【力とは何か編】第五段 関ヶ原、二つの気質の激突
【力とは何か編】第五段 関ヶ原、二つの気質の激突
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秀吉の死後、家康と、豊臣家の奉行・石田三成との間に、ついに大きな亀裂が生じた。だが、この二人を見比べていると、単なる勢力争い以上の、何か根本的な気質の違いが見えてくる。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
慶長五年、家康、会津の上杉討伐に向かう折、三成、これを好機と見て挙兵いたし候。家康、これを知るや兵を返し、以後およそ五十日の間に、諸方の大名へ百五十通を超える書状を送り候由に候~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉討伐に向かっていたところ、三成がこれを好機と見て兵を挙げました。家康はこれを知ると兵を返し、以後およそ50日の間に、諸方の大名へ150通を超える書状を送りました。一人ひとりの大名の事情や不満を汲み取り、「寝返るならば、しかるべき褒美を取らす」といった、相手の心に響く言葉を選んで書いていました。
一方の三成はどうかといえば、大名たちに向けて、豊臣家への義理や、自分たちの大義の正しさを説く文を送っていました。ただ、これは道理としては正しくとも、人の心を動かす言葉ではなかった。三成という男、以前から諸大名との折衝役を務めてきた官僚でありながら、あまり人望を得られていなかった。正しいことを、正しいままに、上から下へ申し伝える。三成のやり方は、いわば昔ながらの、生真面目な武家の作法そのものでした。
結果、小早川秀秋、吉川広家をはじめ、西軍についていたはずの大名たちが、続々と東軍へ寝返りました。9月15日の合戦当日、小早川の裏切りが決め手になったとよく言われますが、私が見るに、あれは偶然の産物ではありません。50日をかけて、一人ひとりの心を掴んでおいた家康の、周到な仕込みの結果です。
正しさを説いた三成が敗れ、心を動かした家康が勝つ。これは、単なる兵力や采配の差ではないと、私は思います。
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思えば、この時代を生きてきた者は、皆すでに、之長、元長、久秀、信長、光秀、秀吉と、幾世代にもわたる下剋上を、その目で見てきた、または聞いてきた。義理や忠節を貫いた者が、必ずしも報われるわけではないことを、誰もが薄々知っていたはずなのです。それなのに三成は、昔ながらの「筋を通せば人はついてくる」という武家の作法を、最後まで信じ続けた。もしかすると、下界の大名たちの心のどこかには、そういう生真面目さを、いくらか古臭いものとして見る目もあったのではないでしょうか。
之長の代から数えて、幾人もの下剋上者たちの合理主義を見てきた我からすれば、家康のやり方は、決して目新しいものではありません。ただ、あれほど徹底して、これほど多くの人の心を、これほど周到に動かしてみせた者は、これまでいませんでした。刀の強さでも、家柄の正しさでもなく、人の心をどれだけ先に押さえられるか。この一戦は、まさにそういう時代が来たことを、はっきりと示しているように、我には思えます。




