第9話「帰り道の約束」
前回のあらすじ
グランツハイム伯爵家から派遣された技師を護衛し、シルヴァハイム西方の渓谷へ向かったカイル、エリオ、マルセルの三人。
翌日の夕方、ギルドへ戻ってきたのは、負傷したエリオとマルセル、そして護衛対象の技師だけだった。
帰路で魔物に襲われ、エリオが歩けなくなったことで、カイルは一人その場に残ることを選ぶ。
全員で逃げるより、自分が魔物を引きつけた方が生き残れる可能性が高い――そう判断してのことだった。
「あとで返せ」
そう言ってマルセルへ自身のタグを預けたカイルは、あとから追いつくつもりだった。
しかし、決めていた場所で待っても、カイルは戻ってこなかった。
ギルドへ帰還したマルセルは救助を求めるが、金だけでなく、夜の山岳地帯へすぐに向かえる冒険者も足りない。
ギルド長ホルトは救助の準備を進めるものの、今すぐ人を出せるとは約束できなかった。
「俺だけ帰ってきて、ここで待ってろっていうのかよ!」
その言葉を前に、ミレイユは何も答えられなかった。
ただ――「仲間を置いて帰ってきた」という言葉に、その指先だけが、ほんのわずかに動いていた。
村へ最後の荷を運び込んだ頃には、山の向こうへ傾いた陽が、家々の屋根を赤く染め始めていた。
塩に保存食、布、治療薬。街では珍しくもない品でも、山を越えた先にあるこの村では簡単には手に入らない。二日前には隙間なく木箱が積まれていた荷台も、今はすっかり空になっている。
「これで全部だな」
依頼書と荷台を照らし合わせていたベルクが、確認を終えた書類を畳んだ。
「明日は朝から戻る。今日はもう仕事は終わりだ」
「やっと終わったぁ……」
ミレイユが大きく伸びをすると、すぐ横から声が飛んできた。
「お前、ほとんど荷物持ってないだろ」
「失礼ね。私だってちゃんと働いてたわよ」
「治療薬の箱一つ運んで、重い重いって騒いでたの誰だよ」
「女の子に重い物を持たせる方が悪いと思わない?」
「冒険者だろ、お前」
呆れたように言うノアを見て、ミレイユはわざとらしくため息をついた。
「こういうときくらい優しくしてくれてもいいのに」
「昨日お前の荷物まで持った」
「あれは足場が悪かったからでしょ?」
「じゃあ返せよ、俺の優しさ」
「もう使っちゃった」
「何にだよ」
近くで荷台を確認していたファリクが、吹き出した。その横で、ベルクは空になった荷台をもう一度確かめる。
「宿に入るぞ。寝る前に明日の準備だけ済ませておけよ」
「はーい」
「返事だけはいいな」
「ベルクさんまで酷くないですか?」
歩き出したベルクを追って、村の小さな通りを進む。
軒先には野菜や干し肉、布や日用品が並び、店じまいを始めている家も多い。その一角を通り過ぎようとして、ミレイユの足がふと止まった。
布や糸、針に混じって、手作りらしい装飾品がいくつか並んでいる。
「ミレイユ?」
先からノアの声がした。
「なに?」
「いや。行くぞ」
「分かってるわよ」
それだけ言って、ミレイユは三人に追いついた。
***
夕食を終えたあと、ベルクが卓上に広げた簡単な地図を指でなぞる。
「昼過ぎには山を抜ける。あとは街道沿いだ。何もなければ夕方には戻れるだろう」
「何もなければ、かぁ」
頬杖をついたミレイユの言葉に、ベルクが顔を上げた。
「言うな。そういうことは」
「私のせいになるんですか?」
「何かあったらな」
「横暴だわ」
ファリクが笑う横で、ノアは残っていた飲み物を口にしている。
「ノアも何か言ってよ。相棒が濡れ衣を着せられてるのよ?」
「日頃の行いじゃねえの? 俺を巻き込むな」
「へえ……?」
ミレイユが身体ごとノアへ向き直ると、露骨に嫌そうな顔をされた。
「おい、その顔やめろ。今から面倒くさいこと言いますよって顔」
「失礼ね……」
二人を眺めていたファリクが、ふと首を傾げた。
「そういや……お前ら、付き合ってるのか?」
一瞬だけ、卓が静かになる。
ミレイユが楽しそうに目を細めた。
「どう見えます?」
ノアがすぐに口を挟んだ。
「余計なこと聞かないでください。こいつ調子乗るから」
「ちょっと、調子に乗るってどーゆー意味よ」
「そのままの意味だよ、すぐ面白がるだろ」
「へえ。じゃあノアは、私たちがどう見えると思ってるのかしら?」
「ほら、だから言ったでしょ」
ファリクが笑っている。ベルクまで口元を緩めている。
「まだ何も言ってないわよ?」
「これから言うんだろ」
「よく分かってるじゃない」
「孤児院から何年一緒にいると思ってんだ」
何でもないように返された言葉に、ミレイユはほんの一瞬だけ黙った。
「だったら、もう少し女心も分かってほしいものね」
「無茶言うな」
「ほら、そういうところ」
ファリクはすっかり面白がっていた。
***
翌朝、宿を出る頃には、山あいに残っていた朝露も薄れ始めていた。
三日目ともなれば出発の支度にも迷いはない。ベルクが御者と帰路を確かめている間に、ファリクは自分の荷をまとめ、ノアとミレイユもそれぞれ装備を確かめていく。昨日まで守るべき荷を積んでいた馬車には、村から返された空箱がいくつか残るだけだった。
村を出てしばらくした頃、ミレイユは隣を歩くノアへ顔を向けた。
「ねえ、ノア。今日、帰ったら何食べる?」
「ん? もう帰ったあとの話かよ」
そう言いながらも、ノアは少し考えるように前を見た。
「……肉だろ?」
ミレイユが目を瞬く。
「どうして分かったの?」
「三日も保存食ばっかだったからな。そろそろ言い出すと思ってた」
「さすがね、じゃぁお店は?」
「あそこだろ。ロートホルン、大通り一本入ったとこの店」
ミレイユの顔が明るくなった。
「そこ! よく分かってるじゃない」
「まあな、俺もあそこの肉がすきなんだよなぁ」
少し得意そうな横顔がなんだか可笑しくて、ミレイユは笑った。
一つ年下のくせに、こういうところだけは妙によく見ている。
「ファリクさんも一緒にどうです?」
ミレイユが前を歩くファリクへ声をかけると、肩越しに振り返った。
「何がだ?」
「帰ったあとのご飯です」
「お、いいな」
その返事に気をよくしたミレイユは、さらに前を行くベルクにも声を飛ばした。
「ベルクさんもどうです?」
「街に着いてから考える」
「だそうです」
「何が『だそうです』だよ」
ノアの返しに、ミレイユはくすくすと笑う。
「じゃあ、四人で行きましょう」
「俺はまだ行くとは言ってないぞ」
「でも、行かないとも言ってませんよね?」
ベルクは何か言い返しかけたものの、結局そのまま口を閉じた。隣ではファリクが笑いを堪えていた。
「ベルク。諦めろ。たぶんもう人数に入ってる」
「お前まで勝手に決めるな」
「楽しみになってきたな」
ノアが口を挟むと、ミレイユは満足そうに頷いた。
そんな二人を見て、ベルクは小さく息を吐いた。
「遅れるなよ」
「はーい」
「返事が軽い」
「ちゃんと聞いてますって」
山道へ入ってからも、帰路は順調だった。
午前のうちは緩やかな登りが続いたものの、往路で一度通っているぶん歩調を乱すこともない。途中、御者が馬を休ませたいと言えばベルクは迷わず足を止めた。予定より少し遅れる程度なら、馬を潰すよりずっといい。
昼前には風を遮る岩陰を見つけ、そこで簡単な食事を取った。
「あと半日か」
硬いパンをちぎりながら、ファリクが空を見上げる。
「ファリクさん」
声に顔を向けると、ミレイユがこちらを見ていた。
「さっきの話、本当に来ます?」
「飯か?」
「はい」
「行くって言っただろ」
「ベルクさんはまだ言ってませんけど」
「カミさんが待ってるからなぁ」
少し離れたところで休んでいたベルクが、ファリクを睨んだ。
「勝手に断るな」
「じゃあ行くのか?」
「帰ってから聞いてみる」
「結局カミさん次第じゃねえか」
ファリクが笑うと、ベルクも否定はしなかった。
昼の休憩を終える頃には、朝から続いていた登りもほとんど残っていなかった。そこからしばらく進むと道は緩やかな下りへ変わり、木々の少ない山肌の向こうに、往路でも通った森林地帯が見え始める。
「あそこまで下りれば、あとは楽だ」
ベルクが斜面の先を示すと、ファリクが待ってましたとばかりに肩を回した。
「やっと平らな道か」
「馬も喜んでるよ。行きは何度も恨めしそうな顔でこっちを見てたからな」
御者の言葉に、ミレイユが馬へ目をやった。
「分かるんですか?」
「長く付き合ってりゃな」
ノアが横から馬の顔を覗き込む。
「お前より馬の方が分かりやすそうだな」
「馬……ねぇ、それどういう意味よ」
「別に、そのままの意味」
ミレイユが何か言い返そうとしたところで、ノアはさっさと前へ逃げた。
「ちょっと、待ちなさいよ」
追いかけるほど本気でもない。それでも腹立たしげな声だけは投げておくと、ノアの肩がわずかに揺れた。
森へ入る頃には、陽もずいぶん西へ傾いていた。
山肌を吹き抜けていた風は木々に遮られ、葉の重なる天蓋から落ちる光も柔らかい。細い街道は荷馬車が通れる程度には踏み固められているものの、緩い斜面と岩肌の間を縫うように曲がっており、少し進めば来た道さえ木々の向こうへ隠れてしまう。
ベルクが歩調を落とす場所も、御者が車輪を気にする曲がり角もなんとなく眺めていた。
だから、少し前を行くベルクの足が緩んだときも、ミレイユはすぐには気に留めなかった。
少し先には緩い曲道がある。その向こうを確かめているのだろうと思ったが、ベルクは進まない。
槍を携えた右手が、いつの間にか柄の位置を確かめるように添えられていた。
「……ベルクさん?」
返事の代わりに、ベルクの視線が街道を外れる。
木々の奥には薄暗い斜面が続いているだけで、ミレイユには何も見つけられなかった。
ファリクも気づいたらしい。昼までの気安い表情を消し、盾を構え腰に下げた短剣へ手を添えながら周囲を窺っている。
それを見た瞬間、ミレイユの中からも笑いの余韻が消えた。隣にいたノアは、もう何も言わない。
「馬車を止めろ」
ベルクの指示に御者が応じると、それまで一定に続いていた蹄と車輪の音がゆっくり失われていった。
静かになって初めて、森がこんなにも多くの音で満ちていたことに気づく。
頭上で葉が擦れ、どこか遠くで鳥が鳴いている。風が枝を揺らすたび、木漏れ日も足元で形を変えた。どれもさっきまで聞こえていたはずの音なのに、今はその一つ一つが何かを隠しているように思えた。
ミレイユは弓を握りながら、ベルクが見ている先へ目を凝らした。
「……どこですか?」
「まだ見えん」
ベルクにも見えていない。
ミレイユはもう一度、薄暗い斜面を探った。木の幹、その奥に重なる枝、風に揺れる下草。
何かが動いた気がして視線を向けても、そこには何もいない。
見つけられないのに、いる。
弓を握る指に、じわりと汗が滲んだ。
しばらくして、木々の奥から妙な声が聞こえた。
低い唸りではない。短く途切れながら、喉の奥で引っかかるように繰り返される。
――笑っている。
一瞬、そう聞こえた。
人間のものに似ているのに、そこに人間らしい温度がまるでない。
背筋を冷たいものが這い、ミレイユの中に知識として覚えていた特徴が浮かび上がった。
ベルクが槍を構える。
「グリムハイエナだ」
その名に、弓を握る指へ一気に力が入る。
実際に遭遇するのは初めてでも、特徴は教わっている。
知っているはずなのに、森の中で聞くあの声は、教わったものよりずっと近く感じた。
隣ではすでにノアが剣を抜き、少し前にいるファリクも森の奥から視線を外していなかった。
ベルクの声にも焦りはなく、それを聞いているうちに、胸の奥に浮いた緊張も少しずつ収まっていった。
大丈夫。やることは分かっている。
もう一度、鳴き声がした。
今度は――先ほどとは違う。
ベルクの目が反対側の斜面へ動き、ファリクも同じ方向を見た。
「……二匹か」
その声に、緊張が増した。
ベルクは槍の穂先を森へ向けたまま、背後にいる三人へ届く声で告げる。
「離れるな。姿が見えるまで手を出すな」
ミレイユは矢を一本抜き、弓を構えた。
すぐ前にはノアの背中がある。少し離れた左手にはファリク。そのさらに先で、ベルクの穂先だけが木漏れ日を鈍く返している。
誰も急かさない。先ほどまで聞こえていた笑い声も、いつの間にか消えていた。
弦を引くにはまだ早い。
分かっている。それなのに、いつでも引けるところまで指を掛けてしまう。
木々の隙間を追っていた視界の端で、黒いものが横切った。
「……いました」
声を落としたつもりだったが、ベルクには届いたらしい。
「どこだ」
「右です。あの太い木の奥――」
示した先で、灰黒色の頭が幹の陰からわずかに覗いた。
低く垂れた首から肩にかけて厚い筋肉が盛り上がり、前へ突き出した口元からは牙が覗いている。こちらをうかがう目だけが妙に静かで、獲物を前にした獣のたかぶりが感じられない。
ミレイユが矢先を向けると、頭はするりと幹の裏へ消えた。
「撃つな。そのまま見てろ」
引きかけていた弦を緩める。
「もう一匹は?」
ファリクに問われ、ミレイユは反対側の斜面にも意識を向けた。
見つからない。
さっき確かに声は二つ聞こえた。それなのに木々の間へいくら探しても、重なり合う枝葉と風に揺れる下草ばかりで、獣の姿はどこにもない。
「そっちは?」
ベルクが振り返らずに尋ねる。
馬車の後方をうかがっていたノアが、剣を構えたまま首を振った。
「見えません」
「御者。馬は?」
「まだ大丈夫だ。……だが、長くは分からん」
手綱を握る御者の声は硬い。二頭の馬も落ち着かない様子で耳を動かし、時折、地面を掻くように蹄を鳴らしていた。
「暴れそうならすぐ言え。ファリクは右、ノアは後ろ。ミレイユは俺の方を見てろ」
「はい」
見るべき場所が決まるだけで、散っていた意識が戻ってくる。
ミレイユはベルクの背中越しに、先ほど獣が姿を見せた木を狙う。
やがて、幹の向こうから再び灰黒色の頭が現れた。今度は隠れなかった。
斜面から街道へゆっくりと降りてくるにつれ、その全身が木陰からあらわになる。太い四肢に、前方へ偏った重心。肩から背にかけて隆起した筋肉は歩くたびに毛皮の下でうねり、固い地面を踏む爪の音が、離れたところにいるミレイユの耳にも届いた。
思っていたより、大きい。
それでもベルクは槍を構えたまま動かない。
グリムハイエナもまた、一定の距離を残したところで足を止めた。
しばらく互いに動かなかった。
獣の目がゆっくりと動く。
ファリクを見て、ノアへ移り、その後ろにいるミレイユを捉える。そこからまた前へ戻った視線は、最後にベルクのところで止まった。
ベルクが槍先をわずかに上げると、獣の頭が低くなる。
一歩、前へ出る。
グリムハイエナは同じだけ下がった。
ベルクが足を戻すと、また距離を詰めてくる。
「……こいつ」
ファリクの声が低くなる。
「前だけ見るな。もう一匹がいる」
ベルクの言葉に、ミレイユは弓を構えたまま周囲へ目を走らせた。木の幹、その奥に重なる枝、低い岩場へ伸びた茂み。どこにもいない。
なのに、見えている一匹だけを追うわけにはいかない。
背後で小枝の折れる音がした。
ミレイユより先にノアが反応する。
「……どこだ」
斜面から細い枝が一本、葉を引っかけながら転がり落ちてくる。
その音を追った一瞬だった。
「来るぞ!」
ベルクの声に正面へ視線を戻す。
グリムハイエナが地を蹴っていた。
ベルクへ向かって一直線に駆けてくる。
「ミレイユ、脚!」
弦を引き絞り、放つ。
矢は低く飛び、踏み込んだ前脚を掠めた。狙った場所からわずかに逸れたものの、獣の足運びが崩れる。
その一瞬を、ベルクは逃さなかった。
踏み込むと同時に槍が伸び、穂先が肩口を深く裂く。灰黒色の毛が血に濡れ、グリムハイエナが甲高い声を上げて身をひるがえした。
「入った!」
思わず声が出た。
傷を負った獣は斜面へ駆け上がり、木々の奥へ消えていく。
「追うな」
ベルクは槍を戻し、穂先についた血を確かめた。
「浅い。まだ来るぞ」
言葉とは裏腹に、ミレイユの胸を締めつけていたものが少しだけ緩んだ。
通じる。
教わってきたことも、四人で合わせた動きも。ちゃんと戦える。
そのとき、背後で馬が激しく興奮した。
一頭が前脚を跳ね上げ、つられるようにもう一頭も身をよじる。馬車が大きく軋み、御者が慌てて手綱を引いた。
「おい、落ち着け!」
馬車へ意識を向けたベルクが声を張る。
「抑えられるか!」
「やってる! だが、こいつら――!」
二頭の馬が蹄で地面を激しく叩く。
ベルクは槍を構えたまま馬車側へ数歩寄った。
「ファリク、前を見ろ。ノアは――」
「ベルク!」
突然横から飛び出した影が、ベルクへ覆いかぶさった。
槍が地面を叩き、そのままベルクと魔物は街道の端へ転がっていく。
「ベルクさん!」
ミレイユは息を呑んだ。
さっきまで何もいなかったはずの斜面から、もう一匹が出てきた。
いつからそこにいたのか分からない。
ベルクは仰向けに倒れ、その上からグリムハイエナが圧し掛かっている。開いた顎を槍の柄で受け止め、喉元へ食らいつこうとする牙を辛うじて押し返していた。
「ノア!」
ファリクが叫ぶ。
すでにノアは走り出していた。
だが、ベルクが先に動いた。
押し合っていた槍を大きく横へずらし、獣の身体を崩す。牙が頬のすぐ横を掠め、その勢いのままベルクの脇腹へ食らいついた。
ベルクの身体が跳ねた。
「――ッ!」
獣が頭を振るたび、地面を掻く靴底が土をえぐっていく。それでもベルクは槍を手放さず、片手で柄を滑らせると、穂先を自分に覆いかぶさる腹の下へ潜り込ませ、そのまま切っ先を押し込む。
グリムハイエナが身をねじったことで槍がさらに深く入り、牙が脇腹から離れた。逃れようと暴れる巨体へベルクは槍を突き刺したまま逃がさない、やがて獣の四肢が大きく痙攣すると、その身体が力を失って覆いかぶさった。
「ベルク!」
ファリクが駆け寄ろうとしたところで、森の奥から声が響いた。
あの、笑うような鳴き声に、駆け出しかけた足が止まった。
ベルクを襲った個体は動かない。
なら、今のは――。
「まだいる」
ノアが剣を向けた先で、傷を負った一匹が木々の間から姿を現した。片方の前脚を庇いながらも、逃げる様子はなかった。
ミレイユは弓を構え直した。
その途端、獣の目がこちらを向いた。
目が合った。
先ほどまでベルクへ向けられていたものと同じ、静かな目だった。
ミレイユがわずかに身を引くと、獣の頭がそれを追う。
「ノア……」
自分でも気づかないうちに名前が漏れていた。
「分かってる」
ノアは振り返らなかった。剣を正面へ向けたまま、ミレイユの前へ身体を滑り込ませる。
グリムハイエナの足が止まった。
「ミレイユ、俺から離れるな」
「うん」
「ファリクさん」
ノアに呼ばれ、ファリクが倒れたベルクと、森際にいるグリムハイエナを交互に見る。
倒れているベルクまでは遠くない。だが、残った一匹はミレイユから目を離していなかった。
「……俺が牽制する。ノア、そのまま前に立て」
ファリクが盾を構え直す。
「ミレイユはベルクのところまで行け。急げ」
ミレイユはノアの背中から離れないよう、ベルクの方へ足を進める。
それを待っていたようにグリムハイエナも動いたが、ノアがすぐに進路を塞いだ。獣は飛び込まず、斜面側へ数歩ずれて再びミレイユをうかがい、ファリクもその動きに合わせる。
三人で少しずつ進めばいい。
あと十数歩。
ベルクはまだ動いている。死んだ獣の身体を押し退けようと、地面へ肘をついているのが見えた。
「ベルクさん、今行きます!」
そのときだった。
背後で馬が激しく鳴いた。
先ほどより激しい。
二頭の蹄が地面を乱暴に蹴り、馬車が大きく軋む。
手綱を握る男の顔から、すっかり血の気が引いていた。
倒れたベルク。その上で死んでいるグリムハイエナ。地面へ広がる血。そして、まだこちらを狙っているもう一匹。
御者の目が、そのすべてを行き来した。
「……殺される」
「何?」
ファリクが聞き返す。
「もう……無理だ」
「待て。馬を動かすな」
ベルクの指示を引き継ぐようにファリクが声を張ったが、御者は首を振った。
「すまない……すまない!」
手綱が鳴った。
馬が跳ねるように駆け出し、止まっていた馬車が一気に動き出す。
「おい!」
すぐ後ろから迫った蹄の音に、ノアが振り返った。
狭い街道を馬車がこちらへ向かってくる。
「ミレイユ!」
腕を掴まれた。
強く引かれ、ノアの胸元へ身体がぶつかる。直後、さっきまで立っていた場所を馬が駆け抜け、車輪が土と小石を激しく跳ね上げた。
「止まれ! 待て!」
ファリクの声が追う。
御者は振り返らなかった。馬車はそのまま曲がり道へ駆け込み、車輪の音だけを残して見えなくなる。
ミレイユも、その後ろ姿を目で追ってしまった。
視線を戻したときには、灰黒色の身体が低く沈んでいた。
「ミレイユ!」
ノアの腕が動いた。
だが、引き寄せたばかりのミレイユがすぐ横にいる。庇うように身体を入れ替えようとしたノアより先に、二人の間へ飛び込んだのはファリクだった。
肩を押され、ミレイユの身体がよろめく。
次に見えたのは、その背中だった。
向こうから飛び込んできたグリムハイエナの顎が大きく開き、鈍い音とともにファリクが大きく揺れた。牙は肩口から首へ深く食い込み、そのまま頭を振り抜いた。
ミレイユの頬へ、温かいものが飛んだ。
「ファリクさん!」
地面へ落ちたファリクから、声はなかった。
グリムハイエナは倒れた身体には目もくれず、すぐに距離を取った。
ノアがミレイユの前へ出る。
「下がれ!」
「でも、ファリクさんが――」
「下がれ! ミレイユ!」
聞いたことのない怒号だった。
「弓が――」
「いいから下がれ!」
地面へ落ちた弓へ伸びかけた手が止まった。
ノアは振り返らない。剣を構えたまま、ミレイユと獣の間を塞いでいる。
「早く!」
ミレイユは弓を残し、後ろへ下がった。
ノアも剣を構えたまま距離を合わせる。獣へ背を向けることなく、一歩、また一歩とミレイユを下がらせた。
ファリクは倒れたまま動かない、その体の下からはみるみるうちに血が地面を覆っていく。
その少し先、街道脇ではベルクが死んだグリムハイエナの下からこちらを見ていた。
馬車はもういない。
残ったグリムハイエナは森の際まで退き、こちらの様子を窺っていた。
ノアの呼吸が荒い。
剣を向けたまま、視線だけが街道を走る。
ファリク。ベルク。ミレイユ。そして、御者が消えた先。
ベルクはそれを見ていた。
「……ノア」
掠れた声に、ノアの視線が止まる。
ベルクは死んだ獣の下から抜け出そうとしていたが、脇腹から流れる血は止まっていなかった。
それでももう一度、肘を立てようとした。
「ベルクさん、動かないでください!」
ミレイユの声が飛ぶ。
ベルクは止まらなかった。脚を引き寄せようとして顔を歪め、やがて力尽きたように動きを止める。
その様子を見ながら、ノアは何も言わなかった。
荒い息を何度か繰り返してから、ベルクがノアを見る。
「……俺も」
言葉が途切れ、一度息を吸い直す。
「俺も……連れていけ」
ノアの口元が強く結ばれた。
その沈黙の中で、ベルクがミレイユを見た。
「……助けてくれ」
ミレイユは何も返せなかった。
「私が治療すれば――」
「黙ってろ」
遮ったノアの声は低かった。
「治療できれば、ベルクさんだって――」
「歩けますか」
今度はベルクへ向けた問いだった。
ベルクは何も言わず、地面に手をついた。
死んだグリムハイエナの身体から抜け出そうと腰を捻り、片膝を立てる。だが、力を込めた途端に脇腹から血が溢れ、腕が震えた。
歯を食いしばって身体を起こしかけ――そのまま崩れた。
「ベルクさん!」
駆け寄ろうとしたミレイユの前へ、ノアの腕が出る。
「行くな」
「でも!」
「見られてるんだよ!」
振り返ったノアの顔に、ミレイユは言葉を失った。
眉間には深くシワが寄り、それでも声だけは抑えようとしている。
「二人で担いで……そんなことしてたら、また来る」
森の際から、低い笑い声が重なった。
グリムハイエナは近づいてこない。こちらが何をするのか、待っている。
「馬車もない。ファリクさんも……」
そこで言葉が止まった。
すぐそばに倒れているファリクを、ノアは見なかった。
「……無理です。ミレイユ連れて逃げるだけで……もう、手いっぱいなんです」
ベルクは唇を噛んだ。
「……置いてくのか。俺を、ここに」
「……すみません」
「ふざけんな」
掠れていた声に、力が戻った。
ベルクはもう一度地面へ手をついた。脇腹を押さえていた手まで使い、今度は死んだ獣の下から脚を引き抜こうとする。
「待て……俺も行く。歩けなくても、肩を貸してくれりゃ――」
「無理です」
「やってみなきゃ分かんねえだろ!」
ベルクの怒声に、森の鳥が飛び立った。
その勢いのまま身体を起こそうとして、傷口を押さえ直した手の下から新しい血が溢れた。肘が折れ、それでも地面へ倒れきる前に踏ん張った。
「俺だって……冒険者だ」
息を整えようとしているのか、しばらく声が続かなかった。
「分かってる。分かってるから……頼む」
ミレイユは二人の間で、何も言えなくなっていた。
弓はファリクのそばに落ちたままで、そこへ取りに戻ることさえできない。
残ったグリムハイエナは今も木々の間からこちらをうかがい、少し前には、その牙がファリクの命を一瞬で奪った。
「……ミレイユ」
ベルクがこちらを見ている。
その先を待っていたが、ベルクはなかなか口にしなかった。
やがてベルクの視線が、ほんの少し下がった。
「……助けてくれ」
胸の奥が詰まった。
「ベルクさん……」
その先が出てこなかった。
ベルクも、それ以上は何も言わなかった。
しばらくして、ノアが剣を構えたまま後ろへ手を伸ばした。
「ミレイユ」
いつものように呼ばれた名前だった。
けれど、その手を取ることだけはできなかった。
「置いていけない。ベルクさん、まだ生きてるのよ」
「分かってる」
「だったら!」
「……俺だって置いていきたくないよ」
小さな声だった。
「でも、ここにいたら全員死ぬ」
木々の間を移動する灰黒色の影を前に、ミレイユは唇を噛むしかなかった。迷っている間にも、逃げられる時間だけが失われていく。
「行くぞ」
「ノア……」
「走れ」
強引に手を引かれながらも、ミレイユの目はベルクから離れなかった。
街道脇の土の上に倒れたまま、こちらを見ている。その少し手前には、ついさっきまで一緒に歩いていたファリクがいる。
「……ごめんなさい」
口からもれた瞬間、言わなければよかったと思った。
ベルクの顔が歪んだ。
怒ったのか、泣きそうになったのか、ミレイユには分からなかった。
「行け」
それだけだった。
さっきまで助けてくれと言っていた男が、もう一度だけ言った。
「……行け」
ノアに腕を引かれ、ミレイユは街道の先へ向かって走り出した。
何度も振り返りそうになった。それでも隣を走るノアの手は離れない。
曲がり道へ入る直前、とうとう耐えきれずに振り返った。
ベルクはまだ見えた。
動かないファリクの向こう、街道脇で一人、地面に身体を起こしている。そしてそのさらに奥では、灰黒色の獣がゆっくりと森から街道へ降りてきていた。
曲がり角が、その光景を隠した。
それでもノアは手を離さなかった。
引かれるまま坂を駆け下り、ミレイユは何度も足をもつれさせた。
緩やかな下り道のはずなのに、ほどなく胸の奥が焼けるように痛み始めた。
木々の間から差し込む午後の光が走るたびに揺れ、足元の土と石だけが次々と後ろへ流れていった。
どれだけ走ったのか分からない。
ベルクの姿はもう見えない。ファリクも、逃げた馬車も。聞こえるのは二人分の足音と、乱れた呼吸だけだった。
「……ノア」
「喋るな。走れ」
「ベルクさん……」
握られていた手に力が入った。
ノアは何も言わなかった。
戻ったところで何もできないのは自分でも分かっていた。
だから走った。
しばらくして街道の傾斜が緩み、前方の木々が少しずつ疎らになっていく。ノアはそこで手を離すと、速度を落とさないまま一度だけ後ろを振り返った。
「このまま行くぞ。もう少しで森を抜ける」
「……うん」
帰れる。
そう思いたかった。
ノアの足がわずかに乱れた。
あの、笑うような鳴き声。
ミレイユも思わず振り返ったが、曲がりくねった街道の向こうにはまだ何も見えない。それでも聞き間違えるはずがなかった。
「……ノア」
「走れ」
先ほどより強い声に押され、二人は速度を上げた。
肺が痛い。脚も重い。それでも止まるわけにはいかなかった。
やがて、もう一度。
振り返ったミレイユの目に、遠くの曲がり角から飛び出してくる灰黒色の身体が映った。
「前見ろ!」
ノアに言われ、ミレイユは正面へ向き直った。
追いつかれる。
息を吸うたびに喉が鳴り、腿の奥が熱を持つ。
それでも隣を走るノアに遅れまいと足を動かしているうちに、並んでいたはずの足音が少しずつ後ろへずれていった。
「ノア?」
「そのまま走れ」
「でも――」
「いいから」
けれど、ノアの足音は少しずつ遠ざかっていく。
「……ノア」
返事がない。
振り返ると、ノアは足を止めていた。
剣を抜いたまま、こちらへ向かってくるグリムハイエナへ身体を向けている。
「なにしてんの!」
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
ノアがこちらを見る。
「ミレイユ、聞け」
「嫌!」
「来るな!」
その怒声に、ミレイユの足がひるんだ。
ノアの声が震えていた。剣を握る手も、震えている。
「……生きて帰らないと」
ノアはミレイユを肩越しに見たまま言った。
「森を抜けたら、そのまま街道を走れ」
「嫌!」
「先に行け。俺もあとから――」
「嫌!!」
声が森へ響いた。
ミレイユは首を振りながら、もう一度ノアへ近づこうとした。
「嫌よ! ノアを置いてなんて行けない!!」
あの笑うような鳴き声が近づいてくる。
ノアはそちらへ向き直り、剣の柄を両手で握り直した。
「俺だって……」
掠れた声が途切れた。
「俺だって、怖えよ」
「だったら一緒に――」
「だから行けぇぇぇ――ッ!!」
森が震えるほどの叫びだった。
「行ってくれぇぇぇ――ッ!!」
声が裏返っていた。
それでもノアは叫んだ。
「頼むから!――走れぇぇぇぇぇッ!!!!」
動けなかった。
幼い頃、身寄りのない孤児院から一緒だった。二人で冒険者になるって出たときから何度も依頼へ出た。怪我をすれば笑われて、失敗すれば言い合って、それでも次の依頼には当たり前のように二人で向かった。
そのノアが、今は一人で剣を握っている。
「……行け」
もう怒鳴らなかった。
ノアは前を向いてちらりとも向いてくれない。
グリムハイエナがゆっくりと迫ってくる。
「ミレイユ」
呼ばれても、もう顔は滲んで見えなかった。
「走れ」
ミレイユは唇を噛み、背を向けた。
足が地面から離れない。身体のどこかが、まだノアのところへ戻ろうとしている。それでも無理やり一歩を踏み出し、滲んだ視界の中で森を走り始めた。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと戻ってしまう。
背後からノアの雄叫びが聞こえた。
震えていた声を押し潰すような、腹の底から絞り出した叫びだった。そこへグリムハイエナの笑い声が重なる。
もう一度、ノアが叫んだ。
何を言ったのかは聞き取れなかった。
ミレイユは走った。
何度足を取られても、息が続かなくなっても、ノアに言われた通り前だけを見て走った。
やがて木々が途切れ、傾き始めた陽が街道を赤く照らした。
森を抜けたが、そのまま走り続けることはできなかった。
膝に手をつき、何度も息を吸う。ようやく振り返った先にあるのは、今しがた自分が飛び出してきた森だけだった。
森の入口には誰もいない。
「……ノア」
返事はなかった。
分かっていた。
それでも街道脇まで下がり、森の奥を見つめた。
あとから行く。
そう言った。
だったら、ここで待っていればいい。
少しくらい遅くなったって構わない。怪我をしているなら、戻ってきたら自分が治せばいい。
陽はまだ残っている。
待てる。
ミレイユはその場から動かなかった。
風が吹くたびに木々の葉が揺れ、そのたびに顔を上げた。遠くで枝の折れる音がすれば立ち上がり、街道の先に目を凝らす。
何も来ない。
陽が傾いていくにつれて、森の奥から伸びる影が少しずつ街道へ広がってきた。それでも帰ろうとは思わなかった。
森の奥で何かが鳴った。
「……ノア?」
立ち上がって呼んでも、返事はない。しばらく森の入口を見つめたあと、ミレイユはまた街道脇へ腰を下ろした。
どれほどそうしていたのか分からない。
気づけば空は赤く染まり、森の入口は夜の色で染まり始めていた。
「……遅いわよ」
返事はなかった。
「何してるのよ……。もう森、抜けたんだから」
いつもなら、何か返ってくるはずだった。わかってるだの、うるさいだの。そんな一言でいい。
「ご飯……」
その先が出てこなかった。
今朝、四人で話していた。
街へ戻ったら何を食べるか。誰が一緒に行くのか。
笑っていたファリクの顔が浮かんだ。
そのすぐあとに、地面へ倒れたまま動かなくなった背中が重なる。
『……助けてくれ』
喉の奥が詰まった。
ベルクは、まだ生きていた。
助けてくれと言っていた。
それなのに、自分は――
「……ごめんなさい」
声にした途端、堪えていたものが崩れた。
「ごめん……なさい……」
両手で顔を覆っても、涙は止まらなかった。息を吸おうとするたびに喉が震え、押し殺しきれない嗚咽が指の隙間から漏れる。
最後に浮かんだのは、剣を握ってこちらを見ていたノアだった。
「ごめんなさい……っ」
何度謝っても、誰からも返事はなかった。
どれほど泣いていたのかも分からない。やがて声を出す力もなくなり、ミレイユは膝を抱えたまま、森の入口を見続けた。
辺りはもう暗くなっている。
それでも立ち去れなかった。
「……あとから来るって、言ったじゃない……」
小さな声は、抱えた膝の中で消えた。
街道に伸びていた自分の影が夜の中へ溶けていっても、森の入口から目を離せないでいた。
けれど、ノアは戻ってこなかった。




