にいた二人へ声をかけた。
男たちは集まり、確認したタグや持ち物をまとめながら、次の話を始めている。
「三人とも確認できた。ここで弔ってから戻ろう」
ミレイユは顔を上げた。
「……三人とも?」
三人とも。
頭の中で言葉だけが残った。
自分でも見たはずだった。ノアのそばに座って、ベルクのところへ走って、ファリクにも触れた。それなのに、それらが一つのこととしてうまく繋がらない。
男たちはもう動き始めていた。
「森にいた彼を連れてくる。案内してくれ」
声をかけられてから一拍遅れて、ミレイユは立ち上がった。
「……はい」
さっき通った森へ入る。
道を探す必要もなく、ノアのところへ着いた。
男たちがその身体を持ち上げる。
ミレイユは離れたところに立ち、それを見ていた。何か言おうとしたのかもしれない。唇がわずかに動いたけれど、声になる前に二人は歩き始めた。
あとを追う。
山道から外れた場所には、ベルクとファリクがすでに運ばれていた。ノアもその隣へ下ろされ、男たちはしばらく話したあと、馬から道具を持ってきた。
それからのことは、ひどく曖昧だった。
三人が近くにいることだけは分かっていた。離れたところから土を掘る音が聞こえ、男たちが何度か行き来していたのも覚えている。
けれど、どれくらいそうしていたのかは分からない。
昨日からずっと泣いていたせいか、目の奥が熱かった。身体も重く、何かを考えようとすると、その途中で考えていたこと自体が消えていく。
いつの間にか、土を掘る音も聞こえなくなっていた。
「……もういいぞ」
声が聞こえてから、しばらくして男たちの方を見た。
道具についた土を落としている。
「え……?」
何を言われたのか分からず、その顔を見た。
男が離れた木々の間へ目を向ける。
つられるようにそちらを見て、ミレイユは動かなくなった。
掘り返されたばかりの土が、三つ並んでいた。
しばらく、それが何なのか分からなかった。
さっきまで三人がいた場所を見る。
誰もいない。
もう一度、土の盛られた場所を見る。
「……もう?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
ミレイユは座ったまま、三つ並んだ土を見ていた。
いつ運ばれたのかも、いつ土がかけられたのかも、ちゃんと思い出せなかった。見ていたはずなのに、その間だけ時間が抜け落ちたように何も残っていない。
「街へ戻るぞ」
やがて、また声が聞こえた。
今度は言われたことの意味だけは分かった。
街へ戻る。
ミレイユは立ち上がろうとした。
けれど身体がついてこず、地面へついた手に力を入れたまま動けなかった。
男たちは急かさなかった。
そのことにも気づかないまま、ミレイユだけが、まだそこに座っていた。
街へ戻ったころには、陽が傾き始めていた。
門を抜けたところで馬を降りると、すぐ脇を荷馬車が通り過ぎていった。道の向こうでは店じまいを始める者がいて、その前を子供たちが走っていく。呼び止める母親の声に笑い声が重なり、少し先では客を呼び込む声まで聞こえていた。
ミレイユは男たちについて歩いた。
数日前、四人でここを出た。
同じ道を戻ってきたはずなのに、隣には誰もいなかった。
ギルドへ着くと、捜索の結果を待っていた職員たちが男たちを囲んだ。
回収したタグが机へ置かれ、三人の名前が読み上げられる。現場の場所や遺体の状態について確認が続き、途中で何度かミレイユにも声がかかった。
名前を呼ばれるたびに顔を上げ、聞かれたことに答えた。
やがて報告を終えた男の一人が、机に残っていたタグを手に取った。
「これはどうする」
職員がノアの名前を確認してから、ミレイユを見る。
「身内ではないんだよね?」
「……はい」
「なら、こちらで預かるけど」
差し出された手へタグが渡りかける。
「待ってください」
自分の声に、二人がこちらを見た。
ミレイユは机の上へ視線を落とした。
「……それ、私が持っていてもいいですか」
職員は迷ったあと、男からタグを受け取った。
「まぁ、記録は残ってるから構わないよ」
手のひらへ載せられたタグは、冷たかった。
ミレイユは両手で包み、そのまま握った。
「……ありがとうございます」
それから数日、部屋にいる時間が増えた。
窓の下を荷馬車が通り、人の声が行き交うのを聞きながら、何をするでもなく時間が過ぎていく。それでも一日中そこにいることができず、外へ出た日は気づけばギルドへ向かっていた。
扉を開けば、受付には冒険者が並び、掲示板の前では何人かが依頼書を見比べている。
ミレイユもそちらへ歩こうとした。
けれど、何を探せばいいのか分からなかった。
足を止めていると、横を通った男の肩がぶつかった。
身体がよろける。
「……すみません」
反射的に謝ると、男は通り過ぎずに振り返った。
「お前か」
聞き覚えのない声だった。
男の視線がミレイユの顔から腰へ下がり、そこに何もないのを確かめるように止まる。
「仲間置いて逃げたっての」
近くにいた何人かがこちらを見た。
ミレイユは何も言えなかった。
「武器まで捨ててきたんだろ?」
男が鼻で息を吐く。
「よくここ来られるな」
誰かが小さな声で男を止めた。
「もういいだろ」
「何がだよ。こっちは命預けて仕事してんだぞ」
男はミレイユを見たままだった。
「俺なら、こんなのと組みたくねえよ」
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
ミレイユは俯き、男の横を通り過ぎた。
背中に何か言われた気がしたが、もう聞き取れなかった。
外へ出ると、人の流れを避けるように道の端へ寄った。
弓を置き、ベルクを残して走った。ファリクのところへ戻ることもできず、最後にはノアまで森に残して、自分だけが街へ帰ってきた。
考えないようにしていたことが、さっきの男の声を借りて何度も戻ってくる。
――仲間置いて逃げたっての。
ミレイユは宿へ戻るまで、顔を上げなかった。
次にギルドへ向かったときは、扉の前まで来たところで中から笑い声が聞こえた。
伸ばしかけた手が止まり、そのまましばらく立っていた。扉一枚隔てた向こうでは誰かが話し、また笑い声が重なる。結局、取っ手に触れることもできないまま宿へ戻った。
別の日には、通りの向こうにギルドが見えただけで足がそちらへ向かなくなった。
宿へ戻ってベッドに腰を下ろすと、窓から差し込んでいた陽が少しずつ傾いていく。何をするでもなく眺めているうちに部屋は暗くなり、気づけば外を歩く人の声も少なくなっていた。
そんな日が、いくつか続いた。
いつからそうしようと思っていたのかは、自分でも分からない。
ある朝、気づけば開いた鞄の前に座り、着替えを畳んでいた。何日分あればいいのかも考えないまま手を動かし、財布を入れ、入りきらなくなったものを一度取り出しては、また詰め直していく。
手元に残ったノアのタグを見て、動きが止まった。
隣には、小さな布包みがある。
しばらく見つめたあと、二つとも鞄の奥へ入れた。
それで持っていくものはなくなったはずなのに、ミレイユは鞄を閉じなかった。開いたままの中身を眺めているうちに朝の光が床を移っていき、ようやく留め具へ手をかけた。
翌朝、鞄を持って宿を出た。
宿の主人にどこまで行くのかと聞かれても、答えは出てこなかった。
「……少し、出てきます」
それ以上は聞かれなかった。
外へ出ると、朝の通りにはすでに人の姿があった。店の戸を開ける音や荷車の車輪が転がる音を聞きながら歩いていると、向こうから顔を知っている冒険者がやってくる。
ミレイユは道の端へ寄った。
やがて建物の間から街の門が見えてきた。
門番の横を通り抜けると、石を敷かれていた足元が土へ変わる。背後から聞こえていた人の声も、荷車の音も、歩くほどに小さくなっていった。
ミレイユは一度も振り返らなかった。
***
「ミレイユ」
名前を呼ばれ、顔を上げた。
開いたままの帳簿に、机の端へ積まれた依頼書。離れたところでは冒険者たちが話していて、扉が開くたびに外のざわめきが入り込んでくる。
向かいに立っていた職員が、手にした書類を持ち上げた。
「聞いてた?」
「……ごめんなさい。もう一度お願い」
「こっちは終わったから、あとはホルトさんの確認が取れれば出せるって話」
「あ……そうだったわね。ごめんなさい」
受け取った書類へ目を落としたものの、すぐには手が動かなかった。
昼前に出た捜索隊には、ラウルたち三人と道案内のマルセルが加わっている。もう街を離れてしばらく経つはずなのに、気づけば壁に掛けられた時計を見ていた。
「ミレイユさん」
今度は医務室の方から声がした。
「エリオが起きたって」
「……分かった。今行くわ」
医務室へ入ると、エリオは寝台の上で身体を起こしていた。固定された脚を掛け布の上へ伸ばし、枕元にはほとんど減っていない水が置かれている。少し前まで眠っていたのか、髪も乱れたままだった。
ミレイユに気づくなり、エリオが尋ねる。
「ミレイユさん、捜索隊は?」
「もう出たわ。お昼前に」
「マルセルも?」
「一緒よ。道を知ってるから」
「……そう、ですか」
それきり言葉が続かなくなり、ミレイユは寝台のそばにあった椅子へ腰を下ろした。
「カイル……帰ってきますよね」
沈黙に耐えきれなくなったように、エリオが続ける。
「昨日、俺を逃がすために残ったんです。俺が動けなくなったから……カイルが俺を担いで、途中まで来て……それで……」
握られた掛け布に深いシワが寄る。
「俺がいなかったら、あいつも逃げられたかもしれない」
エリオの声が小さくなる。
「……怖かったんです」
「うん」
「ずっと……カイルが戻ってこなかったらって」
「うん」
「俺だけ帰ってきて……」
そこまで言ったところで声が詰まった。顔を覆った指の間から涙が落ち、堪えようとするほど呼吸が乱れていく。
ミレイユは背中を撫でることも、無理に言葉をかけることもせず、ただ隣に座っていた。
「……すみません」
「謝らなくていいわ」
「でも、俺……」
「怖かったんでしょう?」
返事の代わりに、掛け布を握る指が緩んだ。
「だったら、泣いたっていいじゃない。情けなくなんかないわよ」
乱れていた呼吸が少しずつ戻っていくまで待っていると、エリオが腕で目元を拭った。
「……妹に、こんな顔見せられないな」
「そうね。でも妹さんが見たら、泣いたことよりそっちを怒るんじゃない?」
ミレイユが固定された脚を示すと、エリオもそちらを見る。
「……たぶん」
「でしょうね。私でも怒るもの」
「……ミレイユさんもですか」
「当然でしょ」
ようやく返ってきた言葉に、張りつめていた空気がほんの少し緩んだ。
「先生に聞いたわ。ちゃんと治療を続ければ、二週間くらいで普通に歩けるようになるそうよ」
「二週間……」
エリオは脚を見つめたまま黙り込んだ。
妹と二人で暮らしていると聞いている。仕事に出られない二週間が何を意味するのかくらい、わざわざ尋ねなくても分かる。
「今回の報酬がどうなるかも含めて、ホルトさんに相談してみるわ」
「でも、そこまでしてもらうのは……」
「まだ相談するだけよ。だから、今から遠慮しなくていいの」
何か言いたそうにしていたエリオも、最後には小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
エリオの呼吸がすっかり落ち着いたのを見届けて、ミレイユは椅子から立ち上がった。
医務室へ戻ろうとしたところで、もう一度エリオを見る。
「……えらいじゃない」
「え?」
「ちゃんと帰ってきたんだから」
ミレイユは少しだけ声を軽くした。
「足が治ったら、またごはん誘ってくれる?」
「…………」
エリオは泣いた跡を残したまま、頷いた。
「……誘います」
「じゃぁ、早く治さないとね」
「……はい」
それで話を終え、ミレイユは医務室を出た。
受付へ戻ると、机には途中だった仕事が残っていた。書類を手元へ寄せて続きを確認しているうちに、扉の開く音が聞こえてくる。
入ってきた二人組の冒険者のうち、一人が受付にいるミレイユを見つけ、隣の男の腕を小さく叩いた。
「ほら」
「分かってるって」
声を潜めたつもりらしい。
二人がさっきまでより妙に姿勢を正して近づいてくるのを見ても、ミレイユは何も気づかなかったふりをした。
「おかえりなさい」
「あ、はい。ただいま戻りました」
返事をした男の声が少しだけ上ずり、隣から肘で小突かれて慌てたように依頼書を差し出してくる。
「依頼、終わりました。問題なく」
「本当に?」
「え?」
ミレイユの目は、もう一人の立ち方に向いていた。片方の脚を庇っているのが、受付まで歩いてくるあいだにも見えている。
「足、どうしたの?」
「あー……ちょっと足を捻っただけです」
「ちょっと、ね」
「いや、本当に大したことないですから。歩けてますし、このくらいなら――」
さっきまで上ずっていた声が、今度は妙に早口になっている。
ミレイユは差し出された依頼書を受け取った。
「そう。でも、一応報告が終わったら医務室に寄ってね」
「いや、でも――」
「お願い」
微笑んで言うと、男は続きを飲み込んだ。
隣にいた仲間が堪えきれずに吹き出す。
「断れるわけないだろ」
「じゃぁ、先に飲みに行ってるぞ」
「あら、あなたが連れていってくれるんでしょう?」
その一言で、笑っていた方まで姿勢を正した。
「……俺がですか?」
「一人だと、医務室行かないでそのまま帰っちゃうでしょ?」
「…………」
「せっかく二人で帰ってきたんだから、最後まで付き合ってあげて」
「……分かりました」
「ありがとう」
ミレイユは受け取った依頼書を開き、二人が揃って受付の前に立つのを待った。
「それじゃあ、何があったのか聞かせてもらえる?」
六年前、ミレイユは自分だけが帰ってきたことを許せなかった。
あの日の自分を、今も許せたわけではない。
それでも今は、「おかえりなさい」と微笑んで、帰ってきた誰かを迎えている。
***
それから数日後。
ギルドを訪れたリントが受付へ近づくと、ミレイユは待っていたように声をかけた。
「リントくん。ちょうどよかった」
「俺ですか?」
「ええ。ホルトさんから頼まれてたのよ。あなたが来たら渡してくれって」
机の下へ手を伸ばし、引き出しを開ける。
何枚か重なった書類を避けたところで、その奥にしまわれていた小さな髪飾りが覗いた。
リントの視線が、そこに留まる。
ミレイユは気づかないふりで、目当ての依頼書を探した。
「……気になる?」
「いや……いつもつけてるのと、また雰囲気が違うなって」
「ふーん、よく見てるのね」
「まあ……それくらいは」
「……これはつけないのよ」
「そうなんですか?」
「うん」
目当ての依頼書を抜き取り、ミレイユはそのまま引き出しを閉じた。
「……もらいものですか?」
「なぁに? やきもち?」
「いや、そういうつもりで聞いたんじゃ……」
「ふふ、冗談よ」
取り出した依頼書をリントの前へ差し出す。
「はい。こっちが本題」
「依頼?」
「そう。ローズベルグ家から」
リントは受け取った依頼書を開き、書かれている内容へ目を通していく。
「……護衛?」
「ええ」
ミレイユは頬杖をつき、小さく笑う。
「ヴェルナさんのね」




