君野×桜谷「レーズン」
君野くんが本当に私のものになってから、1年が過ぎた。
彼はいつもニコニコしていて可愛くて、気も利く良い人だ。
だから、何も不満はないはずだった。
今日は中学校も休み。
私は君野くんと2人でデートをしていた。
やってきたのは、私のお気に入りの書店。
「桜谷さんはどこ見るの?」
「参考書の方」
「じゃあ、僕は漫画の方行ってくるね!」
そう言うなり、君野くんは1人、早足で棚の奥へ消えていった。
好きなものが目の前にあると、そのことしか考えられない。
まるで、おやつを目の前にした愛玩ペットみたい。
こんな時でさえ、ふと思ってしまう。
――私は漫画に負けたの。
……なんて。
でも、もうそんな独占欲はおしまい。
私は一度深く息を吐くと、参考書の棚へ向かってゆっくり歩き出し、参考書の棚までたどり着いた。
――はず、だった。
「……はっ」
「桜谷さん。ここにいたんだね。探したよ」
声に振り返る。
君野くんはもう漫画を買ったらしく、片手に包装された本を抱えていた。
「あ、あれ……私……」
参考書を探していたはずなのに。
「桜谷さん、少女漫画読むんだね!ここにいると思わなかった」
「!」
その言葉で、ようやく周囲を見る。
並んでいるのは、参考書ではない。
少女漫画だった。
「壁ドン顎クイ俺様至上主義?」
「ひゃっ!」
手にしていた本のタイトルを読まれ、反射的に棚へ戻した。
「ち、違うの……!参考書と間違えたみたい」
「参考書はあっちだよ!」
「そ、そうよね……ごめんなさい」
私は逃げるようにその場を離れながら、ひとり顔を伏せた。
――私は一体、無意識に何を参考にしたくて、これを持っていたの。
……いや。
分かっている。
君野くんと付き合ってから、最近こんなものばかりが目につくようになった。
分かっている。
私は今、とても欲張りになっている。
ダメよ。
幸せにあぐらをかいたら。
――母親みたいにはなりたくない。
「それ、欲しいの?」
「ううん……行きましょう」
私はそう答えると、そそくさと書店を出た。
恥ずかしい。
成年向けの本を買うところを見られた時って、こんな気分なのかしら……。
けれど、店を出ても先ほどのタイトルが頭から離れない。
『壁ドン顎クイ俺様至上主義』
君野くんが、1日だけ俺様になったら――。
「……」
何を考えているの、私。
はしたない。
「壁ドン……顎クイ……俺様……」
「ん?なに?桜谷さん」
「な、なんでもない!」
隣から覗き込んできた君野くんに、慌てて顔を背ける。
そんな私の頭の中など知る由もなく、君野くんはいつものようにニコニコ笑っていた。
彼の家に着くと、2人で君野くんの部屋へ向かった。
早速買った漫画を開封した君野くんは、ソファに座りながらくすくすと笑い始める。
「……」
彼は子どもっぽい。
それゆえに愛嬌があって魅力的で、こんな彼じゃなければ好きになっていなかったという自負もある。
――桜谷さん。
いや、瑠璃子。
僕のものになれよ。
「はぁ……」
そんなことを言われたら、私のため息はなくなるのかしら。
その時だった。
漫画を読みながら棒状のスナック菓子を食べていた君野くんが、ふと手を止めた。
「桜谷さん」
「ん?」
横を向いた、その瞬間。
君野くんの顔が近づいた。
「な、なに!?」
「じっとしてて」
君野くんは私の顎を優しく掴む。
そして親指が、そっと唇に触れた。
「……っ!」
え!?
顎クイからの――キス!?
心臓が跳ねる。
さっきまで頭の中で繰り返していた単語が、一気に現実になった。
顎クイッッッ……!
この距離。
唇に触れる指。
まさか、本当に――?
きゅっ、と目を閉じかけた時。
君野くんの親指が動いた。
すっ。
すっ。
何度も私の唇の上を、ワイパーのように往復する。
「……?」
「黒ゴマ!」
「え?」
彼がぱっと手を離した。
「ほら!さっき食べてたお菓子の黒ゴマついてる!」
「…………」
そう言うと君野くんは、半開きになっていた私の口へ棒状のスナック菓子を1本差し込んだ。
「はい!」
そして満足そうに笑うと、何事もなかったかのように漫画へ視線を戻した。
「…………」
……え?
私は口から飛び出したスナック菓子をくわえたまま、抱きしめていたクッションに力を込める。
待って。
こんなの、『ドSの貴公子さま』にも描いてなかった。
「こういう……やり方も……」
あり?
天然の持ち味を生かせば、欲張りじゃない?
「……」
その瞬間。
私は昼に買った菓子パンへ視線を落とした。
表面には、大粒のレーズン。
「…………」
一粒。
指先で剥がす。
そして――。
ぺた。
自分の頬に貼った。
「…………」
数秒。
私は頬についたレーズンを見ようと、必死に目だけを横へ向けた。
何してるの、私。
いや。
本当に何してるの。
さっきまで「幸せにあぐらをかいたらダメ」なんて考えていた女が、彼氏に顔を触ってほしくて頬にレーズンを貼っている。
めちゃくちゃだ。
「……っ!」
猛烈な羞恥が込み上げる。
私は慌ててレーズンを剥がそうとした。
その時。
「桜谷さん」
「ひゃっ!」
顔を上げる。
漫画の向こうから、君野くんがこちらを見ていた。
「…………」
見られてた。
最初から?
どこから?
レーズンを剥がしたところ?
貼ったところ?
まさか――。
「それ、食べていい?」
「……え?」
君野くんが頬杖をつきながら、私を見ている。
「……ど、どっちを?」
言ってから、血の気が引いた。
何を聞いてるの、私!?
「……」
彼が小首をかしげる。
心なしか、その光景を楽しんでるように見えた。
「れ、レーズン!」
私は慌てて自分の頬を指差した。
「レーズン……よね?」
一瞬。
君野くんはきょとんとしていた。
けれど、すぐに意味が分かったのか。
「ふふっ」
小さく笑った。
そして――。
「レーズン!」
彼は言った。
「――っ!」
「も」
「も!?」
私の顔が一気に熱くなる。
君野くんはそんな私を見ながら、まだ楽しそうに笑っていた。
なのに、また漫画へ目を落とす。
え!?「も」は?どこ!?
「…………」
私は頬のレーズンを剥がすと、そのまま自分の口へ放り込んだ。
甘い。
でも
こんなの、少女漫画にも載ってない。
【完】




