君野×貴聞「犬を超えてくるな、御曹司」
「君野様。当主様よりお達しです」
朝、レイヴンの散歩へ出かけようとしていた僕を、等々元さんが呼び止めた。
「なんですか?」
「貴聞様とのご関係について、外部の人間に知られることのないように、と」
「……あ、はい」
ようやく僕らの関係は認められた。
けれど、あの白戸家の長男だ。
彼にも、いろいろと制約があるらしい。
「分かりました!気をつけます」
僕はレイヴンを連れて屋敷を出た。
今日はグレーのパーカーにデニム。
「ヴンちゃん、今日はちょっと遠くまで行ってみようか」
「ワン!」
天気もいい。
いつもと違う道にレイヴンも喜んでいた。
「あれ……ここどこだっけ」
そして僕は、自分が方向音痴だったことを忘れていた。
入り組んだ住宅街を迷っていると、立派な建物が見えてきた。
「あれ?」
中央廊下を歩く学生たちの制服には見覚えがある。
「貴聞くんの学校、ここなんだ……」
今頃、何してるのかな。
少しだけ見てみたい。
けれど、自分の格好を見下ろした。
「僕、不審者になっちゃうな…」
帰ろう。
遠目から校舎を眺め、踵を返した時だった。
「……ヴンちゃん?」
レイヴンが立ち止まり、長い鼻先を上げる。
次の瞬間。
ダッ!
「えっ!?」
リードが強く引かれた。
「ヴンちゃん!待ってってば!」
レイヴンは僕を引きずり、一直線に学校へ向かっていく。
「そっちはダメだよ!」
そして――。
「ヴンちゃあああん!!」
僕を引きずったまま、堂々と校門を突破した。
最近の白戸貴聞は、おかしい。
名家の子息令嬢が集まるこの学院でも、白戸家は別格。
クラスメイトの多くが貴聞との親交を望み、彼の一挙一動を気にしていた。
だから、その異変にもすぐ気づいた。
いつも隙一つなく、制服に皺一つ作らない男。
その貴聞が――。
「白戸くん。教科書は?」
「…………」
教師に言われて初めて気づいたように、机と鞄を見る。
「……忘れました」
教室が静まり返った。
「と、隣の人に見せてもらってください」
顔色が悪いわけではない。
ただ、何かに精気でも搾り取られたように魂が抜けている。
「さっきぶつかった俺のせいか?」
「いや、バレーで足引っ張ったから俺かも……」
「……はぁ」
貴聞がため息をつくだけで、教室の温度が下がった。
その時。
「……なんだ、あれ」
窓際の生徒が校庭を指差した。
「犬?」
「なんで学校に犬!?」
巨大な黒い犬が校庭を爆走している。
その後ろでは――。
「わああああああ!!」
男がリードを握ったまま盛大に引きずられていた。
「ワンワン!!」
その鳴き声に、死んだようだった貴聞の目が動く。
「……レイヴン?」
そして、男を見た瞬間。
「吉郎!!!!」
絶叫が教室を揺らした。
貴聞は教室を飛び出していく。
「白戸くん!?」
教師の声も届かない。
生徒たちは一斉に窓へ張りついた。
「吉郎!!」
「あ!貴聞くん……!」
まずい。
朝、あれだけ等々元さんに言われたのに!
僕は擦り傷と泥だらけで、校庭のど真ん中に転がっていた。
貴聞くんを見るなり、レイヴンが大喜びで飛び跳ねる。
「レイヴン、伏せ」
「くぅ〜ん」
一声で大人しくなった。
「……よし。いい子だ」
頭を撫でた貴聞くんが、僕を見る。
「あう……ごめんなさい。こんな、みんなの前で……」
校舎の窓には無数の生徒。
今、貴聞くんに助けられたら――。
「吉郎」
彼の目が、僕をとらえた。
「僕の魔法が叶ったみたい」
「魔法?」
「学校に吉郎がいてくれたらなって、ちょうど考えてたんだ」
「あ……」
僕は悟った。
この貴聞くんはダメだ。
今、出てきちゃダメなやつ。
「吉郎……」
案の定、とろけた目で僕に覆い被さってきた。
顔が近づく。
「ダメダメダメダメ!!今はダメ!」
止まらない。
それ、夜にしか見せてはいけないやつ…!
「ヴンちゃん!タッチ!!」
「ワン!」
レイヴンが貴聞くんの背中へ飛びつく。
「…………」
口を開けたまま、彼は止まった。
「僕たちの関係、外にバレちゃダメだよ!」
「…………」
明らかに不満そうだ。
けれど、諦めたらしい。
視線を落とす。
ぺろり。
舌なめずりした。
「え?」
次の瞬間。
首筋に吸いつかれた。
「ひゃあ!?」
「ワンワン!」
レイヴンまで興奮して僕たちの周りを走り回る。
「貴聞くん!それもダメぇ!」
全身に電気が走ったまま。
気が済んだのか、ようやく離れた。
「吉郎、愛してる」
「え?」
「…吉郎は?」
「も、勿論愛してるよ……」
満足したらしい。
貴聞くんは手の甲で口元を拭った。
「等々元を呼んでおくね。近くの公園まで迎えに来てもらおう」
「うん……」
「大丈夫。皮肉も言わせないから」
僕は何も言わず、首筋を押さえた。
貴聞が教室へ戻ると、全員の視線が集まった。
「白戸くん。一体、何をしていたんですか?」
女教師が皆の疑問を代弁する。
「何か揉め事でも?」
貴聞はいつもの涼しい顔を崩さなかった。
「ああ。うちの使用人です。僕の犬が暴走したようで」
教室がざわつく。
「2度とこんなことがないよう、ペットには教えておきました」
「……教えた?」
「次にあの使用人が失態を犯したら、首元に噛みつくように、と」
「…………」
再び教室が静まり返る。
「……さすが白戸家」
「使用人も大変だな……」
「やることが違う……」
そんな声をよそに、貴聞は何食わぬ顔で席についた。
「授業を続けてください。皆さんも座って」
冷めた声。
皆が静かに教科書を開く。
朝まで魂が抜けていた男とは思えないほど、その顔は晴れやかだった。
【完】




