【力とは何か編】第十段 鎖国、成ること
【力とは何か編】第十段 鎖国、成ること
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異国との間の壁は、その後も、着々と築かれ続けた。そしてついに、その壁は完成を見ることになる。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
寛永十二年、幕府、日本人の海外渡航および在外日本人の帰国を、全面に禁じ候。翌十三年には、長崎の一角に人工の島を築かせ、異国人をこの島に押し込め候。この島、扇の形をなす故、扇島とも呼ばれ候えども~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
寛永12年(1635年)、幕府は、日本人の海外渡航、そして海外にいる日本人の帰国を、全面的に禁じました。奉書船であっても、もはや渡航は許されなくなったのです。翌寛永13年(1636年)には、長崎の一角に人工の島を築かせ、ポルトガル人をこの島に押し込めました。扇の形をしていることから、扇島とも呼ばれました。
寛永14年(1637年)、島原・天草の地で、大きな一揆が起こりました。過酷な年貢の取り立てと、キリシタンへの弾圧に耐えかねた土豪や百姓が、天草四郎という若者を担ぎ、原城に立てこもったのです。幕府は九州諸大名の兵、実に12万を超える軍勢を差し向け、翌年ようやくこれを鎮めました。
この一揆に、幕府は相当な衝撃を受けたようです。翌寛永16年(1639年)、ついにポルトガル船の来航そのものを禁じました。これで、キリスト教国のうち、日本に出入りできる国は一つもなくなったことになります。
寛永18年(1641年)、平戸にあったオランダの商館は、あの扇島へと移されました。オランダは新教の国であり、布教には熱心でないと見なされていたため、唯一、貿易を許され続けたのです。ここに、「鎖国」という体制が、ひとまずの完成を見ました。
異国船を締め出し、日本人の行き来も止め、最後にはただ一つの小さな人工の島だけを、外への窓として残す。これほど徹底して壁を築いた例を、我はこれまで見たことがない。之長や早雲が城や国を奪い合っていたのと同じ時代に、この国全体もまた、外の世界との間に、一つの巨大な城壁を築き上げていたのだと、今にして思う。
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ただ、窓が一つでも残されたことには、意味があるのかもしれない。壁を築きながらも、完全に目を塞ぐのではなく、細い糸のような一筋の道だけは、残しておいた。この選択が、この先の下界にとって、どのような意味を持つことになるのか。それはまだ、我にも分からない。




