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【力とは何か編】第九段 イスパニア(スペイン)船、来航を禁ぜられること

【力とは何か編】第九段 イスパニア(スペイン)船、来航を禁ぜられること


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大坂城が落ちてより十年ほど、下界は表向き静かに見えた。だが、この裏で、幕府はじわじわと、もう一つの戦いを進めていた。異国との付き合い方を、根本から作り替える戦いだ。

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篁様へ申し上げ候。

此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。

元和二年、幕府、唐土船を除く異国船の寄港地を平戸・長崎の二港に限り候。寛永元年、これに加え、異国の一国の来航を、ついに禁じ候~~~~~

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現代語訳

篁様、報告します。

今回見たことを書いておきます。

元和2年(1616年)、幕府は、唐土(もろこし)船を除く異国船の寄港地を、平戸と長崎の2港に限りました。寛永元年(1624年)、これに加えて、異国の一つであるイスパニア(スペイン)船の来航を、ついに禁じました。

イスパニアは、キリシタンの布教に殊のほか熱心な国だそうです。加えて、異国諸国の中でも、他国の領土を奪う野心が強いと、幕府は見ていたようです。宣教師を通じて信仰を広め、やがて人心を掌握し、最後には国そのものを奪う。かつて久秀や信長が使った「欺いて奪う」下剋上の手口と、どこか似たものを、幕府はイスパニアという国そのものに見ていたのかもしれません。

寛永6年(1629年)頃からは、長崎で絵踏みが行われるようになりました。キリシタンかどうかを、踏み絵によって確かめる、という異様な手法です。

そして寛永10年(1633年)、幕府はさらに踏み込んだ法度を出しました。老中の発行する奉書を持つ船以外、日本の船が海外へ渡ることを禁じたのです。これまでは将軍の朱印状さえあれば渡航できましたが、これからは老中という個人が、行き先まで吟味し、自らの名で許しを出さねばならなくなりました。老中一人ひとりの判断に、より重い責めが課せられることになったわけです。

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異国との関わりを、少しずつ、しかし確実に狭めていく。刀で一気に片をつけるのではなく、寄港地を絞り、一国を禁じ、渡航に許しを課す。この段階を踏むやり方は、之長や早雲のような、一気呵成の下剋上とはまるで違う質のものです。

長い年月をかけて、外側からの脅威を、少しずつ削ぎ落としていく。これもまた、一つの「攻められないための備え」なのだろう。ただ、備えを固めれば固めるほど、下界の内と外との間にある壁も、また厚くなっていく。この壁の先に何が待っているのか、我はまだ見届けねばなるまい。


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