【力とは何か編】第七段 大坂城、攻め落とさるること
【力とは何か編】第七段 大坂城、攻め落とさるること
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天下はすでに家康の手にあったが、大坂城にはまだ、秀吉の忘れ形見が生きていた。この最後の火種を、家康は実に手の込んだやり方で消し去った。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
慶長十九年、秀頼の再興せし方広寺の鐘銘、「国家安康」「君臣豊楽」の文言をめぐり、家康、これを難詰いたし候。家康の名を分断し豊臣を君として楽しむ呪詛なりとの言いがかりにて、開戦の口実と相成り~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
慶長19年(1614年)、秀頼が再建した方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の文言をめぐって、家康はこれを激しく難詰しました。「家康」の名を分断し、豊臣を君として楽しむ呪詛が込められているというのです。誰の目にも無理のある言いがかりでしたが、家康はこれを開戦の口実として最大限に利用しました。
同年11月、20万とも言われる徳川方の軍勢が大坂城を包囲しました。真田信繁という者が城外に出城を築いて奮戦し、徳川方をたびたび退けたそうですが、12月には和睦が成立しました。ところが家康は、この講和の条件を無視し、内堀まで埋め立ててしまいました。城の守りを丸裸にした上で、翌慶長20年(1615年)4月、再び兵を挙げます。
豊臣方は各地で敗北を重ね、5月7日には大坂城二の丸が陥落、本丸も炎上しました。翌5月8日、秀頼とその母・淀殿は、自ら命を絶ちました。ここに、あの秀吉が一代で築き上げた豊臣家は、滅亡することとなりました。
鐘の銘文に難癖をつけ、和睦の条件をあとから反故にする。刀を交える前に、まず言葉と策で相手を追い詰めておく。これは、以前信秀が親しい相手を欺いて城を奪ったやり口や、久秀が損得で立ち回ったやり方とも、どこか通じるものがあります。家康もまた、この乱世を生き抜いてきた者として、こういう手管を隠し持っていたということでしょう。
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之長の代から始まった、この長い下剋上の物語も、ここでひとまずの大きな区切りを迎えたようです。刀で成り上がった者、茶器で人を従えた者、人の心を掴んだ者、そして言葉と策で相手を追い詰めた者――家康は、これまで我が見てきたあらゆる力を併せ持ち、そのすべてを使い切って、ついに天下を掌中に収めました。




